第7話「森が、鳴いている」
開業三十一日目の朝。
日の出とともに、宿の扉を叩く音がした。
開けると、村の猟師が二人立っていた。
顔が強張っている。
「グレンの旦那、困ったことになりやした」
「どうした」
「黒角の森に入れねえんです。普段は奥にいるはずの魔獣が、森の外縁まで出てきてやがる。鹿も兎も、みんな森の外に逃げ出してる」
外縁まで。
昨夜の咆哮を思い出した。
あれは恐怖の声だった。
奥にいるはずの魔獣が外縁まで出てくるというのは、奥で何かが起きている証だ。
何かに追われている。
「分かった。少し待っていてくれ」
猟師たちを食堂に通し、セリーナを呼んだ。
セリーナは既に起きていた。
昨夜の咆哮が気になっていたのだろう。目の下の隈が濃い。
「森の方角を探れるか」
「やってみるわ」
セリーナが窓辺に立ち、片手を森の方に向けた。
指先に淡い光が灯る。魔力探査だ。
数秒の沈黙。
「……奥の方に、巨大な魔力反応がある」
「巨大?」
「B級やA級の魔獣のものじゃないわ。もっと上。何かが——目覚めた、のかもしれない」
フィーネが階段から降りてきた。
「魔獣が恐れるほどの存在……嫌な予感がしますわ」
ドルクが食堂に入ってきた。
「俺が行く」
立ち上がりかけて——右腕を押さえた。
一瞬だけ、顔が歪んだ。
すぐに元に戻したが、見えていた。
紋様が疼いているのだろう。腕を押さえる指が白くなっている。
*
宿の奥から、革の手甲を引っ張り出した。
二十年間使い込んだ、古い戦闘用の手甲だ。
引退のときに捨てようかと思ったが、なんとなく持ってきていた。
エプロンを外す。
食堂に戻ると、全員が俺を見ていた。
「ちょっと散歩してくる」
「散歩って……あなた、引退したんでしょう?」
セリーナの声は冷静だったが、目が冷静ではなかった。
「散歩だ。森の様子を見てくるだけだ」
ドルクが口を開いた。
「俺も行く」
「お前は腕が痛むだろう。村を頼む」
「……」
ドルクの拳が握られた。
「頼んだぞ」
短い沈黙の後、ドルクが言った。その声は、大声ではなかった。
窓際で、カイルが立ち上がりかけた。
「僕も——」
「お前は宿の客だ。大人しく飯でも食ってろ」
カイルの口が閉じた。
これ以上、誰かを連れていく気はなかった。
森の中で何が起きているかは分からない。
分からないものに、若い人間を連れ込むわけにはいかない。
手甲を嵌めた。
革が馴染む。手の形を覚えている。
「行ってくる」
振り返らずに、宿を出た。
*
黒角の森に足を踏み入れた。
秋の森は色づき始めている。
赤と黄の葉が地面を覆い、朝露が光っている。
静かだ。
静かすぎる。
鳥の声がない。虫の音もない。
生き物の気配が、森の入口周辺から消えている。
歩を進める。
十分ほど歩いたところで、変化があった。
茂みの奥に、目が光っていた。
大型の魔獣だ。牙と爪を備えた四足の獣が、木の影からこちらを見ている。
睨み合い——にはならなかった。
俺が一歩踏み出すと、獣は身を翻して逃げた。
左右の茂みでも、同じことが起きている。
気配が後退していく。道が開く。
なぜ逃げるのかは分からない。
俺は何もしていない。歩いているだけだ。
「俺が来たから逃げてるのか? まあ、追いかけはしないが」
首を傾げながら、さらに奥へ進んだ。
*
一時間ほど歩いて、森の中心部に辿り着いた。
巨木が円形に並ぶ広場。
地面に、古い紋様が浮かび上がっていた。
魔法陣だ。
石に刻まれた術式が、地中から浮上している。紋様の線が淡く光り、空気がびりびりと震えている。
中央に、巨大な影が横たわっていた。
体長は五メートルを超える。黒い鱗。折り畳まれた翼。太い尾。
災獣だ。
封印された魔法陣の中で眠っていたものが、陣の劣化で覚醒しかけている。
まだ目は閉じている。
だが、体が微かに動いている。鱗の隙間から魔力が漏れ出し、それが森の魔獣を恐怖で押し出している。
完全に目覚めたら、村まで被害が及ぶだろう。
目覚める前に、魔法陣を壊す。
陣を破壊すれば封印のエネルギーが消え、災獣は再び深い眠りに落ちる。はずだ。
魔法陣の四隅に、核となる石柱がある。
セリーナに何度も聞かされた。陣の核を壊せば術式は崩壊する、と。
あいつがいれば術式の解析もできるだろうが、今は力任せにいくしかない。
手甲を握り締めた。
一本目。
拳を振り下ろした。石柱が砕け散った。
地面が揺れる。魔法陣の光が歪む。
二本目。三本目。
災獣の体が痙攣した。目が薄く開きかけている。
四本目——。
全力で打ち込んだ。
石柱が爆ぜ、魔法陣の紋様が一斉に消えた。
光が消える。
空気の震えが止まる。
災獣の体から力が抜けた。
目が閉じ、呼吸が深く、ゆっくりになっていく。
再び眠りに落ちた。
「……間に合ったな」
手甲を外した。
拳の皮が少し剥けている。石柱が硬かった。
大したことはない。
手甲を嵌め直した。帰り道でも何があるか分からない。
周囲を見回す。
魔法陣の痕跡は残っているが、もう機能していない。ギルドに連絡して正式に対処してもらえばいい。
帰ろう。夕飯の支度がある。
*
宿に戻ったのは、昼過ぎだった。
三時間ほどの散歩だった。
村の入口に、人だかりができていた。
ボルド村長、リーゼ、猟師たち。そしてセリーナ、ドルク、フィーネ。カイルもいる。
全員がこちらを見た。
「おう、グレン!」
ドルクが駆け寄ってきた。顔を覗き込み、全身を確認している。
「怪我は!?」
「ない。服が少し汚れただけだ」
事実、土と葉がついているだけで傷はなかった。
「魔法陣が暴走しかけてたから壊してきた。もう大丈夫だろう」
セリーナが一歩前に出た。
「魔法陣を……壊した? 素手で?」
「手甲はしてたぞ」
革の手甲を見せた。
「災獣は?」
「目覚める前に魔法陣を壊したから、またしばらく眠るだろう。あとはギルドに連絡して正式に対処してもらえ」
セリーナが口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……あなたね」
何か言いたそうだったが、言わなかった。
フィーネが両手を胸の前で組んでいる。目が潤んでいた。
「ご無事で何より、ですわ……」
ドルクが肩を叩いてきた。力が強い。
「やっぱお前は——お前だな、グレン」
「何を言ってるんだ。散歩しただけだぞ」
ボルド村長が、杖にもたれかかるようにして立っていた。
「……散歩、とは恐れ入ったのう」
脱力した笑い声が聞こえた。
リーゼが駆け寄ってきた。
「グレンさん! 無事!? 怖かった! ずっと待ってたんだよ!」
「すまん、心配をかけたな。——ところで昼飯はまだか?」
「……そこ!?」
リーゼが叫んだ。
厨房に入った。
エプロンを締め直す。
散歩の後の飯は美味い。
今日は少し豪華にしよう。仕込んであった鶏肉のハーブ焼きと、芋のスープ。
鍋に火を入れながら、ふと窓の外を見た。
森は静かだ。
鳥の声が戻ってきている。
良かった。
村に被害は出なかった。
それだけで十分だ。
引退した身で大仰なことをする気はなかった。
ただ、隣に暮らしている人間が困っていたら、手を貸すくらいはする。
それは冒険でも戦闘でもない。
散歩だ。
少し長い散歩だった。
*
夕食後。
セリーナが厨房に来た。
「あなた、自分がやったことの意味、分かってる?」
「飯を作った」
「その前よ」
「散歩をした」
「散歩じゃないわよ! Aランク上位の災獣が覚醒する前に魔法陣を破壊するなんて、AA級パーティでも難しいことなのよ」
「目覚める前だったから楽なもんだ」
セリーナが頭を抱えた。
「あなたの『大したことない』は、いつだってそうだったわね」
隣で皿を拭いていたフィーネが、静かに微笑んだ。
「グレンにとっては本当に散歩なのですわ。二十年間、こういう散歩を続けてきた方ですもの」
それは正確ではない。
二十年間の散歩は、もっと過酷だった。今日は楽な方だ。
だが、その言い方だとますます変な顔をされそうなので、黙っておいた。
裏手のほうから声が聞こえた。
「カイルさん、今日すごかったよね! 村の入口でちゃんと構えてたもん!」
「……大したことはしてないです」
「大したことだよ! あたし、カイルさんがいてくれて心強かったもん!」
リーゼとカイルの声だ。
カイルが村の防衛に参加していたらしい。
飯を食ってろと言ったのだが——まあ、自分で選んだのなら、それでいい。
ドルクが通りがかりに声をかけたようだった。
「おう、若いの。今日は良い動きだったぜ」
「……どうも」
短い返事だが、声の温度が前と少し違う気がした。
気のせいかもしれない。
鍋を洗い終え、布巾を干した。
長い一日だった。
明日は——もう少し、静かだといいが。




