第2話「お客様、お一人ですか? ……50人?」
灯火亭を開業して八日目。
ようやく客が来た。
「こんばんはー。一泊、三人でお願いします」
夕暮れ時に現れたのは、革鎧を着た男三人組だ。
腰に剣。背中に盾。ギルド証が胸元で揺れている。
銅の縁取り——C級冒険者か。
「いらっしゃい。部屋に案内する」
二階の部屋に通しながら、少し嬉しくなった。
開業から一週間、客はゼロだったのだ。
リーゼと二人で食堂の椅子を磨く毎日も悪くはなかったが、宿屋としてはさすがに寂しい。
「夕飯はどうする。用意できるが」
「マジすか! お願いします!」
三人が目を輝かせた。
冒険者にとって、温かい飯が出る宿はそれだけでありがたいらしい。
気持ちはよく分かる。俺も二十年間、野営飯ばかりだった。
厨房に入り、レシピノートを開く。
今日の献立。
岩塩漬け干し肉の煮戻しスープ。
干し肉は戻し方で味が決まる。水ではなく、骨から取った出汁でゆっくり煮戻す。
野営の定番だが、手間をかければ化ける一品だ。
黒パンのダンジョン風トースト。
硬い黒パンを薄く切り、香草バターで焼く。表面はカリッと、中はしっとり。
深層で手に入る香草——いや、裏手に同じものが生えていたから、それを使った。
森のキノコと根菜のポトフ。
村の周辺で採れるキノコと、畑の根菜を煮込んだだけだ。味付けは塩と少しの酒。
食堂に並べる。
三人が席についた。
「いただきます」
最初の一口。
全員が黙った。
スプーンが止まり、目が見開かれ、三人が同時に顔を上げた。
「——うめえ!!」
声が揃った。
「なんだこの干し肉! 柔らけえ! 味が染みてる!」
「普通の宿じゃ硬いまま出てくるだろ! この戻し方、完璧じゃねえか!」
「この香草——待て、これ迷宮草か? 高級食材だぞ!」
迷宮草?
「裏手に生えてた草だが」
三人が顔を見合わせた。
何か変なことを言っただろうか。
「あの……ご主人、この辺に迷宮草が自生してるんですか?」
「迷宮草かどうかは知らないが、野営のときによく使ってた香草だ。同じ匂いのものがそこらに生えてる」
「そこらに……」
三人が再び顔を見合わせた。
まあ、美味いと言ってもらえるなら作った甲斐がある。
隅のテーブルでリーゼが頬杖をつきながら見ていた。
「グレンさんの料理、やっぱりすっごいね。あたしも毎日食べてるけど、村のどの家のご飯より美味しいよ」
「大袈裟だな。保存食の応用だぞ」
「保存食であの味が出るの、おかしいと思うんだけどなぁ」
リーゼが首を傾げている。
おかしくはないだろう。二十年も作っていれば、誰だってこのくらいにはなる。
*
夕食後、三人に薬湯を勧めた。
「裏手に風呂がある。湯に薬草を入れてあるから、疲れが取れるぞ」
「助かります! 実は右肩に古傷があって、ずっと痛みが取れなくて」
一人がそう言いながら、風呂場に向かった。
俺は厨房の片付けをしながら、リーゼに明日の仕込みの段取りを伝えた。
翌朝。
食堂で朝食を出していると、昨夜の冒険者が駆け下りてきた。
顔が蒼白だ。
いや、違う。蒼白ではない。むしろ血色がいい。
だが表情だけが尋常ではなかった。
「ご主人」
「なんだ」
「俺の右肩——三年間、ずっと痛み続けてた古傷が」
そこで言葉が途切れた。
右肩をぐるぐると回している。
「消えてる。痛みが、完全に」
「そうか。良い湯だっただろう。この辺の湧水は質が良いからな」
「いや、あの、質が良いとかそういう話じゃ……」
男は何か言いかけて、口をつぐんだ。
仲間二人も起きてきて、同じように体をさすったり曲げ伸ばしたりしている。
「なあ、俺も腰の痛みが消えてるんだけど」
「俺も。昨日まで曲がらなかった膝が嘘みたいだ」
三人が顔を見合わせるのは、もう何度目だろう。
湧水の質か、それとも薬草の配合が良かったか。
どちらにせよ、客が楽になったなら何よりだ。
*
それから一週間で、状況が変わった。
客が増え始めたのだ。
最初は一日に二、三人だった。
それが五人になり、八人になり、昨日は十人を超えた。
全員が冒険者だ。
「噂を聞いて来ました!」
「奇跡の薬湯があるって本当ですか!」
「飯が美味い宿があるって、ギルドで話題になってて!」
噂?
何の噂だ。
部屋は五つ。最大で十人。それを超える客には断りを入れるしかなかった。
だが断ると「頼むからなんとかしてくれ」と食い下がられる。
仕方がないので、ボルド村長に相談して村の空き家を二軒借りた。
簡易な寝台と寝具を運び込み、臨時の客室にする。
村人たちが手伝ってくれた。
「客が来ると経済が回るからのう」
ボルドが顎髭を撫でながら笑っている。
ありがたいが、俺は宿屋をやりたかっただけで、旅籠の大将になるつもりはなかったのだが。
リーゼは嬉々として駆け回っている。
「グレンさん、次のお客さん案内してくるね!」
「ああ、頼む」
助かってはいる。
だが忙しい。
引退したのに、なぜこんなに忙しいんだ。
*
開業十五日目。
朝、伝書鳥が届いた。
小さな筒に巻かれた紙を広げる。
『冒険者パーティ十組、計五十名の宿泊予約を希望いたします。到着予定は三日後——』
五十人。
紙を二度読んだ。
五十人。
「……うちは宿屋であって、軍の宿営地じゃないんだが」
「すっごい! 大繁盛じゃん!」
リーゼが目を輝かせている。
「ほっほっほ、村に活気が出るのは良いことじゃ」
ボルドも笑っている。
笑い事じゃない。
五十人分の飯と寝床を三日で用意しろというのか。
引退したのに。
静かに暮らしたかったのに。
頭を抱えていると、リーゼが覗き込んできた。
「ね、グレンさん。この予約名簿、全部の名前が書いてあるよ」
「ああ……」
名簿に目を通す。
知らない名前が並んでいる。どれもギルド登録名だろう。
指がページの端に差しかかったとき、止まった。
一つだけ、見覚えのある名前があった。
セリーナ・ヴァイスフロスト。
指先が、紙の上で固まった。
「……来るなって言ったのに」
引退の挨拶を兼ねて、全員に住所変更の手紙を送った。
「来る必要はない」と書き添えたはずだ。
あいつが読まないわけがない。読んだうえで、来るのだ。
昔からそうだった。
額を押さえた。
リーゼが首を傾げている。
「グレンさん? 知り合い?」
「……昔の仲間だ」
窓の外は秋の夕暮れ。
空が赤い。
ロイドが好きだった色とは少し違う。あいつが好きだったのは朝の青だ。
「お前が見たら笑うだろうな、ロイド。引退したのに、戦場より忙しいなんて」
小さく呟いて、俺は厨房に戻った。
五十人分の仕込みを始めなければならない。
まったく。
なんとかなるだろう、とは思う。
思うが——少しだけ、ため息が出た。




