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Sランク冒険者を引退したおっさん、辺境で宿屋を始めたら元パーティメンバーが続々押しかけてきて引退させてくれない  作者: 月代


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第1話「引退届は受理されました。ただし……」


受付嬢が泣いていた。


仕切り板の向こうで、書類を抱えた若い女が鼻を赤くしている。


名前はマーナ。

ギルド本部の受付を任されるくらいだから優秀なはずだが、今は盛大に鼻水をすすっていた。


「グレン・オルドリッジ様……本当に、よろしいのですか」


「ああ。頼む」


俺はカウンターに置いた引退届を指先で押しやった。


王都グランヴェルク、冒険者ギルド本部。

朝一番を狙ったのは、人が少ない時間帯だからだ。

大仰な見送りなんぞ要らない。書類一枚で終わる話だ。


「……受理、いたします」


マーナの声が震えた。

羽ペンで決裁印を押し、控えをこちらに差し出す。


その手が止まった。


「ただし」


「ただし?」


「あなたのランクは——永久保留とさせていただきます」


永久保留。

聞いたことのない措置だった。


引退すればランクは抹消される。それが規則だ。


「別にいいが、もう依頼は受けないぞ」


「はい……存じて、おります……うっ」


また泣き出した。

こういう場面で気の利いたことを言えたためしがない。二十年やってもだ。


奥の扉が開いた。


白髪の大柄な男——ギルド長のヴェルナーが腕を組んで立っている。


「本気か、グレン」


「ああ」


「お前がいなくなれば、大陸のSランクは十一人になる。『七つの災厄』の残党もまだ二体いるんだぞ」


分かっている。

魔王ヴァルゴスは五年前に俺たちが倒した。

だが幹部の「飢餓」と「疫病」は逃げたままだ。


分かっていて、それでも俺は筆を執った。


「ロイドに約束したんだ」


ヴェルナーの眉が動いた。


「——好きに生きろ、ってな」


それだけ言って、俺はギルド証をカウンターに置いた。


銀色のプレートが、石の天板に硬い音を立てる。

マーナが両手で口を押さえた。ヴェルナーは何も言わなかった。


背を向ける。

革のブーツが石床を叩く音だけが、やけに大きく響いた。



  *



馬車に揺られて七日。


王都を出て三日目あたりから、風景が変わった。

街道沿いの石造りの宿場が減り、代わりに森と丘陵が広がる。


荷台に寝転がって空を見上げた。


秋の入り口だ。

高い空に、薄い雲が流れていく。


——あいつが好きだった色だな。


五年前。

魔王の城の最上階で、ロイドは俺の前に立った。

魔王の最後の一撃。俺を庇い、胸を貫かれた。


俺の腕の中で、あいつは笑っていた。

フィーネが泣きながら治癒を続けていたが、もう手遅れだった。


『お前は、もう十分だ。好きに生きろ、グレン』


それが最期だった。


パーティ「暁の一矢」。

二十年間、五人で駆け抜けた。

ロイドがいなくなって、俺たちは解散した。


セリーナは宮廷魔術師になった。

ドルクは訓練学校の教官に。

フィーネは大聖堂の神官に。


みんな、新しい道を歩いている。


なら俺も、そろそろいいだろう。


「旦那さん、辺境は魔獣が多いですが、大丈夫ですかい?」


御者のおっさんが振り返った。


「まあ、なんとかなるだろ」


本当に、そう思っていた。



  *



エルデ村は、思った通りの場所だった。


石造りの家が斜面に並び、中央に古い井戸。

周囲は森に囲まれ、秋の風が枯葉を舞い上げている。


人口はざっと百二十人くらいか。

小さい。静かだ。ちょうどいい。


「おお、来たか」


村の入口で白髪の老人が待っていた。

背は低いが、目に力がある。顎の豊かな髭を撫でながら、俺を見上げた。


村長のボルド・ヘッケン。

物件の購入手続きで何度か手紙をやり取りした相手だ。


「冒険者を辞めて宿屋とは珍しいのう。まあ、この村に客が来るかは知らんがの」


「静かな方がありがたい」


「ほっほっほ、それは保証するわい」


ボルドが笑った、そのとき。


「グレンさーん!」


背後から勢いよく声が飛んできた。


振り返ると、栗色のショートヘアの少女が走ってくる。

小柄で、頬にそばかす。歳は十代後半くらいだろう。


「荷物運ぶの手伝うよ! あたしリーゼ! おじいちゃんの孫!」


「おじいちゃん言うな」


ボルドが眉をしかめたが、リーゼはまるで聞いていない。

俺の荷車に飛びつき、木箱を覗き込んだ。


「わ、すっごい! 鍋がいっぱい! 料理する人なの?」


「宿屋をやるんだ。飯を出す以上、道具は要る」


「へー! 楽しみ!」


元気な子だ。

悪い気はしない。



  *



購入した物件は村の外れにある元旅籠だった。


長年の空き家で、屋根の梁が一本腐りかけていた。

壁は頑丈な石造り。厨房に入ると、石造りの竈と広い調理台がある。裏手には湧水が出ていた。


三日で直す。


腐った梁を外し、新しい材木に替える。

村の大工が「三人がかりでも動かんぞ、あの梁は」と言っていたが、持ち上げてみたら案外いけた。


少し重かっただけだ。


裏手の湧水を確かめる。

口に含むと、柔らかい。雑味がない。


「良い水質だな。薬草を入れれば薬湯になる」


周辺を歩いて、自生している草を摘んだ。

見慣れた葉がいくつもある。野営のとき、いつも煎じて湯に入れていた薬草だ。


ここにも生えているとは運がいい。


厨房に戻り、レシピノートを広げた。

ダンジョン探索時代に書き溜めた、保存食の覚書だ。

煮込み、干し肉の戻し方、香草の使い分け。全部で三百頁ほどある。


「保存食の応用で十分だろう」


献立を組んでいると、リーゼが顔を出した。


「手伝いに来たよ! 何かやることある?」


「そうだな。玉ねぎを切ってくれるか」


「了解!」


リーゼに玉ねぎを渡し、俺は隣で人参を刻み始めた。


「——え」


リーゼが固まった。

目を見開いて、俺の手元を凝視している。


「グレンさん、今なにした?」


「人参を切っただけだが」


「切っただけって……見えなかったんだけど」


見えない?

切れ味の良い包丁のおかげだろう。長年使い込んだ相棒だ。


「包丁の手入れはしてあるからな。それだけだ」


「……それだけ?」


リーゼは首を傾げていたが、すぐに自分の玉ねぎに取りかかった。

涙目になりながら格闘している。


平和だ。



  *



三日後。


看板を掲げた。


「灯火亭」。

ともしびてい、と読む。


木の板に彫った素朴な看板だ。

軒先に吊るすと、秋風に少し揺れた。


初日。


客はゼロだった。


「まあ、初日はこんなものだろ」


一人分の夕飯を作った。

根菜の煮込みと、黒パンの香草バター焼き。


食堂の端に座り、一人で食う。


広い食堂に、俺の咀嚼する音だけが響く。


静かだ。


——良い夜だ。


裏手の湯に薬草を入れて浸かった。

じんわりと体が温まる。古傷の鈍痛が、少しだけ和らいだ。


左頬の刀傷を指でなぞる。

もう何年前のものだったか。


湯気の向こうに、秋の星が見えた。


ロイド。

お前が見たら笑うだろうな。

Sランク冒険者が、辺境で一人、風呂に浸かってる。


まあ、これが「好きに生きる」ってことだ。


布団に入ると、すぐに眠くなった。

戦場では三時間しか眠れなかった体が、今夜は素直に沈んでいく。


明日も、静かな一日だといい。



  *



翌朝。


目が覚めたのは、日の出の少し前だった。


体を起こし、寝間着のまま表に出る。

朝の冷気が頬を刺した。秋が深まっている。


——邪魔だな。


宿の正面に、何かが横たわっていた。


森熊だ。


体長は三メートルを超えている。

黒い毛並み。太い爪。分厚い筋肉。


死んでいるわけではない。胸が微かに上下している。

どうやら縄張り争いに負けて、ここまで転がってきたらしい。傷だらけだ。


面倒なことになった。


このまま放っておけば、目を覚ました熊が暴れるかもしれない。

村に被害が出る前に、森に戻してやるのが筋だろう。


俺は熊の後ろ足を片手で掴み、引きずり始めた。


重い。

だが、持てないほどじゃない。


裏山まで約二百メートル。

朝露に濡れた草を踏みしめながら、俺は熊を引いていった。


途中で何度か鼻歌が出た。

「暁の一矢」の行軍歌。ロイドがよく歌っていたやつだ。


森の入口まで来て、熊を下ろした。


「ここなら大丈夫だろう。もう村の方に来るなよ」


熊は気絶したままだ。まあ、起きたら分かるだろう。


宿に戻ると、井戸端に村人が何人か固まっていた。

朝の水汲みの時間か。


「——おはよう。良い朝だな」


声をかけると、全員が石のように固まった。


なんだ? 寝癖でもついているのか。


首を傾げながら厨房に入る。


さて、朝飯の支度だ。

今日は卵があったから、香草入りのオムレツでも作ろう。


鼻歌を再開する。


外で、誰かの声が聞こえた気がした。


「……あの男、何者じゃ」


空耳だろう。


俺はただの宿屋の親父だ。


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