第3話「来ないでくれ、頼むから」
開業十八日目。
宿の前に馬車が停まった。
御者が荷物を下ろし、扉が開く。
降りてきたのは、銀色の長い髪をひとつに束ねた女だった。
白と紫の長衣に、銀の肩章。
宮廷魔術師の正装だ。
背筋が伸びた立ち姿。切れ長の目。三十代後半には見えない凛とした顔立ち。
だが俺にとっては、十五年間焚き火の前で隣に座っていた顔だ。
「あら、元気そうじゃない」
セリーナ・ヴァイスフロストが微笑んだ。
「引退生活、満喫してる?」
「……来るな、って手紙に書いただろう」
「あなたの手紙に書いてあった住所に来ただけよ。住所を教えたのはあなたでしょう?」
教えたのは礼儀としてだ。
転居先を知らせるのは常識だろう。
「それは来いという意味じゃない」
「あら、そうだったの? 読み違えたわ」
読み違えるわけがない。あいつは大陸最高の魔術師だ。文字の一つも読み間違えない。
分かっていて来たのだ。
昔からそうだった。
表の騒ぎに、リーゼが飛び出してきた。
「わ……すっごい綺麗な人……! グレンさんの知り合い?」
「昔の仲間だ」
「え、あの服って——ひゃっ、宮廷魔術師さま!?」
リーゼが目を丸くした。
まあ、辺境の村に宮廷魔術師が来れば驚くだろう。
セリーナが穏やかにリーゼを見た。
「あなたがリーゼちゃん? 可愛いわね。グレンの手紙に書いてあったわ。よく手伝ってくれているそうね」
「て、手紙に書いてあったの? あたしのこと?」
リーゼが頬を赤くした。
俺は手紙に村の様子を簡単に書いただけだ。手伝ってくれる村長の孫がいる、と。それだけの話だ。
「で、用件はなんだ」
「仕事よ」
セリーナの表情が少し引き締まった。
「魔王残党『七つの災厄』のうち『飢餓』の目撃情報が辺境で出ているの。あなたが引退したせいで討伐の戦力が足りない。せめて情報と助言だけでもちょうだい」
「俺はもう引退した。ギルドに任せろ」
「情報を聞くだけ。すぐ帰るわ」
そう言いながら、セリーナは馬車から荷物を下ろし始めた。
革のトランクが一つ。
着替えの入った布袋が二つ。
本が詰まった木箱が一つ。
多い。
「おい。『すぐ帰る』にしては荷物が多くないか」
「研究資料よ。情報収集に必要なの」
嘘だ。
あの木箱の中身は、十中八九、愛読書だ。
十五年の付き合いで分かる。セリーナは遠征先に必ず本を持ち込む。
しかも研究書ではなく、恋愛小説を。
「リーゼちゃん、お部屋に案内してもらえるかしら」
「は、はい! こっちです!」
リーゼが張り切って二階に駆けていく。
セリーナが俺の横を通りかかったとき、ふと足を止めた。
左手の人差し指が唇に触れる。昔からの癖だ。
「……五年ぶりに見たけど、良い顔してるわね。ここの空気が合ってるのかしら」
「別に、いつも通りだが」
「そういうところよ」
意味がよく分からないが、セリーナはそれ以上何も言わず、階段を上がっていった。
リーゼが踊り場から顔を出した。
「グレンさーん、お客さん何泊の予定?」
俺が答える前に、セリーナの声が降ってきた。
「そうね。情報が集まるまで——一週間くらいかしら」
絶対嘘だ。
*
夕方。
セリーナのために、少し気合を入れて飯を作ることにした。
久しぶりの再会だ。
いつもの保存食アレンジだが、品数を増やすくらいはいいだろう。
火竜茸の香草焼き。
この辺りの森で採れるキノコだ。肉厚で、火を通すと独特の香ばしさが出る。
野営のとき、焚き火で焼いてよく食った。
裏手の湧水で炊いた銀穂米。
この湧水で炊くと、米が透き通るほど艶が出る。
魔獣肉のロースト、黒蜜ソース。
先日、村の猟師から分けてもらった肉だ。蜜と合わせると臭みが消える。
食堂に並べた。
セリーナが正装を脱いで降りてきた。
銀髪を下ろし、簡素な上着に着替えている。
こっちの方が見慣れた姿だ。
「座れ。冷めないうちに食え」
「相変わらず、おもてなしの言葉遣いがなってないわね」
そう言いながら、セリーナは椅子に座った。
フォークを取り、火竜茸を一切れ口に運ぶ。
目を閉じた。
咀嚼する音が止まる。
五秒ほどの沈黙。
「……これ、あの頃の野営飯の味だわ」
「ああ。同じレシピだ」
「変わってないのね。あなたの料理」
セリーナが微笑んだ。
どこか懐かしそうな、少し寂しそうな笑い方だった。
隣のテーブルで、リーゼが同じ料理を頬張っていた。
「え、これ野営飯なの? 王都の高級料理店より美味しいんだけど」
「食べたことあるのか、王都の高級料理店」
「ないけど! 絶対こっちの方が美味しいよ!」
根拠がない。だがリーゼの表情は本気だった。
食事が一段落した頃、リーゼが俺のところに来た。
「グレンさん、セリーナさんが言ってたんだけど、この火竜茸ってS級ダンジョンに生える食材なの?」
「さあ。その辺にも生えてるが」
「その辺って……S級ダンジョンと同じものが、その辺に?」
リーゼが目を丸くしている。
知らない。生えているものを使っただけだ。
「グレンさん、もしかしてこの銀穂米も……」
「裏手の湧水で炊いた普通の米だが」
「普通って……」
リーゼが何か言いかけて、口をつぐんだ。
セリーナの方を振り返り、二人で顔を見合わせている。
なんだ。人の飯をそんな顔で見るな。
*
食後、セリーナに薬湯を勧めた。
「裏手に風呂がある。薬草を入れてあるから、旅の疲れが取れるだろう」
「ありがたいわ。宮廷の仕事が立て込んでいて、ここ一か月ろくに休んでいないの」
目の下に薄い隈がある。
正装のときは気づかなかったが、化粧を落とすと分かる。
「無理をするな」
「あなたに言われたくないわよ」
セリーナが風呂場に入っていった。
しばらくして。
「——っ!」
湯殿から短い悲鳴が上がった。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫……大丈夫だけど、ちょっと来て」
のれん越しに声をかけると、セリーナの声が返ってきた。湯気の向こうだ。顔は見えない。
「なに、これ。回復魔法並みの効果じゃない。体の芯から疲労が抜けていく」
「薬草を入れただけだが」
「どんな薬草よ」
「いつもの薬草だ。野営のとき、湯に入れてたやつ」
沈黙。
「……Sランクの野営って、一体どういう環境なのよ」
よく分からない質問だった。
「普通の野営だが」
「普通……」
セリーナは何か言いたげだったが、それ以上は聞いてこなかった。
風呂から上がったセリーナは、髪を拭きながら食堂に戻ってきた。
頬が上気して、隈が薄くなっている。
「ねえ、あの薬湯に使っている草、本当に『いつもの薬草』なの?」
「ああ。裏手にいくらでも生えてる」
「……今度、明るいときに見せてもらうわ」
何を気にしているのか分からないが、構わない。見せるだけなら簡単だ。
*
夜。
宿泊客が寝静まった後、居間で二人、酒を飲んだ。
セリーナが棚から蜂蜜酒を見つけて「これ、いただいていい?」と聞いた。好きにしろ、と答えた。
注いだ杯を傾けながら、自然と昔話になった。
「覚えてる? ドルクが泥沼に嵌まったときのこと」
「ああ。あいつ、装備のまま沈んで、引き上げるのに半日かかった」
「フィーネが『神のお導きです』って笑ってたわね」
「ロイドが——」
名前を口にした瞬間、声が止まった。
一拍の沈黙。
蜂蜜酒の香りが、静かに漂っている。
「……ロイドが、泥だらけのドルクを見て大笑いしてたな」
「ええ。あの人はいつも笑ってたわ」
セリーナの声は穏やかだった。だが、杯を持つ指がわずかに強張ったのが見えた。
「……ドルクもフィーネも、あなたのこと心配してるわよ」
「心配されるようなことはしてない。普通に暮らしてるだけだ」
「それが心配なのよ」
セリーナが小さく笑った。
何がおかしいのか、俺にはよく分からなかった。
窓の外は秋の夜だ。
星が多い。王都では見えない数の星が、黒い空に散らばっている。
「先に休め。明日も客が来る」
「ええ。——おやすみ、グレン」
「おやすみ」
セリーナが階段を上がっていく。
足音が消えた後、俺は一人で杯を傾けた。
まあ、飯を食わせるだけなら引退に含まれるだろう。
セリーナが宿にいるのは一週間。
それが過ぎれば、また静かな日々に戻る。
——たぶん。
杯を置いて、厨房の後片付けに戻った。
明日の仕込みもある。忙しい日は続く。
だが、隣に誰かがいる食卓は、一人で食うよりは少しだけ温かかった。
それだけの話だ。




