29.温かい風
大きな音が止み、ゆっくりと瞼を開ける。
目を開けると木造でできていた小屋の一部は見事に破壊していて、私に襲いかかってきた狼の姿をした魔物が倒れ込んでいる。
「お姉様のお守り……!」
はっと気付いて胸元にあるペンダントを見る。そうだ、外へ出かける時は魔道具を身につけることを勧められてつけていたんだ。
身につけた時は明るい水色をした宝石は、今は薄い色をしていてヒビが入っているのが分かる。
「防御魔法で、助かったの?」
小屋の壊れ具合、そして魔物が倒れている状況からして魔道具が関与しているのは明らかだ。
とはいえ、防御魔法って言ったら結界とかでただ単に守るだけだと思っていた。守りながら攻撃もするなんて聞いていないとお姉様に言いたい。
ふと、近くに窓ガラスの破片が散らばっていることに気付く。この破片で縄を切るしかない。
後ろに縛られた手で慎重にガラスの破片を手に取って手首の縄を切っていく。後ろだからやりにくい。
「いっ……!」
痛みで顔が歪む。手のひらが痛い。もしかしてガラスの破片で切ったのかもしれない。
なんとか手首の縄を切り終えると今度は足の縄を切る。
そうして足の方も切り終えると手のひらを確認する。……やっぱり手のひらを切っている。血が流れている。
「とりあえず止血をして……」
ハンカチを取り出して手のひらを保護していく。利き手を怪我し、反対の手で巻いているから時間がかかる。
それでもどうにかハンカチを巻くとゆっくりと立ち上がる。……外には魔物がいるからこのまま小屋にいたいのが本音だけど、残念ながら小屋の一部は吹っ飛んでいる。小屋としての機能は期待できない。
このままいたら最悪、倒壊に巻き込まれる。それは避けたい。
ガラスの破片に気を付けながら外へ出ていく。……日が沈んだら視界も悪くなって魔物を見つけるのも難しくなる。夜になるまでにどうにか安全な森の入口までたどり着かないと。
周囲を見ながら歩いていく。踵は低いとはいえ、ヒールなのであまり走れない。
加えて木々も多いから、視界が悪い。横からの動物と魔物の出現に気を付けないと。
「急がないと……」
焦る気持ちを抑えながら歩いていく。
空はまだ青いけど、夕方になれば今以上に視界が悪くなって気温も下がる。
「多分、入口とはそこまで離れていないはず」
半壊した小屋を思い出す。小屋の広さからして、薬草を採取する人が休憩できるようにと用意されたものだと推測できる。
そう考えればきっとここは森の奥ではなく、中間部か入口に近い部分だと思う。
「魔物はあの狼以外にもいるのかな……っ」
森にいる魔物の情報が分からないから不安になる。
そんな風に考えていると、頬に痛みが走ってそっと優しく触れる。
触れると腫れていることに気付く。そういえば髪を引っ張られて頬をぶたれたんだった。
「まさか、こんな目に遭うなんて……」
おまけに手のひらも怪我してと、散々な目に遭っている。
床に転がされた私を見て、くすくすと笑うロクサーヌ様が脳裏に甦る。……まさか、気に食わないからってこんなこと実行してくるなんて。
気に食わないのは仕方ない。人間、好きな人と嫌いな人がいると思うから。
でも、だからといって素直にやられるわけにはいかない。
色んな人の姿が頭に浮かぶ。
馬車を運転していた御者は大丈夫だろうか。怪我をしていないだろうか。
現在の時刻は分からない。でもきっと、父も母も心配している。
お姉様も私が帰ってきていないと知ったら仕事を投げて探しに来ると思う。それくらい私のことかわいがっているから。
セルマの不安そうな顔も浮かぶ。こんな姿を見たら悲鳴を上げそうだ。
アルベルタとリベラートの顔も浮かぶ。二人共、心配する。
そして──。
「フェリクス様……」
最後に見たフェリクス様は、どこか泣きそうにも見えた。……謝らないと。私も傷ついたけど、私もフェリクス様を傷つけたから。
こんなところで死ぬわけにはいかない。ロクサーヌ様の野望通りになるつもりはない。
そう決意して、草木に注意を払いながら早足で歩いていく。……どれくらい歩いたのだろう。
一面同じ緑ばかりでどこを歩いているのかも分からなくなる。
時折、上空からカラスの鳴き声が聞こえて肩をびくりと震わせる。……今、歩いている方向が正しいのかも分からない。
それでも歩くしかないと思いながら歩いていると──正面からガサガサと草木が揺れる音が聞こえて立ち止まる。
草木が揺れる音は変わらず続いていてゆっくりと、ゆっくりと後ろへと下がっていく。……ウサギやリスとかなら問題ない。でも、肉食動物や魔物なら話は別だ。
気配を抑えながら音を立てないようにして後ろへと下がっていくと──黒い毛皮に赤黒い瞳の、先ほどと同じ狼の姿をした魔物と目が合う。
「っ……!」
急いで背を向けて走る。後ろから吠える声が聞こえる。
踵があるヒールとか関係ない。お姉様のように魔法の才能がない私は走らないと、逃げないと食べられる。
後ろから複数の鳴き声が聞こえて一瞬、振り返る。一体だったのが三体に増えている。あの吠え声は仲間を呼ぶものだったのかもしれない。
「はぁ、はぁ……!」
走るのに適さない靴、視界が悪くて歩きにくい森、貴族の娘ということで体力が少ない三拍子が私を追い詰める。
それでも走らないと。そうしないと、私の生命は危ない。
「あ……!」
小石に引っかかったのか転倒する。膝が痛い。手が痛い。
それでも立ち上がろうとすると、逃げる方向からも狼の姿をした魔物が二体、ゆっくりとこちらへとやって来る。
後ろを見ると三体いて、その数は計五体。……囲まれた。
魔道具であるペンダントの宝石は色が褪せてヒビが入っているから期待できない。……このままじゃ、私は──。
「誰か……」
声が震える。四方八方、囲まれて身体も震えて動けない。どうすれば、どうすれば──。
獲物を見つけた魔物たちがゆっくりと、じわじわと私へと距離を詰めてくる。
ここで死ぬの? まだ、やりたいことがたくさんあるのに。
ふと、フェリクス様が幸せそうに笑う姿が脳裏に甦る。
まだフェリクス様に謝っていない。また料理を作るって約束したのに。──また、一緒に花畑へ行こうと約束したのに。
「……助けて」
消え入るような声で助けを求める。
涙が零れる。ここには私以外、人が誰もいないのに。
五体の内一番大きい狼の姿をした魔物が飛びかかってくる。
その大きな牙に、これから来る痛みに覚悟してぎゅっと目をきつく閉じると──ふわり、と温かい風が私を包み込む。
「え……」
突然のことで驚いて閉じた目を開くと──美しい白銀の髪と青い軍服が視界に映る。
そして、私に飛びかかってきた魔物に向けて剣を突き刺し、刺された魔物が大きな悲鳴を上げる。
息を呑む。幻覚と思った。最後に、頭に浮かんだから幻を見ているのだと。
地面に座り込んだまま、呆然と見上げているとこちらを振り返る。──ああ、違う。本物だ。
「フェリクス様……」
そして彼の名前を紡ぐと、灰色の瞳が私を射貫いた。




