24.重なる空の色と感情
「フェリクス様?」
反応のないフェリクス様にもう一度名前を呼ぶ。どうして何も発しないのだろう。
困惑しながら見上げると、腕を掴む力が僅かに強まる。痛くはないけれど、力が強まったせいで引き離すことができない。
混乱が続いていると、リベラートが小さく囁く。
「エリーゼ、知り合い?」
「あ……その、こんや──」
「婚約者だよ」
私の言葉を遮るように力強く、はっきりと断言する。……こんなフェリクス様、私は知らない。
婚約者だと告げるフェリクス様を怪訝な目で見ると、リベラートが確認するように私を見る。
「本当?」
「え、ええ」
「ふーん」
私に尋ねるとリベラートが再びフェリクス様を見る。その瞳は、本当か嘘か確認しているようにも感じる。
緊迫した空気に声が出ないでいると、フェリクス様がこちらに目を向ける。
「どこへ?」
「え」
「どこへ行こうとしていたの?」
「や、屋敷へ帰るところでしたが……」
「なら送るよ。近くに馬車を停めているから」
有無を言わせない空気を放ちながら私の手を握って引っ張る。
ここ最近見てきたフェリクス様と違いすぎて困惑していると、後ろから声が飛んでくる。
「ちょっとあんた、いくら婚約者でもそんな風に手を引っ張るなよ。エリーゼの手が痛くなるだろう」
「リベラート……」
私たちの手を見ながら、リベラートが眉を寄せて指摘する。
リベラートが指摘するのはフェリクス様が握っている手が私の利き手だからだろう。私が画家として活動しているのを知っているから、手を痛めないか心配してくれているのだと思う。
リベラートの指摘に思うところがあったのか、握る手が少しだけ緩む。それでもしっかりと私の手を握っているので離れることができない。
「行くよ」
「わっ……! リ、リベラート、さよなら!」
早足で馬車へ向かうフェリクス様に慌ててリベラートに別れの挨拶をする。
人混みの中を進んでいくと、ローギウス侯爵家の家紋が記された馬車へ到着して乗るように促される。
そして馬車に乗るとフェリクス様が私の屋敷へ向かうように御者に指示を出し、ゆっくりと動き出す。
「…………」
「…………」
向かいで窓枠に頬杖をするフェリクス様をそっと観察する。……沈黙が気まずい、屋敷まで歩いたとしても三十分もかからないから徒歩で帰ってもよかったのに。
居心地の悪さに目を伏せていると、フェリクス様が声を上げる。
「エリーゼ。婚約者がいるのに別の男と話すのはよくないからやめた方がいいよ」
「……それは、どんな人でも?」
「ああ」
簡潔に、断言した様子で私に忠告する。……どうしてそんなこと言われないといけないのだろう。
婚約者がいるとしても制限される謂れはないのに。それじゃあ、屋敷にいる家令や執事、御者とも会話できないじゃないか。
「……誰と話すか話さないかなんて、フェリクス様に言われる筋合いはないと思います」
だから背筋を伸ばして怖じ気づくことなく、思ったことを正直に告げる。他の人も婚約者がいたとしても、必要な時は異性と話している。
伝えると灰色の瞳を細めて、冷ややかな笑みを浮かべる。
「へぇ。随分と仲がいいんだね」
「はい?」
「リベラート、だっけ。お互いに名前を呼んでいたよね」
「それは……」
低い、冷気を纏った声に詰まる。よく見れば、灰色の瞳もどこか昏さを含んでいる。
いつものフェリクス様と違うけど、まずはリベラートについて説明しなければ。きちんと話せば大丈夫なはすだ。
「リベラートは──」
「聞きたくない」
「え?」
「そんな話は聞きたくない、って言っているんだ」
説明しようとすると遮られる。……何、それ。
口を閉ざしていると、フェリクス様が冷ややかな笑みを浮かべながら話し始める。
「知らなかったよ。そんな、お忍び用の服を持っていたなんて。さっきの彼と会うために持ってたんだ?」
「何を言って──」
「楽しそうに笑っていたよね。馬車からでもはっきりと見えたよ。普段から彼と会っていたの?」
「だから──」
「婚約を解消したいって言ったのも、彼と一緒になりたいから?」
冷ややかな笑みから変化して淡く微笑んで問いかける。……三回だ。この短時間で、私の発言を三回、遮ってきた。
人の話を聞かずに一方的に決めつけて、まるで糾弾するような、責め立てるような言い方。……まさか、そんな風に言われるなんて思わなかった。
最近はフェリクス様と過ごす時間が心地よかったのに。いつも静かで気まずかったのに、笑うことが増えて、楽しかったのに。
「……どうして、話を聞いてくれないのですか」
「……エリーゼ?」
小さかったのかフェリクス様が私の名前を呼ぶ。でも、それに反応することができない。
「フェリクス様にとって、私の話なんてどうでもいいのですか? どうして聞いてくれないのですか?」
告げるとフェリクス様が息を呑むのが分かる。それでも、口は止まらない。
「勝手に決めて付けて、勝手に結論付けて。楽しそうに笑っていた? ──フェリクス様と過ごす時も楽しくて笑っていたのに、見ていなかったのですか?」
問いかけると同時に泣きたくなる。……やっぱり、私たちは婚約を解消した方がいいのかもしれない。こんな、些細なことで衝突するならこれからも何回も衝突するのは目に見えている。
「こ……」
婚約を解消しよう──そう言えばいいだけなのに。
それなのにまるで糸で縫い付けられたように動かない。……自分が、よく分からなくなってくる。
そう思っていると馬車が減速を始め、私の屋敷の前へとたどり着く。今日は、もうフェリクス様の顔を見たくなければ、話したくもない。
「送っていただきありがとうございます。私はこれで」
「エリ──」
名前を呼ばれた気がするけど聞こえないふりをして、フェリクス様の手を借りずに買った荷物を持って素早く馬車を降りる。
そして早足で屋敷へ進んで長い回廊を歩いて部屋へ入ると、ドアを背にずるずると座り込む。
「どうして、聞いてくれないの……」
悲しかった。話すら聞いてくれず、冷ややかな笑みを向けられて、まるで私とリベラートが恋仲のように思われて。
「本当に、ここ最近は楽しかったのに」
膝に顔を埋める。……どうして、こんなに泣きたい気持ちになるのだろう。
ふと、窓から小さな音が鳴り始めてゆっくりと顔を上げる。
「雨……」
窓には雨粒がついていて、雨が降っているのが分かる。空の色も、さっきまで美しいくらいきれいな青空だったのに今はどんよりとした曇天に変化している。
「……まるで、私の心みたい」
ポツポツと雨の音を鳴らしながら振るその光景は、まるで泣きたい私の心情を表しているように感じた。




