【第3話】くノ一の暗殺術と、男を知らない無口な影
暗く湿った地下水路。足元を流れる水の音だけが微かに響く閉鎖空間で、俺と暗殺者・レンは対峙していた。
「動くな。この短剣には『神経麻痺薬』と、我が国秘伝の『強烈な求愛誘発香』が塗られている」
レンは冷徹な碧色の瞳で俺を見据え、二本の短剣を交差させた。
「かすり傷一つで貴様の自由は奪われ、我が手の中で発情する人形となる。……おとなしくしろ」
(やばいやばいやばい! 逃げ場がない!)
背後は壁。正面には毒刃を構えたプロの暗殺
者。
上空(地上)には俺の種子を求めて正気を失った何百人もの女騎士たち。
挟み撃ちどころの話じゃない。進んでも退いても、待ち受けているのは俺の「純潔の崩壊」だ。
「あのさ、レンさんだっけ? 俺たち、出会ってまだ十秒くらいしか経ってないよね? いきなり麻痺とか発情とか、順序というものがだな——」
「問答無用」
シュッ!!
レンの身体が残像を残して消えた。
(速い——!?)
目にも留まらぬ速度で間合いを詰められる。
死を直感した俺は、反射的に後方へ身を引こうとした。
だが——
ズルッ!!
「うおわぁっ!?」
地下水路の床に生えていたヌルヌルした苔に足を取られた。
豪快に体勢を崩す俺。
「なに……!?」
予期せぬ俺の「自爆」に、完璧な暗殺動作を行っていたレンの計算が狂った。
突き出された短剣が俺の首筋の空を切り、空を切った勢いのまま、俺とレンは正面から激しく衝突した。
ドシンッ!!
「きゃうっ!?」
暗殺者らしからぬ、可愛らしい悲鳴。
水路の壁に叩きつけられたのはレンだった。
そして俺は……勢い余って、彼女を両手で壁に押しつける形——いわゆる「壁ドン」の状態で覆いかぶさっていた。
「い、てて……」
「あ……が……っ」
至近距離。
息が触れ合うほどの距離に、レンの顔がある。
黒いマスク越しだが、彼女の呼吸が異常な早さで乱れているのが分かった。
さらりとした黒髪から、かすかに野草と柑橘が混ざったような甘い香りが漂ってくる。
「あ、ごめん! 肘とか当たって——」
俺が離れようとした、その時だった。
「……ッ!!」
レンの体がガクガクと激しく震えだした。
碧色の瞳が固まり、瞳孔が収縮と拡大を繰り返している。
「レ、レンさん……?」
「こ……これは……なに……?」
彼女の声から、先ほどの冷徹さが完全に消え去
っていた。
「身体が……熱い……。胸の奥が、壊れたみたいに激しく跳ねている……。息が……上手く吸えない……っ。まさか、貴様……私にどのような禁呪をかけた……!?」
「呪いなんてかけてねーよ! 単に男が目の前にいて緊張してるだけだろ!?」
「ば、バカな……! 私は過酷な訓練を耐え抜いた『影の旅団』の筆頭……! 男の一人や二人、感情を殺して処理できるよう、あらゆる知識を頭に叩き込んで……っ!」
「知識だけかよ!」
そう、彼女はプロの暗殺者ではあったが、同時に**「生まれて一度も生身の男を見たことがない十代の少女」**でもあったのだ。
頭では理解していたつもりでも、実際に「男」という未知の生物に至近距離で触れられ、胸板の硬さや肌の熱、そしてダイレクトに男の匂いを浴びせられた瞬間、彼女の脳内スペックは一瞬でキャパオーバーを起こしていた。
「く……っ! 離れろ……離れろ男性……! このままでは、私の『誇り』が……『理性』が……っ!」
レンの頬が、黒いマスクの上からでもはっきり
と分かるほど真っ赤に染まっていく。
短剣を握る手がプルプルと震え、カチャンと音を立てて床に落ちた。
(い、今だ! 武器を落とした!)
俺は間一髪で立ち上がり、落ちた短剣を足で遠くの水路へ蹴飛ばした。
「ふぅ……危なかった……」
「あ……あ……」
壁に背を預けたまま、へたり込むレン。
彼女は自分の胸を強く抱きしめ、潤んだ瞳で俺を見上げている。
「殺せ……。男の毒に侵され、任務を遂行できなくなった私を……殺すのだ……」
「殺すわけないだろ! 俺はただの高校生だぞ!」
「ならば……私をどうする気だ……? 弄んで……種を仕込んで……使い捨てにするのか……? くのいちの教本には、捕虜になった女はそうされると書いてあった……っ!」
「どんな教本読んでんだよ!! ろくな組織じゃねえな『影の旅団』!!」
俺が頭を抱えていると、突然、頭上の鉄格子か
ら怒号が響き渡った。
『地下水路だ! 排水口の格子が外されているぞ!』
『男神様は地下へ逃げ込まれた! 全員、松明を持って突入せよ!』
『急ぎなさい! 男神様の服が湿気で破れてしまう前に救出(捕獲)するのです!』
「ゲッ!? エレノアたちに見つかった!?」
足音が地下水路の入口へとなだれ込んでくるのが聞こえる。
もう時間がなかった。
「おいレンさん、立ち上がれるか!? 一緒に逃げるぞ!」
「なっ……!? なぜだ……! 私はお前の命を狙った敵だぞ……!?」
レンが呆然とした表情で俺を見る。
「敵だろうとなんだろうと、あいつらに捕まったらお互いロクなことにならないだろ! それに……」
俺は地面にへたり込む彼女の手をガシッと握りしめた。
「女の子を一人、こんな薄暗い場所に置いて逃げられるかよ!」
「——ッ!?」
手を握られた瞬間、レンの全身に電流が走った。
彼女の顔が爆発したのではないかと思うほど真っ赤になり、小さな口から「ひゃいっ!?」という情けない声が漏れる。
「あ……うあ……手……手が……男の手が……温かい……太い……大きい……っ」
「いいから走るぞ!」
「は、はいぃぃっ……!!」
さっきまでの冷酷な暗殺者はどこへ行ったの
か、レンは真っ赤な顔でブンブンと首を振ると、俺の手をギュッと握り返してきた。
「こちらだ……! 水路の奥に、我が旅団が用意した脱出用の隠し通路がある……っ!」
「ナイス! 頼むぞ、レン!」
「れ、レンって呼び捨て……っ! ああ、もうダメ……頭がおかしくなりそう……っ!」
パニックを起こしながらも、プロとしての本能か、レンは素早い動きで俺を先導し始めた。
二人で手をつなぎ、暗い地下水路を全力で駆け抜ける。
背後からは、「逃がしませんわよ男神様ぁぁぁっ!」「待ってくれ私の将来の夫ぉぉぉっ!」という聖女と女騎士の凄まじい叫び声が響いていたが、俺たちは間一髪で隠し通路の扉へと飛び込んだ。
重い石の扉が閉まり、追っ手の声が遠のく。
「はぁ……はぁ……なんとか、城の外へ出られたか……?」
隠し通路を抜けた先は、常盤色の深い森の中だった。
満月の光が、木々の隙間から静かに差し込んでいる。
「た、たすかった……ありがとう、レン」
俺が息を整えながらお礼を言うと、レンはぺたりと地面に座り込んでいた。
そのマスクはいつの間にか外されており——そこには、息を呑むほど可憐な、そして真っ赤に上気した美少女の素顔があった。
「あ……あの……」
レンはモジモジと手指を弄くり回しながら、上目遣いで俺を見てくる。
「な、なに?」
「あの……私……貴様を捕獲する任務だったのだが……」
「うん」
「その……握られた手が……すごく心地よくて……胸のときめきが止まらなくて……」
レンは消え入りそうな声で、告白のように紡いだ。
「私……もう、我が国(東方エルランド)の女帝様にも……貴様を渡したくなくなってしまった……」
「え?」
「私だけのものにしたい……。この森の奥で……二人きりで……『種付け』の儀式を……してもいいだろうか……?」
「重い!! 助けてくれたと思ったのに、結局そっちかよぉぉぉっ!?」
城の檻を脱出した俺を待っていたのは、無口なくのいちによる「独占欲全開のハニートラップ(無自覚)」だった。
男が一人の世界で、俺の純潔を守る旅は、まだまだ始まったばかりだ——。




