第59話:カズハのノートの続き
訓練場の扉を押すと、木剣の音が先に耳に入った。
そこにはもうアスカがいた。ソラが壁際に荷物を置いても振り返らない。
エルダーは床に座り込んで靴紐と格闘していた。片方だけ結び目が丸く固まっている。
「おうソラ。先輩にこれ解いてもらおうと思ったら、無視されてよ」
「え、アスカ先輩に?」
「そ、3回頼んだ」
「やるなエル……」
アスカの木剣の音は、1度も乱れていなかった。
扉がもう一度開いたのは、ソラが木剣を持とうとした時だった。
ルシアだった。上着を肩に引っかけていて、いつも食べている林檎は持っていない。後ろ髪が少しだけ跳ねていた。
「……先輩?」
エルダーが靴紐から顔を上げた。
「どうしたんすか?ここ訓練場っすよ」
「あのなぁ、この前来たり来なかったりするって言ったろ。今日は来たりの日なの」
ルシアは壁際まで歩いてきて、エルダーの隣に腰を下ろした。座るなり欠伸をする。
アスカの木剣が、振り下ろした形のまま床の少し上で浮いていた。顔だけがこちらを向く。
「昨日」
「おはよう」
「中庭で何を持ってた」
「林檎?」
「その後だ」
ルシアは跳ねた髪を指で押さえた。押さえても戻ってくる。
「……わかってて聞いてんだろ」
「構え方が汚かった」
「構えてねぇって。そんなもんに汚いも何もないだろ」
「だからそれが汚いと言ってる」
アスカは木剣を上段に戻すと、また振り始めた。
ルシアは壁に後頭部をつけて天井を見上げた。刺さったままの4年の木剣が、薄暗い中にぼんやり見える。
「ほらな。言ったろ」
ルシアは目を閉じたまま、隣のエルダーにため息混じりにこぼした。
「先輩の言った通りっすね。でも、嫌味あれだけっすか」
「あれだけで十分だろ」
アスカは最後の1回を振り下ろすと、構えを解かずにこちらを向いて木剣の先でソラを呼んだ。
向かいに立って構える。上段。剣先を前へ、切っ先を相手の目線の高さに。
最近は始めの合図もない。アスカが打ち込み、ソラが受ける。受けた重さは腕を伝って肩まで来て、そこから先へ降りていかない。返した剣はアスカの木剣に軽く払われた。
続けてもう1本。今度も肩までだった。
3度目を受けた時、昨夜の帳面の字が頭の端に浮かんだ。この子は、アスカくんの――。
払われた木剣が手の中で回り、ソラは柄を握り直しそこねた。切っ先が床を擦る。
アスカは何も言わずに木剣を上げ直し、ソラが構えるのを待っていた。
壁際で「よっしゃ解けた」とエルダーの声が上がった。アスカは振り向きもせずに「うるさい」とだけ返した。
ソラは床から切っ先を持ち上げた。
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昼の食堂で、ソラは盆にパンだけを載せて、出口の方へ向かった。
「おい、それだけしか取らねーの?」
「ちょっと呼ばれててさ」
「呼ばれるって、誰に」
「……先輩に」
「アスカ先輩か?朝も会ったろ」
「そうじゃなくて……」
「誰なのかわかんねぇけど、俺も行くわ。見学」
エルダーはもうパンを1つ口に咥えて、盆ごと持ち上げかけていた。
「カズハ先輩だよ」
エルダーは咥えたパンを盆に戻し、近くの空いた席に盆を置いて座った。
「……俺、あの人に『いらない』って言われてんだよな」
「言われてたな」
「ルリの時に借りられたのも、俺の癖がいるだけで俺はいらねぇんだってよ」
「よく覚えてるな」
「あんなこと言われたら覚えてるに決まってんだろ」
エルダーはスープを匙でかき回した。口元の右側が少しだけ引きつっている。
「何しに行くんだよ」
「俺のページ、続きがあるんだって」
「あのノートのか」
「あぁ」
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「ひゃあなー」
匙をくわえたまま、エルダーは片手を振った。
小さい方の稽古場は渡り廊下の先にある。ルリに付き添って来た時は、エルダーと2人でこの扉の前から追い返された。
扉の前で、ソラは残っていたパンを口に押し込んだ。飲み込みきる前に、中から声がした。
「開いてるよ」
まだ手も掛けていなかった。
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カズハは窓の下に座っていた。
膝の上に帳面が1冊だけ載っている。表紙に今年の年号。閉じたままだった。
「ソラくん、パンの粉ついてるよ」
ソラは口の端を手の甲で拭った。カズハが自分の頬の反対側を指して教えてくる。
「……ルリから聞きました。続きは、俺が来たらって」
「うん。言ったよ」
カズハは帳面を床に置くと、壁際に立てかけてあった木剣を2本取ってきて、1本をソラに差し出した。
「先に1本だけ、いい?」
「先輩とですか」
「僕は打つだけ。ソラくんは、いつも通り受けて」
「はい」
返事をして、ソラは上段に構えた。
カズハは構えなかった。木剣を片手に提げたまま、ソラの足元から頭の上までを一度だけ見る。半歩寄ってきて、上から真っ直ぐ振り下ろした。
軽い。アスカの打ち込みの半分もない。それでも受けた重さは、朝と同じように肩のところで行き場をなくした。返そうとした時にはカズハはもう木剣を引いていた。
「もう1回」
次も上から同じ速さで来た。ソラは今度こそ足まで力を落とそうとして膝を曲げた。曲げすぎて、返す前に体ごと沈んだ。
「わ、ごめんね。今の、僕の打ち方が悪かったかも」
「いや、俺のせいです」
「そっか」
カズハは壁の方へ歩いていき、木剣を壁へと立てかけた。
窓の下に座り直すと、床の帳面を拾って今度は開いた。ペンを取り、ソラから見えない角度で2行か3行書きつける。
「アスカくんの朝の、毎日受けてるんだよね」
「受けてます。返せてないですけど」
「うん。知ってる」
カズハはペンを置き、帳面をくるりと回してソラの方へ差し出した。
昨夜ルリの手の下に隠れていた行の続きが、そこにあった。
――この子は、アスカくんのお気に入り。後輩になると思う。
1行だけだった。その下は日付が飛んで、入学式、施設見学、大会の1回戦と続いていく。1番下には、先程書き足したであろう行が3つ並んでいた。
ソラが目を落とすより先に、カズハの手がその3行を覆った。
「ここは今書いたとこだから、まだだめ」
ソラは上の行に目を戻した。入学前の夕方。木剣を5回目で弾き飛ばされて、膝をついた日だった。
「先輩」
「うん?」
「これ、なんでアスカ先輩に見せないんですか」
「聞かれてないからね」
「聞かれたら見せるんですか」
「どうかな。そもそもアスカくん、聞かないと思うよ」
カズハは覆った手をそのままに、もう片方の手で帳面の端をつまんだ。ソラが指を離すと、帳面はカズハの膝の上へ引き取られた。
「あのね、ソラくん。鐘、さっき鳴ったよ」
「えっ」
「僕は午後に座学ないんだけど、ソラくんはあるよね」
ソラは木剣を壁に立てかけ損ねて床に倒し、拾い直してもう一度立てかけた。
「ありがとうございました!」
扉を閉める直前、カズハがまたペンを取るのが見えた。
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授業には遅れた。グエンは板書の手を止めずに「座れ」とだけ言った。席に着くと、隣のルリが開いたノートを半分こちらへ見せてくれた。
夕方、にゃごすちんへ戻る途中で訓練場の前を通った。
柵の向こうに、アスカが1人で立っていた。
上段から振り下ろして、戻して、また振り下ろす。足元に水筒が転がっていて、外れた蓋がその横で傾いていた。
訓練場の前を通り過ぎる。角を曲がる手前で歩く速さが落ちたが、止まりはしなかった。
今回もお読み頂きありがとうございました!
今回はソラがカズハの元を訪ね、帳面の続きを読む回でした。「この子は、アスカくんの」の後に何が書いてあったのかが判明!カズハに先見の明あり!
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未完成ですが一応作品HPあります→https://hasuki-kuro.github.io/seimyaku/
次回投稿は10月28日(水)6時を予定しております。
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