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星脈と位相の狭間で  作者: 黒
アレシス学院編

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第58話:律儀なシオリと液体の正体



 伝票の上に白い猫が寝ていた。


 ソラが伝票の端をつまんで引き抜こうとすると、猫は前足で紙を押さえて片目だけ開けた。窓際の老夫婦の注文が、その腹の下に半分隠れている。


「ミオ、窓際のお客さんって紅茶2つだった?」


「2つと焼き菓子!おばあちゃんの方は砂糖なし!」


 カウンターの奥から声だけが返ってきた。ミオは屈んで棚の下を覗き込んでいて、背中しか見えない。


「何してるんだ」


「んー、カップ探してるんだけどね〜、ちょっといいやつ。1個だけあったはずなんだけど」


「お客さんは窓際の2人だけだよ」


「今から来るの!」


 立ち上がった拍子に、ミオは棚の角に頭をぶつけた。ゴン、と鈍い音がする。


「痛ったぁ〜!」


 頭を押さえたままもう片方の手で掲げてみせたのは、青に白の模様が入ったカップだった。割れてはいなかった。


「……誰が来るんだ」


「シオリ先輩!昨日誘ったら来てくれるって!」


 ソラは伝票を諦めて、覚えている分だけで紅茶を淹れ始めた。


 扉の鈴が鳴ったのは、窓際に皿を運び終えた時だった。


 振り返ると、肩の上で髪を切り揃えた女の人が、入ってすぐのところで固まっていた。閉めた扉に背中をつけたまま床を見下ろしている。その先の通り道の真ん中で、縞模様の猫が腹を出して寝転がっていた。


「あ、あの……こんにちは」


「先輩いらっしゃい!」


 ミオが頭をさすりながら駆けていく。シオリは猫から目を離さないまま小さく頭を下げた。


「ミオさん、お招きありがとう。……この子、どいてもらっても大丈夫かな」


「踏まなきゃ平気です!」


「踏まないようにって、どこに足を置けば……」


 猫は寝返りを打って、通り道いっぱいに伸びた。シオリは壁に手をついて猫を跨いだ。その後、店の中を見回したところで、ソラと目が合った。


 シオリは深く頭を下げた。


「魔法科3年のシオリです。ミオさんには、いつもお世話に……あ、お世話してるのは私の方なのかな。……ごめんなさい、何でもない」


「ソラです。武術科の1年で、ここで働いてます」


「えぇ、知ってます。武術科の決勝、見てたので」


 ソラは返事に困って、持っていた盆を脇に挟んだ。


 ミオがシオリを奥の席に座らせて、青いカップを置いた。シオリはカップを両手で包んだまま、なかなか口をつけない。


「ミオさん。これ、中身は……」


「紅茶です!普通の!」


「普通の……」


「淹れたのはソラだけどね」


 シオリはソラの方を見てから、ひとくち飲んだ。


「ちょっと!今の間、どういう意味ですか先輩!」


 テーブルの下で、縞模様の猫がシオリの足首に体をこすりつけた。シオリはカップを持ったまま、両足を床からそっと浮かせた。


 厨房からネロが出てきた。前掛けで手を拭きながら、奥の席に見慣れない顔があるのに気付いて目を細める。


「いらっしゃいませ。ミオのお友達ですか」


 シオリが椅子から立ち上がった。膝がテーブルの脚に当たってカップの中で紅茶が揺れ、足元の猫が慌てて逃げていく。


「魔法科3年のシオリです。ミオさんとペアを組ませてもらっています」


「ああ、あなたが。いつもミオがお世話になっています」


「いえ、こちらこそ。毎日差し入れをいただいていて、今日はそのお礼を言いたくて来ました」


「差し入れ、ですか?」


 ネロは前掛けを握ったまま、首を少しだけ傾けた。


 ソラは盆を持ったまま、カウンターの陰にいるミオを見た。ミオはさっき棚から出したカップを布巾で拭いていた。カップはもうとっくに光っていた。


「はい。毎日違う味で。昨日のは甘くて、その前のは途中から辛くなって」


「途中から」


「真ん中が甘くて最後が辛いんです。あれは何か工夫が……」


「ミオ」


 柔らかい声に、ミオの布巾が止まった。


「先週から、厨房の試作の瓶がよく減るなと思っていたんです。棚の奥のものまで」


「ちゃちゃ丸かなー……」


「ちゃちゃ丸は瓶の蓋を開けられませんよ」


 ネロは笑っていた。口元だけが。


 シオリはネロとミオを交互に見て、それからテーブルの上のカップに目を落とした。


「あの、私、もしかしてお店のものを……」


「先輩は悪くないですよ」


 ソラが口を挟んだが、シオリには届いていなかった。


「すみません、知らなくて。全部飲んでしまって。辛いのも、底に残ってた赤いのも」


「全部……」


 ネロは小さく繰り返して、ミオの方を向いた。


「ミオ。赤い瓶の方も持っていったんですか」


「……ちょっとだけ」


「あれはまだ配合が決まってないんですよ」


 シオリがまた頭を下げた。椅子の背もたれに額をぶつけそうなほど深かった。


「すみません」


「ですから、あなたは悪くないんです」


 今度はネロがそう言ったが、シオリの頭は上がらなかった。


 ミオは拭き終わったカップを、わざとらしく口笛を吹きながらもう一度布巾で包み直していた。


 シオリは結局、最後まで頭を下げたまま帰っていった。扉の鈴が鳴り終わるより先に、ミオは赤い瓶を抱えて厨房に呼ばれていった。


―――――――――――――――――――――――



 閉店の札を下げると、店の中は途端に静かになった。


 ソラは椅子を逆さにしてテーブルの上に載せていった。脚を上に向けた椅子が並ぶと、さっきまでの店とは別の場所に見える。厨房からはミオの「うぇっ」という声が何度か聞こえてきた。試飲はまだ終わっていなかった。


 白い猫がまだ伝票の束の上で寝ていた。今度は引き抜くのをやめて束ごと棚の端に寄せた。


 扉が鳴ったのは、最後の椅子を持ち上げた時だった。


 コン、コン。少し置いて、もう1回だけ。


「閉店ですよー」


 厨房からミオが叫んだ。返事はない。ソラが椅子を下ろして扉を開けると、ルリが立っていた。帳面を1冊、胸の前で両腕に抱えている。走ってきたのか、前髪が額に張りついていた。


「ご、ごめんなさい。閉まってるのは分かってたんですけど」


「いやいいよ。入る?」


「でも、お店……」


「どうぞ。もう誰もいませんから」


 ソラの後ろからネロが顔を出した。湯気の立つカップを1つ持っている。ルリは扉の前で2度頭を下げてから、静かに敷居をまたいだ。


 ネロは逆さにした椅子を1脚だけ下ろしてルリを座らせ、その前にカップを置いた。


「普通の紅茶ですからね」


 念を押して厨房へ戻っていく。中からまたミオの短い悲鳴が聞こえた。


 ソラも自分の分の椅子を下ろして向かいに座った。ルリはカップには手をつけず、帳面をテーブルの上に置いた。表紙に今年の年号が書いてあって、角が擦り切れて丸くなっている。


「……ミオさんは何かあったんですか」


「ちょっと色々な。ミオの自業自得というか……まあ気にしなくて大丈夫だよ」


「うげぇっ!不味っ!!もう許してええええ!!」


 厨房の奥から悲鳴が聞こえた後、ソラとルリの間に静寂が訪れる。


「えっ、えっと……この前の、先輩に聞いてきました」


「この前のって、俺のページか?」


「はい。最初の数行だけなら教えてもいいって。続きは、ソラくんが自分で来たら見せるそうです」


「俺が?」


「はい。あと……アスカ先輩も、読んだことがないって言ってました」


 ルリは表紙をめくり、指を挟んであったページを開くと、手のひらで下半分を覆った。


「ここから下は、だめなので」


 ルリの手の上の方に、細かい字が並んでいた。


 ――入学前。夕方、訓練場の端。アスカくんと。


 ――踏み込みが早い。剣が体より先に出る。重心が高い。(アスカくんもそう言ってた)


 ――打たれて、5回目で木剣が飛ぶ。膝をつく。


 ――受けは悪くない。粘れる。


 ――この子は、アスカくんの


 そこから先は、ルリの指の下に隠れていた。


 ソラは最初の行まで目を戻した。入学前の夕方。アスカと初めて手合わせをした日だった。リゼアと2人で訓練場に行って、木剣を投げ渡されて、弾き飛ばされたあの日。


 訓練場にはまだ何人か残っていたはずだが、顔は1人も覚えていない。


「……見てたのか、あの日」


「た、多分……先輩、訓練場にもよく行くみたいなので」


 ソラは椅子の背にもたれた。テーブルとの間が少し開く。


「粘れる、ってところ。アスカ先輩があの場で言ったことなんだよ。ほとんどそのまま」


「えっ」


「声が聞こえるところにいたってことだよな。それで俺、気付いてないのか」


 ルリは帳面に手を置いたまま、ソラの顔とページを見比べた。


「……なんでここまで知ってるんだ、あの人。何ならちょっと怖いぞ」


「ぼ、僕のも、自分で覚えてないところまで書いてありました。だから、その……先輩、全部見てるので」


 ソラは返事をしないまま、隠れていない最後の行をもう一度読んだ。


「続きは」


「だめです」


「アスカ先輩の、何なんだ」


「だめです。ソラくんが自分で来たらって」


 ルリは帳面を閉じようとして、手で覆っていたのを忘れていた。挟まれた指を慌てて抜いてから、もう一度閉じ直した。


 厨房で何かが割れる音がして、ミオの悲鳴が上がった。続いたネロの声は、何と言っているかまでは聞こえなかった。


 ルリは帳面を胸に抱え直して立ち上がった。紅茶は一度も口をつけられないまま、湯気が消えていた。


「あの、これ、ごちそうさまでした。……飲んでないですけど」


「冷めてるな」


「す、すみません」


 扉の前まで行ったところで、ルリが振り返った。


「先輩、明日の昼は稽古場にいるそうです」


「……そうか」


「それだけ、伝えてって」


 ルリは頭を下げて扉を押した。鈴が鳴り、足音が路地の方へ遠ざかっていく。


 足元に何かが触れた。見下ろすと、ちゃちゃ丸がソラの脛に頭を押しつけていた。いつからいたのか分からない。


「……お前も気になるよなぁ」


 ソラはしゃがんで、黒い背中を撫でた。ちゃちゃ丸は扉の方を一度だけ見て、それからソラの手に額をこすりつけた。


今回もお読み頂きありがとうございました!


今回はシオリ先輩がにゃごすちんにやってくる、幕間よりのお話でした!律儀すぎる先輩と、試飲の刑に処されるミオ、ミオはなんぼ弄られてもええですからね!


よければアクションやTwitterのフォローとかお願いします! @kuronekomaru015


未完成ですが一応作品HPあります→https://hasuki-kuro.github.io/seimyaku/


次回投稿は10月24日(土)6時を予定しております。


何卒よろしくお願いします!


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