第52話:ルリとカズハの理論的授業
稽古場の扉の前で、ルリは3回目の深呼吸をした。
昼休みに、後ろ髪は何度も櫛で梳かしてきた。それでも指で触ると、片側だけがまだ少し浮いている。襟も確かめた。今日は内側に折れ込んでいない。
取っ手に手をかけて離す。
昨日のことを思い出すと、手のひらが勝手に汗ばんだ。扉を開けた途端に可愛いと言われて、そこから帳面を見せてもらうまでの間のことは、あまりよく思い出せない。
「入らないの?」
真後ろから声がした。
「ひゃっ……!」
ルリは扉に背中をぶつけた。振り返ると、カズハが帳面を何冊も胸に抱えて立っていた。いつからそこにいたのか、足音は1つも聞こえなかった。
「せ、先輩……いつから……」
「今。走ってきたよ」
息は少しも乱れていない。カズハはルリの頭のてっぺんから靴の先までを、ゆっくりと眺めた。
「髪、直してきたんだ」
「は、はい……一応……」
「ふうん」
カズハの手が伸びてくる。ルリは目をつぶって肩をすくめた。
頭に何かが触れて、すぐに離れた。目を開けると、カズハは浮いていた後ろ髪を指先で一度だけ押さえ、もう扉の取っ手に手をかけていた。
「残念、今日は抱きつかないよ。話すことが多いから」
稽古場に入ると、カズハは床に帳面を1冊ずつ並べ始めた。端を揃え、背の向きを揃え、最後の1冊だけを自分の膝の前に置く。
「座って」
ルリが向かいに正座すると、カズハは膝の前の帳面を開いた。開き癖がついているのか、手を離しても頁は戻らなかった。
「これ、ルリくんの2回戦」
頁の上の方にはローライトの名前が書いてあった。その下は、細かい字でびっしりと埋まっている。
「今日は、ルリくんが負けたところの話をするね」
「まずは1回戦。イツキくんとの試合から」
カズハは別の帳面を引き寄せて開いた。指で字をなぞりながら、読み上げていく。
「開始から、君はずっと下がってる。右に2歩、後ろに3歩、また右。イツキくんが振るたびに、受けて、下がる」
ルリは膝の上で手を握った。覚えている。下がるたびに舞台の端が近づいてきて、それが怖かった。
「で、ここ」
カズハの指が止まった。
「端まであと1歩のところで、イツキくんが大きく振りかぶった。その振り下ろしの途中で、君は懐に入って掬い上げてる」
「……は、はい」
「2回戦も同じ」
カズハは最初の帳面に持ち替えた。
「ローライトくんの速さに押されて、膝をつきかけた。そこから次の一振りを弾いた時だけ、踏み込みが変わってる」
2冊の帳面が並べられ、ルリの方に向けられた。2つの頁の同じくらいの位置に、同じ印が書き込まれている。小さな丸の中に、点が1つ。
「君の木剣が相手に向かって動いたのは、この2回だけ」
「……2回」
「どっちも、相手が打ってきてる最中。君の方から打ちにいったことは、1回もないんだよ」
ルリは印を見つめた。そんなはずはない、と言いかけて、口が動かなかった。思い出そうとしても、確かに自分から前に出た場面が1つも浮かんでこない。
「臆病な子はね」
カズハが帳面から顔を上げた。
「追い詰められたら、目をつぶるの。でも君は、2回とも開けてた。開けたまま、1番危ないところで、1番いい一振りを出してる」
ルリは何も言えなかった。握った手の中が、また汗ばんでいく。
「君が負けるのは、臆病だからじゃないよ」
カズハは丸印の上に指を置いた。
「相手が打ってこないと、打ち返せないんだ」
カズハは帳面を開いたまま丸印から指を離して、ルリの顔を覗き込むように首を傾ける。
「心当たり、ある?」
「……心当たり、ですか」
「自分から打たない理由。いや、打てない、の方が適切かな」
ルリは帳面の印に目を落とした。
自分から前に出ようとした時のことを、思い出そうとした。足は動くつもりでいるのに、相手の顔が目に入ると、手首から先が言うことを聞かなくなる。その感覚だけは、ずっと前から知っていた。
ずっと前。
「……昔、」
口が勝手に開いた。カズハは何も言わずに待っている。
「昔、その……」
そこから先が、喉の奥でつかえた。言葉を探しているうちに、膝の上の手が震え始める。ルリはその手を、もう片方の手で押さえつけた。
「……すみません。やっぱり、なんでもないです」
カズハは少しの間、ルリの手元を見ていた。それから脇に置いていた帳面を1冊引き寄せ、まだ何も書かれていない頁を開く。筆を取って、さらさらと何か書きつけた。
「な、何を……」
「今日の記録だよ」
カズハは頁をルリの方に向けた。日付の下に1行だけ。
――心当たり、あり。
「続きは、聞けたら書くね」
筆を置くと、カズハはぱたんと帳面を閉じた。
「だから、そっちは置いとこう。自分から打てるようにするのは、後回し」
「え……で、でも、それじゃあ……」
「打たれないと打てないなら、打たれるのを早くすればいいんだよ」
ルリは瞬きをした。カズハは並べた帳面の背を、端から指でなぞっていく。
「人ってね、打つ前に必ず何かするの。肩が上がるとか、息を吸うとか、つま先がちょっと向きを変えるとか。イツキくんは振りかぶる前に左の踵が浮くし、ローライトくんは速く打つ時ほど顎が引ける」
「そ、そんなことまで……」
「書いてあるからね」
カズハは指を止めて、ルリの方を向いた。
「それが見えた瞬間を、もう打たれたことにしちゃえばいい。そしたら君の剣は、相手の剣より先に出る」
ルリは自分の手を見下ろした。さっきまで押さえつけていた震えは、いつの間にか止まっていた。
「……そんなこと、できるんでしょうか」
「できるよ。ルリくんは打たれた時なら、1番いい一振りが出せるんだから」
カズハは立ち上がると、床に並べた帳面を1冊ずつ拾い上げた。両腕に抱えきれなくなった分を、ルリの膝の上に積んでいく。1冊、2冊、3冊。
「1年生の分から始めようか。明日までに、ここまで」
「えっ……」
積まれた重みに、ルリの背中が丸くなった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
帳面の山は、顎の下まで届いていた。
前が半分しか見えない。ルリは足元を確かめながら、廊下の壁沿いをすり足で進んだ。角を曲がったところで、1番上の1冊が滑り落ちる。拾おうとして屈むと、今度は残りの山ごと傾いた。
「おっと」
横から伸びてきた手が、山の上を押さえた。
「ルリ?なんだこれ」
ソラだった。首に手拭いを掛けていて、前髪が汗で額に張りついている。
「ソ、ソラくん……あの、これは、先輩から……」
「全部?」
「明日までに、読んでくるように、と……」
「何だこの量……ルリも大変だな」
ソラは山の上から半分ほどを抱え取り、落ちていた1冊も拾って重ねた。
「確かルリは寮住まいだったよな?寮まで持つよ」
「す、すみません……ソラくんは、訓練場ですか」
「ああ。朝の続き。1人だと、全然分からないんだけどな」
2人で並んで歩き出す。窓の外は、もう夕暮れ色に変わりかけていた。
「……カズハ先輩に、言われたんです」
しばらく黙って歩いた後で、ルリが口を開いた。
「僕は、打たれないと打てないって。自分から打ちにいったことは、1回もないって」
ソラの足が、半歩だけ遅れた。
「打たれないと、か」
「はい……」
「俺はアスカ先輩に、受けた重さをそのまま剣に乗せて返せって言われたよ。受けてから返すんじゃ遅いって」
ルリは帳面の山越しに、ソラの横顔を見上げた。
「……似てますね」
「似てるのかな。ルリは受けないと打てなくて、俺は受けたのを使えって言われてる。逆な気もするけど」
ソラは抱えた帳面を持ち直した。1番上の表紙に、去年の年号が書いてある。
「なあ、これ、俺の試合も載ってるのか」
「た、多分……先輩、全員分あるって言ってたので」
ルリは自分の山から1冊を抜き取り、今年の年号のものを開いた。頁を何枚かめくったところで、その手が止まった。
「あったか?なんて書いてある?」
ソラが帳面の山越しに首を伸ばしてくる。ソラの名前の下に、細かい字が何行も並んでいた。ルリは最初の1行に目を走らせた。それから、帳面をぱたんと閉じて胸に抱え込んだ。
「……見せていいか、明日、先輩に聞いてからにします」
「えっ、何だよそれ!気になるじゃんか!」
ルリは帳面を抱えたまま、歩く速さを上げた。
今回もお読み頂きありがとうございました!
今回はカズハ先輩の帳面が大活躍の回でした!ソラの頁に何が書いてあったのかはまた今度……!
よければアクションやTwitterのフォローとかお願いします! @kuronekomaru015
未完成ですが一応作品HPあります→https://hasuki-kuro.github.io/seimyaku/
次回投稿は10月7日(水)6時を予定しております。
何卒よろしくお願いします!




