第51話:普通の先輩・シオリ
瓶の蓋を開けて、匂いを嗅いで閉めた。
ミオは廊下を歩きながら、瓶を顔の前で揺らした。中身は薄い緑色で、底の方だけがうっすら赤い。混ぜれば1色になるはずだったが、朝から何度振ってもしばらく経つとまた2色に分かれてしまう。
「……うーん、まあ飲めば一緒だよね」
後ろで、足音が1つ止まった。
ミオが止まると止まり、歩き出すとまた鳴る。3度目で振り返ると、リゼアが本を1冊脇に抱えて立っていた。
「リゼア?」
「なに」
「なんでついてくるの?」
「図書館、こっちでしょ」
「逆だよ!?」
「そうだったっけ」
リゼアは引き返さなかった。ミオが歩き出すと、また半歩後ろをついてくる。
「……もしかして、心配してくれてる?初めての先輩だし、私が緊張してるんじゃないかって」
「その瓶の方よ」
「えっ」
「先輩が倒れたら、運ぶ人がいるでしょ」
「倒れないよ!今回のは自信作なんだから!」
ミオは瓶を胸に抱え込んだ。中で液体がちゃぷんと鳴った。
伝言は昼休みにセレナ先生から聞いた。放課後、第2実習室で待っていてほしいそうですよ、と。先輩の名前も一緒に聞いた。聞いたはずが、顔が1つも浮かんでこなかった。
第2実習室には誰もいなかった。
奥の壁際には的がいくつか並んでいる。天井の隅には焦げ跡が残っていて、そのうちの1つはどう見ても人が両手を広げた形をしていた。
リゼアは1番後ろの机に座り、本を開いた。ミオは窓際の机に腰を乗せ、足をぶらぶらさせる。
「シオリ先輩……シオリ先輩……」
「呪文?」
「ペアになった先輩の名前!顔、覚えてなくてさ〜」
大会の間、3年の魔法科の人たちは観覧席のどこかに固まって座っていたはずだった。1人はずっと寝ていた。1人は隣の人の髪を三つ編みにしていた。あとは、どうだったか。
ミオは机から飛び降りて、窓に映った自分に指を突きつけた。
「優しい人、強くて優しい人、強くて優しくて面白い人……」
「ハードル高いわね」
「声に出して思いを伝えると願いは叶う!……かもしれない!」
リゼアが頁をめくった。ミオはもう一度、天井の焦げ跡を見上げる。あのくらい焦がせる人ならいい。人の形じゃない方が、なお良い。
コン、コン。
少し空いて、もう1回。
コン。
「は、はい!どうぞ!」
瓶を背中に回したところで、扉が開いた。
顔を出したのは、女子生徒だった。3年の胸章を付けている。肩の上で切り揃えた茶色の髪に、きちんと留めた襟元。ミオはその顔をじっと見て、頭の中にある3年の顔と1つずつ照らし合わせていった。どれにも引っかからなかった。
「あの……ミオさん、ですよね」
「はいっ、ミオです!」
「よかった……。伝言、ちゃんと届いてるか不安で」
「セレナ先生から聞きました!放課後、第2実習室って!」
「そっか。先生、大会の後で忙しそうだったから。私の頼みなんて、後回しにされてるかもって」
先輩は扉の縁に手をかけたまま、長く息を吐いた。
中に入って閉めかけたところで1番後ろの机に目が止まった。取っ手を握ったまま、動きが止まる。
「あれ……?優勝、した子?」
「あ、リゼアは付き添いです!」
「見学よ」
リゼアは本から顔を上げずに答えた。先輩は小さく「そっ、そう……」と返事をしてから、音がしないように閉め直す。
「3年のシオリです。今日から、ミオさんのペアになります」
それから、腰から折るように深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします!」
ミオも慌てて頭を下げた。顔を上げると、シオリはまだ頭を下げたままだった。
「あの、先輩!大会の時って、どこに座ってました?」
「……1番前、です」
「まず、見せてほしいな。ミオさんの風魔法」
顔を上げたシオリは、奥の的を指差した。声はまだ少し硬かったが、指先は揺れていなかった。
「いいんですか!いきなり!」
「うん。大会で見たのと、近くで見るのとは違うから」
ミオは瓶を窓際に置き、的の正面に立った。息を吸って、右手を突き出す。
「散れ!」
ゴウッ、と実習室の空気が一度に押し出された。的が後ろの壁に叩きつけられる。窓がガタガタと鳴り、机の上の紙が何枚も舞い上がった。1番後ろで、リゼアの本の頁がばらばらとめくれていく。リゼアは指を1本挟んで、それを止めた。
「どうですか!」
シオリは、舞った紙が床に落ちきるまで黙っていた。
「……詠唱、しないんだね」
「長いと舌噛むんで!」
「そっか。うん、そっか」
シオリは倒れた的を直しに行き、元の場所に置き直した。それから数歩下がって、ミオの隣に並ぶ。
「じゃあ、私のも一応。……一応ね」
両手を胸の前に揃え、目を閉じる。
「パーティクルエミッション・ベガ」
魔法は、ミオのものよりも細かった。音もほとんどしないまま的の真ん中に届いていた。窓は鳴らず、紙も1枚も動かなかった。
ミオは的を見て、シオリを見て、もう一度的を見た。
「……普通だ」
口から出てから、ミオは両手で口を塞いだ。
シオリは怒らなかった。胸の前に揃えていた手をゆっくり下ろして、床の一点を見つめる。
「成績も真ん中だし、魔法も教本どおりだし、先生からの評価だって、毎年『特に問題なし』の一言だけだし」
「ち、違うんです先輩!今のは褒めてて!普通ってすごいって意味で!」
「普通ってすごいの……?」
「すごいです!多分!」
1番後ろで、頁をめくる音がした。
「真ん中」
ミオとシオリが同時に振り返った。リゼアは本に目を落としたまま、指先だけで的を示した。
ミオは的に駆け寄った。的の真ん中に、指1本分の穴が抜けている。自分が吹き飛ばした方は、どこに当たったのかも分からなかった。
「うわ、ほんとだ。穴空いてる」
「音も立てずに、綺麗にそこだけね」
「私のと全然違う!」
「そうね」
シオリの耳が、みるみる赤くなっていった。
「恥ずかしい……」
ミオは窓際へ走って戻り、瓶を掴んでシオリの前に突き出した。
「これ!差し入れです!飲んでください!」
「え、あ、ありがとう……」
シオリは瓶を受け取り、2色に分かれた中身を光にかざした。リゼアが本を閉じた。
「先輩、無理しなくていいわよ」
「ううん。せっかく持ってきてくれたんだから」
シオリは蓋を開けると、目をぎゅっと閉じて、一息に傾けた。
喉が3回動いた。瓶が空になった。
シオリは瓶を下ろし、口を真一文字に結んだまま、しばらく動かなかった。額に、じわじわと汗が浮いてくる。
「……ありがとう。全部、飲んだから」
「どうでした!?」
「真ん中が、甘くて。……最後が、すごく、辛い」
「赤いとこですね!」
シオリは空の瓶を両手で包むように持ち直した。
「私ね、特徴がないって、本当によく言われるの。だから、せめて真面目にやろうって決めてて」
汗を拭いもしないまま、シオリはミオの顔をまっすぐ見た。
「ミオさんの試合、全部見てたよ。1番前で」
「リゼアさんとの試合も。最後に降参するまで、ずっと撃つのをやめなかったでしょう。あれを見て、私――」
そこで、シオリの言葉が途切れた。
結んだ口の端が、ひくりと動く。額の汗がひと筋、こめかみへ流れていった。
「……先輩?」
「ごめんね。ちょっと、待って」
シオリは顔つきを崩さないまま空の瓶をミオに預け、実習室の中を歩き出した。窓際の棚の扉を開けて、閉める。教卓の下を覗く。的の後ろまで回り込み、何もない壁の前で立ち止まった。
「水……ここ、水ってないんだっけ……」
「えっ、辛いのぶり返してます!?」
「ぶり返して、ます」
声は落ち着いていたが、歩く速さがどんどん上がっていく。ミオは瓶を抱えたまま、その後ろを追いかけた。
「食堂!食堂なら水あります!」
「食堂、遠い……」
「じゃあ私が走って……あっ、でも先輩置いてったら……!」
「大丈夫、待てる、待てるから……」
シオリは2周目に入った。教卓の下を、また覗いている。
1番後ろの席で、リゼアが本を机に置いた。立ち上がってミオの手から瓶を抜き取ると、窓際まで歩いていき、背中を向けたまま少し止まる。
戻ってきた時には、瓶の中に水が満ちていた。
「どうぞ」
「え、あ、ありが――」
言い終わる前に、シオリは瓶を傾けていた。喉が何度も動く。半分ほど飲んだところで口を離し、長く息を吐いた。
「……ありがとう。助かった……」
「底に赤いの、残ってたわよ」
シオリの手が止まった。
軽く振ると、瓶の中で水がうっすらと赤く色づいていく。
シオリは瓶を見て、ミオを見た。それから唇を引き結び、残りを一息に飲み干した。
今回もお読み頂きありがとうございました!
今回はミオとシオリ先輩の初顔合わせでした!ミオの謎ドリンク、ついに被害者が出てしまいました……
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未完成ですが一応作品HPあります→https://hasuki-kuro.github.io/seimyaku/
次回投稿は10月5日(月)6時を予定しております。
何卒よろしくお願いします!




