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【第1章完結】碧眼の花と緋の刃  作者: 伊太利 ひなぎく
第1章

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第20話 前編《山影の決戦①》


遠征訓練6日目の朝。

ふと目を覚ましたユリウスは、まだ薄暗い空を寝転んだまま見上げた。


(ろくに眠れなかった上に、こんな早朝に目が覚めるとはな……)


そう思いながら小さくため息をつく。

二度寝を試みるも上手くいかず、仕方なく身体を起こすと、すぐ横にソニアの姿が目に入った。


「こいつは反対に熟睡、か」


思わずフッと笑ってしまいながらそう呟くユリウス。

安心し切ったような表情でスヤスヤと眠るソニアの様子を微笑ましく思いながら、静かに寝具を片付け、荷物の整理を始めた。


その後しばらく経った頃、ユリウスが朝食の用意をしていると、ゴソゴソとソニアが身を捩らせる。

彼女はゆっくりと身体を起こすと、寝ぼけ眼でじっとユリウスを見つめた。


「ん……クロイツァー大尉……?」

「やっと起きたか。朝飯にするぞ」

「あ、はい。おはようございます……」


眠そうに目を擦りながら、焚き火のそばに移動するソニア。

そんな彼女に、ユリウスは温め直した魚を差し出す。


「今日も距離を歩くからな。腹ごしらえはしっかりしておけ」

「わかりました」


ソニアはそう答えて焼き魚を受け取ると、小さく欠伸をしてからそれに齧り付く。

その様子をじっと伺っていたユリウス。


(ここまで気の抜けたソニアは珍しいな……)


そう思いつつ、自分も彼女に倣って魚を齧った。


その後、野営の後始末を終えた2人は、荷物を背負って立ち上がる。


「えっと、この後は川沿いに進むんでしたっけ?」

「そのつもりだ。流石にもう雨の影響もないだろうが、万が一まだ水量が多ければ、迂回ルートを通らざるを得ないな」


ユリウスの説明に、ソニアは地図を広げて各ルートを確認する。


(なるほど、迂回ルートは川沿いルートの1.5倍くらいの距離になるわけか)


そう顎に手を当てながら考えるソニア。


「残りの物資のことを考えると、迂回ルートはなるべく避けたいですね」

「ああ。ただ、こればかりは俺たちでどうこうできるものじゃないからな……とりあえずは一旦、川の方まで行くぞ」

「はい」


ソニアはそう答えると、ユリウスと並んで歩き始める。

ユリウスはそんな彼女の様子をじっと見つめた。


「ソニア、足の調子はどうだ?体調は?」

「今のところ大丈夫です。すみません、気を遣わせてしまって……」


申し訳なさそうな表情を浮かべるソニアの頭に、ユリウスは軽く手を乗せる。


「お前が気に病む必要はない。それに、こんなトラブル下で学生を気にかけない指導教官というのもどうかと思うぞ?」


その言葉にソニアはついフッと笑ってしまい、ユリウスは首を傾げる。


「どうかしたか?」

「いえ……大尉って、本当に『鬼教官』からは程遠いなぁと思ったもので」


クスクスと小さく笑いながらそう言うソニア。

ユリウスは思わず「は?」と声を上げつつ呆気に取られた。


「……そんなことを言うのは、ソニアくらいなものだろうな」


ユリウスが何とかそう言葉を搾り出すと、ソニアは小首を傾げる。


「そうですか?指導方針が厳しいという点は、私も否定しませんけど……でも、優しい人なのは確かですから」

「……は?」


ソニアからの思わぬ言葉にユリウスは再び声を上げ、目を丸くした。


「だって、大尉が私を突き放したことって、今まで一度もなかったじゃないですか。講義然り、個別指導然り……」

「それは、まあ……お前がめげずに食らいついてきたからな。それなら、俺もきちんと応えるのが礼儀というものだろう?」


まるで『そうするのが当然』といった口調でそう話すユリウス。

そんな彼の様子に、ソニアはフッと微笑む。


「そういうところですよ。ただ厳しいだけなら、教えるだけ教えて『後は自分でやれ』って言われそうじゃありませんか?だから、大尉は優しいと思うんです」

「そういうもの……なのか?」


釈然としない様子のユリウスを、ソニアはじっと見つめる。


(多分、こういう人だからこそ、たとえ尉官でも部隊長として皆さんから慕われてるんでしょうね……まあ、私も例外じゃないんだけど)


そんなことを考えるソニアの横で、ユリウスは困惑したような照れ臭そうな表情を浮かべて頰を掻くのだった。



───────

────

──


2時間ほど山中を歩いていると、ふと視界が開ける。


「あっ……!大尉、川ですよ!」


目の前に現れた川に、ソニアはユリウスを見上げてそう告げた。

川の水量はそこまで多くなく、ユリウスはホッと胸を撫で下ろす。


「やっとここまで来たか……よし、水の補給も兼ねて少し休憩にするぞ」

「はい、わかりました」


揃って荷物を下ろすと、川から水を汲んで煮沸し始めるソニアとユリウス。

ユリウスが川岸で火の番をする傍ら、ソニアは歩き疲れた足を小川に浸して休息を取る。


(もうすぐ、他の皆とも合流できるかな?アンナ、大丈夫かしら……)


ソニアは晴れた空を見上げながらそう考える。


と、その時。

どこからか、耳をつんざくような獣の咆哮が響いた。


焚き火のそばにいたユリウスは、反射的に立ち上がると周囲へと鋭い視線を走らせる。


(一瞬、空気が震えた……)


深い森の静寂を裂くような咆哮に、思わず全身の筋肉が緊張した。


(かなり近いな)


ユリウスは思考を巡らせながら辺りを警戒する。

ソニアも、水音を跳ね飛ばしながら川から上がると、素早く靴を履く。

その表情には、不安と緊張が混じっていた。


「何の鳴き声でしょうか……」


声を震わせつつも平静を保とうとするソニア。

ユリウスの脳裏には、数日前の『あの記憶』がよぎる。


(あの鳴き声……間違いない。できれば、ソニアと2人の時には遭遇したくなかったんだが──)


その思考を打ち消すかのように、再び咆哮が森を貫く。

今度は、地面がほんのわずかに震えた。


確実にこちらに近付いてきていると判断したユリウスは、素早くソニアに声をかける。


「ソニア、こっちに来い!」

「は、はい──」


彼女が駆け寄ろうとした、その瞬間だった。

川面が爆発するように跳ね上がり、巨大な影が水飛沫を弾き飛ばして現れた。


挿絵(By みてみん)


黒く、濡れた毛並み。異様なまでに光る双眸。そして、全身に纏う筋肉の塊──

その熊は、明らかに以前出会ったものと同じ個体だった。


低く、滑るような一歩。

直線的な突進ではなく、こちらの動きを見て、間を測るような挙動。

ただの野獣ではない、狩りを理解している熟練の捕食者の動きだ。


「えっ…?」


目の前の熊に、思わず恐怖で硬直してしまうソニア。

熊が前脚を振りかぶり、振り下ろそうとしたその瞬間──ユリウスの放った火球が熊の横腹を焼いた。

赤い炎が熊の毛を燃やし、辺りに黒煙が舞う。


「ソニア、下がれ!」


ユリウスのその声に反応し、ソニアはようやく身体を動かして後退する。

その背後で熊が唸り声を上げ、炎を前脚で荒々しく払った。


「す、すみません……私、その──」

「言い訳は後だ。今は、あの熊を何とかするぞ」


冷静で鋭いユリウスの声に、ソニアは気を引き締める。


「……わかりました。どう動きますか?」

「ソニアは右側に回れ。挟み撃ちにする」

「はい!」


ソニアが動き出す。

が、それを目ざとく見た熊が素早く向き直り、鋭く低い唸り声を漏らした。


(……やはり、狙いを定めてきている)


ユリウスは思わず眉間に皺を寄せる。

熊が明確に()()()から潰そうとしているのが見てとれた。

次の瞬間、熊は咆哮を上げたかと思うと、爆発的な脚力でソニアへと突進する。


それに気付いたソニアは、瞬時に中級魔術を展開した。

矢じりのように尖った氷塊を複数錬成すると、熊に向けて勢いよく放つ。


が、命中するかに見えた氷塊は、振りかぶった熊の前脚によって弾き飛ばされた。

それを掻い潜った数少ない氷塊も、熊の肉厚な毛皮と筋肉に弾かれ、砕け散る。


「嘘っ…!?」


唖然とするソニア。

その視界の中で、熊が一気に距離を詰める。

世界がスローモーションに落ちた。


眼前に迫る巨大な口。ギラつく歯。

足が動かない。心が追いつかない。


(死ぬ……?)


目をギュッと瞑ったその瞬間、大きな衝撃波がソニアを襲う。

突風に巻き上げられるように吹き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。


「うっ、ぐ……!」


左腕に走る激痛と、焼けるような熱。

ソニアは痛みに顔をしかめながら身体を起こす。


「……あれ?」


目の前にいたはずの熊と、いつの間にか距離が開いている。

ユリウスが魔術の衝撃波で自分を吹き飛ばしてくれたことを、彼女は状況からすぐに察した。


(流石に、あの熊を吹き飛ばすのは無理だものね)


そう思いながら、ソニア即座に立ち上がる。

そんな彼女と、小さく口を動かす熊の様子を交互に確認するユリウスは、「(まず)いな……」と小さく呟く。


(あの熊…… 完全に、()()つもりだ)


ユリウスはそう判断すると、即座に熊の足元に拘束魔術を展開する。

ネーベルを錬成した鎖が熊の脚に絡みつくが、それを意にも介さず熊は前脚を踏み鳴らし、振り解こうと暴れ出す。


(この程度の魔術、すぐに破られるだろうが……今は時間稼ぎが必要だ)


そう考えつつ、ユリウスは素早くソニアの元へと駆け寄った。


「ソニア、大丈夫か!?」

「はい、何とか──」

「来い!あいつから少し距離を取るぞ」


ソニアの手を引いて岩陰へと飛び込むと、息を整える暇もなく彼女に声をかける。


「腕を見せろ」


ソニアは痛みに顔をしかめながら、左腕の袖を捲る。

上腕は、噛まれた痕で浅く裂けていた。

それでも致命傷ではなく、ユリウスは小さく息を漏らす。


「すまない。もう少し早く魔術を展開していれば……」

「いえ……この程度で済んだのは、大尉のおかげです。ありがとうございました」

「……」


ユリウスは無言で自身の上衣の袖を破くと、素早く止血を施す。


「応急処置だ。後できちんと診させてもらうぞ」

「わかりました」


そう答えたソニアは、ユリウスと共にふと熊の様子を伺う。

視界を遮る岩の向こうで、熊は左右に首を振りながら、何かを探しているような動きを見せた。

その様子に、ユリウスは眉をひそめる。


(視覚と嗅覚でこちらを追っているな。完全に獲物としてマークされたか……)


小さく舌打ちするユリウスに、ソニアは声をかけた。


「この状況、どうしますか?」

「完全に俺たちを食いにきているからな……逃げたところで、また狙われるのがオチだ」

「となると、何とかして倒すしかないってことですね」


そう言いながら、ソニアは腕を組んで考え込む。


(巨体なせいか、中級魔術じゃ攻撃が通らない。しかも、さっきのあの熊の動き……明らかに私たちの魔術に順応してきているわ。短期戦となると力押ししかない気もするけど、私はまだ上級魔術を使えないし──)


そこまで考えたソニアはハッと気付いたようにユリウスを見上げた。


()()使えないけど、でも……!)


そんな様子のソニアに、ユリウスは素早く声をかける。


「ソニア、どうした?」

「……これです」


ソニアはユリウスの左手を迷いなく取り、ぎゅっと握りしめた。


「は!?こんな時に何を──」


だがその瞬間、ユリウスは言葉を飲む。


(これは……!)


彼女の手から流れ込んできた魔力──

それは、異物感も抵抗もなく、まるで自分の魔力と同質であるかのように、自然に溶け込んでいく。


「……そういうことか」

「はい、そういうことです。だから……大尉は私を信じて、使ってください」


ソニアはわずかに口角を上げ、落ち着いた声でそう言った。

ユリウスは苦笑を浮かべ、小さく息をつく。


「めちゃくちゃな戦術ではあるが……この際、なりふり構ってはいられないな」


そう言いながら、彼はソニアの手を引いて立ち上がった。


「ソニア、意地でも食らいついてこい」

「もちろんです。絶対に、手は離しません」

「頼もしい限りだな」


ユリウスは彼女の手を握ったまま、岩陰から飛び出す。

音を察知した熊が動きを止め、2人の気配に鋭く視線を向けた。


(熊の反応速度が早い。下手な読みでは狩られる……!)


ユリウスは覚悟を決め、瞬時に魔力を練り上げる。


(術式構築……氷属性、貫通型。対象は下肢──)


魔力が自身の中で捻れ、構築された術式がネーベルを通して一気に展開される。

地面から突き出す無数の氷の槍が、熊の足元を狙って跳ね上がった。


巨体の熊は即座に身をひねるが、すべてを避けきることはできなかった。

数本が右脚に命中し、鈍い音と共に血が飛び散る。


熊が咆哮する。ソニアは思わず耳を塞ぎかけるが、すぐに我に返ってユリウスの手を握り直した。


「上級魔術なら、通りますね!」

「だが硬いな……長期戦は不利だ。一気に畳み掛けるが、残存魔力は大丈夫か?」

「はい!」


その返答に、ユリウスはすぐさま次の構築に取り掛かる。

今度は熱属性──氷を一気に蒸発させ、視界を遮断。


術式を放つと、周囲の氷が一斉に水蒸気となって立ち昇る。


「ソニア、飛ぶぞ」

「えっ……?」


ユリウスは足元に連続して魔術の衝撃波を展開し、反動で跳び上がる。

振り落とされまいと、必死に彼の腕にしがみ付くソニア。

そんな彼女をユリウスは左腕でしっかりと抱き抱えると、右手を熊の頭頂部にかざす。


(上からなら反応が遅れる。そこが、最大の死角……!)


魔力を集中し、巨大な氷塊を作り出す。

重力と自らの魔力で一気に加速し、熊の頭頂部へと音を裂きながら氷塊は落下していく。

が、その瞬間、熊が首をひねり、咄嗟に前脚で氷塊を弾き返す。

跳ね返された氷塊が反転し、こちらへ飛来した。


「えっ!?」

「何だと!?」


ユリウスは即座に障壁魔術を構築・展開して直撃を防いだ。

が、その衝撃でソニアの手が滑り、2人はそれぞれ地面に叩きつけられる。


「ぐっ……」


ユリウスは地面を転がりながら痛みを押して起き上がり、すぐにソニアの姿を探す。

10メートルほど先に、彼女は仰向けに倒れていた。


「ソニア……!起きろ、ソニア!」


ソニアからの応答はない。

気を失っているのか、動く気配すらなかった。


そして、そんな彼女に向かって熊がゆっくりと歩み寄っていく。


(まず)い、このままではソニアが──)


ユリウスは歯を食いしばり、地面を蹴った。


(間に合ってくれ……!)


すんでのところで熊とソニアの間に割って入ると、ユリウスは残るすべての魔力を一点に込めて衝撃波を放った。


魔力の奔流が腕を抜け、空間を歪めるような音と共に熊の巨体を僅かに揺らがせる。

その隙をついて、ユリウスは熊の胸元にシースナイフを突き立てた。

だが刃は浅く、熊は咆哮するだけで怯まない。


(やはり通らないか。だが、魔術もこれ以上は使えない──)


元々、ソニアの魔力譲渡があってこその上級魔術の連発だ。

この状況で、追撃の余地など残っているはずもない。

それでもユリウスは、引くつもりなど一切なかった。


「ここからは、肉弾戦だな」


魔力が尽きても、選択肢はある。

研ぎ澄まされた動きと判断、それこそが軍人の武器だ。


熊の爪が振り下ろされる。

ユリウスはギリギリで躱し、体勢を滑らせて肩の関節を狙い撃つようにナイフを突き立てた。


熊の咆哮が再び響き、その圧力に全身が軋むような錯覚さえ覚えるが、ユリウスは一歩も退かない。

足元の感覚を確かめ、体勢を低く落とす。


(実戦の場数なんて、数えるほどしかない。だが、俺はそれを言い訳にしてきた覚えはない……!)


魔力に頼らず、状況を制する力。

そして有事において、仲間を守りきる胆力。

それこそが軍人としての()()()であると、彼は信じていた。


(俺は軍人だ。階級がどうであれ、それを貫く覚悟はできている)


熊が再び吠える。

前脚を振り上げる動作に、わずかな溜め──その軌道を読むように、ユリウスは身をひねって前へ滑り込む。


(致命傷じゃなくてもいい。戦意を折る。動きを鈍らせる。それができれば、まだ活路はある)


ユリウスは敵の動きに食らいつくように刃を繰り出したその瞬間、まるでフェイントをかけるかのように、熊が前脚でナイフを叩き落とす。


「なっ……!?」


武器を失い、追い詰められたユリウス。

瞬時に思考を巡らせて、反撃の糸口を探る。


(魔術は使えない、他に武器になりそうなものもない──万事休す、か)


そう判断したユリウスは、庇うようにソニアの前に立ち塞がった。


(俺はどうなってもいい。だが、ソニアだけは……!)


熊がとどめの一撃を放とうと前脚を振り上げたその時、辺りに凄まじい衝撃音が森を裂いた。

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