第19話 後編《遭難と日常の間②》
少し早い昼食を終えたソニアとユリウス。
2人は揃って、川で使用済みの調理器具を洗っていた。
(えっと、後洗うものは──)
ソニアはそう考えながら、脇に置かれた小さな匙を取ろうする。
が、つい手が滑ってその匙を川の中に落としてしまう。
(あれ、軍の備品!無くしたら始末書だわ……!)
流される匙を慌てて拾い上げようと、ソニアが咄嗟に手を伸ばしたその時──
「あっ……」
ソニアは焦ってバランスを崩し、倒れ込みながらも匙を守ることに必死になる。
水中で何とか匙を掴むと、しっかりと握りしめて立ち上がった。
水から顔を出したソニアに、ユリウスは慌てたように声をかける。
「ソニア、大丈夫か!?」
「は、はい……ちゃんと死守しました」
そう言って、匙をユリウスに差し出すソニア。
その様子にユリウスは肩の力が抜けるように息をつく。
「お前な……匙1つのために、ずぶ濡れになる必要はないだろうが」
「だって、始末書になるのはちょっと……」
そんなソニアの言葉に、ユリウスはやれやれと口を開いた。
「その程度、俺が適当に誤魔化すに決まっているだろう?匙1つで、ソニアの貴重な時間を取らせてたまるか。そんな時間があれば、実戦関連の諸々を叩き込んでやる」
それを聞いたソニアは、何となくおかしく思って小さく吹き出してしまう。
「ふふっ、ありがとうございます。私も始末書を書くよりは、大尉から色々と教えていただける方が嬉しいです」
笑ってそう言うソニアの言葉に、ユリウスは一瞬ドキッとしてしまう。
(いや、俺は何を──)
そう内心少し狼狽えつつ彼女から匙を受け取ると、もう片方の手を彼女に差し出した。
「とりあえず上がってこい」
「あ、はい……」
その手を取ろうとしたソニアは、ふと考え込むように手を引っ込める。
「ソニア、どうした?」
首を傾げるユリウスを見上げ、ソニアは少し躊躇いがちに口を開く。
「あの……濡れたついでに水浴びしても良いですか?熱で汗をかいたからか、髪がずっとベタベタしてて気持ち悪くて……」
「は……?」
ソニアからの思わぬ言葉に、ユリウスはつい呆気に取られてしまう。
(なるべく早く、ギルベルトたちと合流したいんだが……)
そう思いながらもじっと考え込むユリウスの様子に、ソニアは俯く。
(やっぱり、こんな時に水浴びなんてダメかしら)
ソニアはそう思いながら、ユリウスの返答を待つ。
しばらく悩んでいたユリウスは、小さくため息をつくと頭を掻きつつ口を開いた。
「……わかった。周りのことは見張っておいてやるから、さっさと済ませてこい」
思いもよらないユリウスからの許可に、ソニアの表情がパッと明るくなる。
「ありがとうございます!すぐに済ませますね」
ソニアはそう言うといそいそと服に手をかけ始め、その様子にユリウスは慌てて視線を逸らす。
すぐに立ち上がって焚き火の方へと移動すると、深く肩で息をつきながら川を背にして座り込んだ。
「全く、あいつは……」
ポツリと呟きつつも、ユリウスは周囲に探知魔術を展開させ、しっかりと警戒し始めるのだった。
一方のソニアは、髪をほどいてゆっくりと梳かし、手桶で水をかけながら汗を流していく。
それから冷たい水に潜り込んで、涼を取り始めた。
(こうやって、水に浸かるのって久しぶりかも。寮にはシャワーしか無いものね)
顔だけを水面に出しながら、ぼんやりと実家に思いを馳せる。
(今度、実家に帰る機会があったら、ゆっくりお風呂に入ろうかなぁ……)
そんな呑気なことを考えるソニア。
周りを泳ぐ魚たちをしばらくじっと観察してから、(あんまり長く入ってたら、大尉をお待たせしちゃうわ)と川から上がろうとする。
「あっ……」
ソニアはそこでようやく、身体を拭くものがないことに気付いた。
(ど、どうしよう。流石にこのまま上がれないし……)
解決法をあれこれと考えるも1つしか思い浮かばず、ソニアは渋々少し離れた焚き火の方にいるユリウスに声をかける。
「クロイツァー大尉っ……!」
その声にユリウスは一瞬振り返りそうになるもハッと思い止まった。
(危なかった……)
そう思いつつ、川に背を向けたまま返事をするユリウス。
「ソニア、どうした?」
「その……タオルを出し忘れてしまって。申し訳ないんですけど、取っていただけないでしょうか?」
「わかった。荷物の中か?」
「はい……」
ユリウスはソニアの荷物からタオルを取り出すと、思わず動きを止めた。
(取ったのは良いが……どう渡せば良いんだ?)
仕方なく川の方へ僅かに視線を向けると、川岸から顔だけを出した状態のソニアがこちらを見ている姿が目に入る。
それを確認したユリウスは、川岸に少し近付くとやや遠くから腕を伸ばしてソニアにタオルを手渡す。
「すみません、ありがとうございます」
「いや……気にするな。風邪がぶり返さないように、ちゃんと拭いてから出てこい」
そう言ったユリウスは、再度焚き火のそばに戻って腰を下ろした。
しばらくしてすぐ隣にやってきたソニアに目を向け、ユリウスは思わず声を上げる。
「ソ、ソニア……!?」
「えっ?」
不思議そうに首を傾げる厚手のタオルを身体に巻いたソニアから、ユリウスは思わず視線を逸らす。
「えっと……流石に、服まで大尉に用意していただくわけにもいきませんし……」
「いや、まあ……それはそうなんだが……」
そう言いながら、悶々とするユリウス。
(だからといって、男の横にその格好で──いや、軍人に男も女もないのは確かだが……それにしても、無防備過ぎやしないか?)
ユリウスはどこに視線を向ければ良いのか判断が付かず、気まずさ全開になってしまう。
そんな彼を余所に、ソニアは焚き火のそばに濡れた自分の服を干していく。
(天気も良いし、風も適度に吹いてるし……1時間少しあれば、十分乾くかしら?)
そう考えつつ荷物から着替えを取り出しながら、ユリウスに声をかける。
「せっかくですし、大尉も水浴びされてきたらいかがですか?川の水、冷たくて気持ち良かったですよ?」
「いや、俺は──」
ユリウスはそう言いかけて、ふと言葉を切った。
(このままだと、ソニアが着替えられないか……)
そう思い直すと、サッと立ち上がる。
「そうだな、そうさせてもらおう」
「じゃあ、今度は私が見張りをしておきますね」
「ああ……頼む」
ユリウスは荷物から自分の着替え類を取り出すと、まっすぐに川へと向かっていく。
(大尉を先に行かせて差し上げるべきだったかしら?)
そんなことを考えつつ彼の背中を見送るソニア。
素早く着替えを済ませると、探知魔術を展開しながらそっと目を閉じる。
濡れた髪を風が撫でるのを感じながら、ソニアはどこか心が落ち着いていくのを感じるのだった。
水浴びを終えたユリウスが川から戻ると、焚き火のそばでソニアが一生懸命に髪を乾かそうとしているのが目に入る。
その様子を何となく微笑ましく思いながら、ユリウスは彼女の横に腰を下ろし、しばらくソニアをじっと眺めてから口を開いた。
「それだけ長さがあると、乾かすのも一苦労だな」
「そうなんです。川の水のせいか、櫛も通りづらいですし……」
そう言いながら、ソニアは所々絡まった髪にグシグシと櫛を通そうとする。
しばらく格闘していたソニアだったが、やがて諦めたのか櫛を荷物に仕舞い込む。
「もう良いのか?」
「はい。まとめてしまえば同じですし、このまま乾かします」
苦笑いしつつ軽く手櫛で髪を整えるソニアを、ユリウスはじっと見つめた。
「何でしょうか?」
「前にも思ったが……髪型1つで、随分と雰囲気が変わるものなんだな」
そう言われたソニアは、小首を傾げながら口を開く。
「自分ではよくわからないですけど……変でしょうか?」
「いや……そうやって下ろしているのも、よく似合っているぞ」
予想だにしていなかったユリウスの言葉に、ソニアは思わず目を丸くした。
言葉の出ない彼女の様子に、ユリウスもふと自分の発言を振り返る。
(ソニア相手に、俺は何を言っているんだ……)
ユリウスはそう思いながら、気まずそうに頬を掻いた。
「えっと……あ、ありがとうございます……」
そう礼を言いつつも何となく気まずい空気を感じたソニアは、話題を変えようと口を開く。
「あの……いつ頃出発しますか?」
その問いに、ユリウスは少しホッとしながら腕を組んだ。
「そうだな……すぐにでもと言いたいところだが、状況的にはソニアの服が乾き次第だろう」
その言葉に、ソニアは干された自分の服に軽く触れる。
(まだ少し湿ってるけど──)
そう思いながら、ユリウスに視線を向けた。
「後30分もあれば乾きそうです」
「わかった。それなら、今のうちに出発準備を整えておくか」
「わかりました」
2人はその場から立ち上がると、揃って荷物の整理を始めるのだった。
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──
その後、休憩地点を出発したソニアとユリウスは、暗くなり始めた山林の中を数時間歩き続けていた。
地図を広げながら前を歩くユリウスは、周りの地形を確認しながら野営ポイントを探す。
一方のソニアは、やや息を切らせながら彼の後を追う。
そんな彼女の様子をチラリと伺いながら、ユリウスは頭を悩ませる。
(ソニアを休ませてやりたいのは山々なんだが……やはり、完全に日が落ちる前に野営場所に辿り着けない方が危険だ)
そう判断せざるを得ないこの状況を少し申し訳なく思いながらも、彼はソニアに声をかけた。
「ソニア、後5キロほど歩けば野営ポイントだ。そこまで頑張れそうか?」
「は、はい。頑張りますっ……!」
「……」
ソニアの様子にユリウスは無言で少し考え込むと、彼女に手を差し出す。
「大尉……?」
「荷物を寄越せ。俺が持つ」
「えっ?」
ソニアは一瞬目を見開くと、フルフルと首を横に振った。
「だ、ダメです……!そんなの、大尉に負担が──」
「そもそもお前はまだ病み上がりな上に、足も万全じゃないだろう?無理をさせるわけにはいかないからな」
「でも──」
そう言うソニアから、ユリウスは半ば無理矢理荷物を剥ぎ取る。
2つの荷物をそれぞれの肩で担ぎ直すと、再び野営地点に向けて歩き出した。
ソニアは一連の状況に戸惑いながらも、彼の後に続く。
1時間半ほど歩いたところでユリウスは足を止め、辺りを軽く見回してから、後ろのソニアに声をかけた。
「今夜はここで野営だ」
「は、はい……」
ソニアは深く息を吐くと、その場に座り込む。
そんな彼女の横で、ユリウスは黙々と野営の準備を進めていく。
「あの、私も何か──」
「いい。ソニアは少し休んでいろ」
「……はい」
渋々そう返事をしつつも、ユリウスの言葉をありがたく思うソニア。
(少し落ち着いたら、私もきちんとお手伝いしよう)
そう思いながら、少し荒い息を整えた。
その後、諸々の準備を整えて簡単に食事を終えた2人は、歩き疲れた身体を癒しつつのんびりと焚き火を囲む。
「明日こそ、皆さんと合流できるでしょうか?」
「多分な。その後は小屋の方まで戻って……翌日からは、予定通りの訓練をこなすぞ」
「えっ!?1日くらい休憩してからにしません?」
「駄目だ。ただでさえ、このトラブルで日程が押しているんだからな」
「はーい……」
そんな他愛の無い話をしながら、ソニアはふと夜空を見上げた。
「わあっ……!」
思わず声を上げた彼女の視線の先には、キラキラと星の輝く夜空が広がっている。
「この間は気付きませんでしたけど……星、すごく綺麗ですね」
「……ああ、そうだな」
ユリウスはそう答えつつ、星空に感動している様子のソニアの横顔をじっと見つめる。
(あの時と、同じ顔だな)
初めて海を見た際のソニアの表情を思い出し、ユリウスは思わずフッと微笑んでしまう。
しばらく並んで夜空を見上げていた2人だったが、ふとソニアが眠そうにあくびをする。
その様子に気付いたユリウスは彼女に声をかけた。
「ソニア、もう休んだらどうだ?午後は歩き通しだったから、疲れているだろう」
「でも、まだ後片付けが──」
「それくらい俺がやっておく。休める時に休んでおけ、良いな?」
申し訳なく思いつつも、眠気に抗えないソニアは素直にコクリと頷く。
「見張り用の魔術だけ、展開しておきますね。半径2メートル半くらいで大丈夫でしょうか?」
「ああ、構わない」
ソニアはサッと野営地の中心部に手をかざすと、バングルを通してユリウスから教わった魔術を展開させた。
「これで、朝まで十分持つと思います」
「わかった。すまないな、ソニア……ゆっくり休め」
「はい。おやすみなさい、大尉」
そう言って寝床に横になった彼女は、すぐに寝息を立て始める。
そんなソニアを見守りながら、ユリウスは静かに食事の後処理を終わらせ、布団に潜り込む。
自分も眠ろうと目を閉じかけると、遠くの方で狼と思しき獣の鳴き声が聞こえてきた。
(……かなり距離があるな。おそらく、ここまでは来ないだろう)
そう判断しながらも、しばらくその鳴き声に耳を澄ませるユリウス。
(大丈夫そうだな)
再度目を閉じようとしたその時、背後でゴソゴソと音が聞こえてくる。
何事かと首を後ろに向けると、眠っていたはずのソニアがいつの間にか起き上がっていた。
彼女は不安気な表情で遠くの方に視線を向けており、ユリウスは思わず声をかける。
「ソニア?」
「大尉……鳴き声みたいなの、聞こえませんか?」
「ああ。おそらく、狼だろう。距離的にはここまで近付いては来ないはずだ。魔術も展開済みだしな」
ユリウスは苦笑いしながらソニアにそう告げるが、彼女の表情から不安は消えない。
ソニアは少し考え込んでから、ユリウスの方に向き直って口を開いた。
「あの……そっち側で眠っても良いですか?ちょっと、怖くて……」
「は?」
ユリウスは思わずそう声を上げる。
(いや……ソニアは、外での野営は今日が初めてになるのか。それなら怖く思うのも致し方無しだな)
そう思い直すと、ソニアに声をかける。
「……ああ、構わない」
ユリウスの言葉に、ソニアはようやくホッとした表情を浮かべた。
「ありがとうございます」
そう言ったソニアはゴソゴソと寝床を移動させ、ユリウスのそばで再びコロリと横になる。
やれやれとユリウスが眠りに就こうとすると再び狼の鳴き声が聞こえ、それと同時に背中にそっと何かが触れる感触を覚えた。
(何だ……?)
軽く首を捻ったユリウスは、ソニアが彼に背中をくっつけていることに気付く。
背中にじんわりと伝わってくる温もりに、妙に気を取られてしまう。
(こいつ……思ったより体温高いんだな)
そう思ったユリウスは、ふとソニアの背中が僅かに震えていることに気付き、優しく声をかけた。
「ソニア、大丈夫だ。俺がついている」
「……はい」
小さくそう答えた背後のソニアの様子を、ユリウスはしばらく気にかける。
やがてソニアは眠り始め、その寝息が落ち着いたリズムになるとユリウスはホッと息をつく。
そのまま目を閉じるも何となく彼女の寝息が気になって、なかなか寝付けない。
「……参ったな」
動くに動けないユリウスは、僅かに悶々としながらとにかく眠ろうと努めるしかないのだった。




