奪われた箱と暗記した証拠
共同調査の署名を交わしてから三日後、セレネは記録院の地下保管庫にいた。
顔料工房の帳面をもとに、十年前の注文と運搬記録を照合するためだった。帳面に残されていた注文番号は、記録院の備品台帳には存在しない。だが、削り取られた跡の形から、もともとは別の番号が記されていたことが分かる。
「注文主の名前はない。けれど、受け取り場所は残っている」
セレネは紙片を指で押さえた。
「中央役所の東棟、地下搬入口です」
ノアは地図を広げ、東棟の位置を確認した。
「顔料は工房から直接、役所へ運ばれた。商会は代金だけを支払った可能性がある」
「そして記録院の帳面には、顔料の受け取りがないことになっている」
「誰かが受け取ったのに、受け取っていないことにした」
その言葉を聞いたとき、背後の棚から小さな音がした。
二人が振り返ると、保管庫の扉がわずかに揺れていた。鍵は内側から掛けられている。ノアが音を立てずに近づき、扉を開けた。
廊下には誰もいなかった。
「見張られているのでしょうか」
「可能性は高い」
セレネは机の上に置いた木箱へ目を戻した。母の記録箱から移した複写紙と、顔料工房の帳面の写しが入っている。原本は工房の女主人に預けてある。もしこの箱を失っても、調査そのものは続けられるはずだった。
それでも、箱を閉じる手に力がこもった。
「今日は東棟へ行く。受け取り記録が残っているなら、そこから顔料の行き先を追える」
「記録院を出る前に、箱を分けよう」
ノアは複写紙を二つに分けた。
「君が一つ、私が一つ持つ。どちらかを奪われても、片方は残る」
「それなら、もう一組作ります」
「セレネ」
「写しは多いほどいい。あなたが教えてくれたのでしょう。危険は証明を待たない、と」
ノアは反論せず、紙を受け取った。
東棟の地下搬入口は、古い水路の支線に面していた。かつて荷車を通すために使われた場所だが、今は役所の書類や備品が運び込まれるだけになっている。
受付の記録を調べると、十年前の冬、三度だけ夜間搬入があった。
一度目は鉱石。
二度目は紙。
三度目は空欄だった。
「空欄なのに、受け取り人の印だけある」
セレネは印影を見つめた。四角い枠の中に、欠けた月のような記号が押されている。
「この印、記録院の備品係のものではありません」
「役所の印鑑台帳を確認できるか」
「確認します」
二人が受付を離れたとき、廊下の角から男が現れた。役所の灰色の外套を着ている。年齢は三十代半ば、胸には書記官の徽章があった。
「セレネ記録官ですね」
「そうですが」
「地下の記録は、許可なく閲覧できません。調査官も同様です」
男は柔らかく笑った。
「私は文書管理係のリオネル。お二人の調査については聞いています。上層部から、資料をすべて提出するよう命じられています」
「命令書を見せてください」
「後ほど正式な書面で」
「では、今は提出しません」
セレネが答えると、リオネルの笑みが薄くなった。
「あなたは婚約を解消されてから、ずいぶん強くなった」
「記録の閲覧に、私の婚約状況は関係ありません」
ノアが一歩前へ出た。
「必要な手続きがあるなら、書面で提出してください。我々はそれを確認する」
「承知しました」
リオネルは頭を下げ、廊下の奥へ消えた。
その直後だった。
背後で何かがぶつかる音がした。
セレネが振り向くと、机の上に置いていた木箱がなくなっていた。
保管庫の扉は開いている。ノアが走り出し、セレネも後を追った。廊下の先で、灰色の外套が階段を下りていく。
「止まれ!」
ノアの声が響いた。
男は振り返らず、搬入口へ向かった。階段の途中で、木箱の蓋が外れ、中の紙が何枚か床に散らばる。セレネは足を止め、紙の一枚を拾った。
そこには、顔料の注文番号と、受け取り人の印影が写されていた。
男の姿はすでに外へ出ていた。ノアが追いついたとき、雪の上には馬車の轍だけが残っていた。
「箱は……」
「奪われました」
セレネは息を整えながら答えた。
「ですが、中身の重要箇所は覚えています」
ノアが彼女を見る。
「すべてか?」
「すべてではありません。必要な箇所だけです」
セレネは紙を裏返し、拾った印影を見た。
「注文日、雪解け水での洗浄指定、運搬先が東棟地下搬入口。そして、受け取り人の印は文書管理係のものです」
「リオネルか」
「印影の欠け方が、印鑑台帳にある彼の認印と一致するはずです」
二人はすぐに記録院へ戻った。セレネは記憶を頼りに、失われた箱の中身を書き出した。ノアが質問し、彼女が答える。日付、数量、運搬人の名、帳面の余白にあった小さな記号まで、順番を崩さず記した。
最後にセレネは筆を置いた。
「間違いは?」
「今のところない」
ノアは書き出された記録を見つめた。
「箱を奪った相手は、君が内容を覚えているとは知らなかった」
「だから急いで奪ったのでしょう。こちらが顔料の流通先に近づいたと分かった」
「そして、役所内部の人間しか知らない場所で待ち伏せしていた」
セレネは壁の調査表を見た。顔料工房、商会注文、中央役所の地下搬入口。その線が、文書管理係の名前へつながっている。
「犯人が役所の中にいることは、もう推測ではありません」
「だが、リオネルが実行犯だと断定するには証拠が足りない」
「ええ。だから、彼を追うだけでは駄目です」
セレネは新しい紙を取り、三つの欄を書いた。
木箱を持ち出した者。
顔料を受け取った者。
十年前に契約を書き換えた者。
「同じ人間とは限りません。けれど、役所の記録を扱える者たちの間に、つながりがある」
ノアは彼女の横に立った。
「次は印鑑台帳と夜間搬入の勤務表を調べる」
「その前に、箱を奪われた事実も記録します」
セレネは紙の上に、時刻と場所、目撃した人物、失われた資料の一覧を書き込んだ。
証拠を奪われたことさえ、証拠になる。
そう考えられるようになったのは、ノアと調査方針を立て直したからだった。
窓の外では、雪解け水が細い溝を流れている。木箱は失われた。けれど、記憶と複写と、二人が書き残した記録は残っている。
セレネは最後に、犯人の手掛かりを書き加えた。
役所内部。文書管理係。欠けた月の印。
消された文字を読み戻すだけではない。
今度は、隠れている人間の流れを追う番だった。




