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婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


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9/20

奪われた箱と暗記した証拠


 共同調査の署名を交わしてから三日後、セレネは記録院の地下保管庫にいた。


 顔料工房の帳面をもとに、十年前の注文と運搬記録を照合するためだった。帳面に残されていた注文番号は、記録院の備品台帳には存在しない。だが、削り取られた跡の形から、もともとは別の番号が記されていたことが分かる。


「注文主の名前はない。けれど、受け取り場所は残っている」


 セレネは紙片を指で押さえた。


「中央役所の東棟、地下搬入口です」


 ノアは地図を広げ、東棟の位置を確認した。


「顔料は工房から直接、役所へ運ばれた。商会は代金だけを支払った可能性がある」


「そして記録院の帳面には、顔料の受け取りがないことになっている」


「誰かが受け取ったのに、受け取っていないことにした」


 その言葉を聞いたとき、背後の棚から小さな音がした。


 二人が振り返ると、保管庫の扉がわずかに揺れていた。鍵は内側から掛けられている。ノアが音を立てずに近づき、扉を開けた。


 廊下には誰もいなかった。


「見張られているのでしょうか」


「可能性は高い」


 セレネは机の上に置いた木箱へ目を戻した。母の記録箱から移した複写紙と、顔料工房の帳面の写しが入っている。原本は工房の女主人に預けてある。もしこの箱を失っても、調査そのものは続けられるはずだった。


 それでも、箱を閉じる手に力がこもった。


「今日は東棟へ行く。受け取り記録が残っているなら、そこから顔料の行き先を追える」


「記録院を出る前に、箱を分けよう」


 ノアは複写紙を二つに分けた。


「君が一つ、私が一つ持つ。どちらかを奪われても、片方は残る」


「それなら、もう一組作ります」


「セレネ」


「写しは多いほどいい。あなたが教えてくれたのでしょう。危険は証明を待たない、と」


 ノアは反論せず、紙を受け取った。


 東棟の地下搬入口は、古い水路の支線に面していた。かつて荷車を通すために使われた場所だが、今は役所の書類や備品が運び込まれるだけになっている。


 受付の記録を調べると、十年前の冬、三度だけ夜間搬入があった。


 一度目は鉱石。


 二度目は紙。


 三度目は空欄だった。


「空欄なのに、受け取り人の印だけある」


 セレネは印影を見つめた。四角い枠の中に、欠けた月のような記号が押されている。


「この印、記録院の備品係のものではありません」


「役所の印鑑台帳を確認できるか」


「確認します」


 二人が受付を離れたとき、廊下の角から男が現れた。役所の灰色の外套を着ている。年齢は三十代半ば、胸には書記官の徽章があった。


「セレネ記録官ですね」


「そうですが」


「地下の記録は、許可なく閲覧できません。調査官も同様です」


 男は柔らかく笑った。


「私は文書管理係のリオネル。お二人の調査については聞いています。上層部から、資料をすべて提出するよう命じられています」


「命令書を見せてください」


「後ほど正式な書面で」


「では、今は提出しません」


 セレネが答えると、リオネルの笑みが薄くなった。


「あなたは婚約を解消されてから、ずいぶん強くなった」


「記録の閲覧に、私の婚約状況は関係ありません」


 ノアが一歩前へ出た。


「必要な手続きがあるなら、書面で提出してください。我々はそれを確認する」


「承知しました」


 リオネルは頭を下げ、廊下の奥へ消えた。


 その直後だった。


 背後で何かがぶつかる音がした。


 セレネが振り向くと、机の上に置いていた木箱がなくなっていた。


 保管庫の扉は開いている。ノアが走り出し、セレネも後を追った。廊下の先で、灰色の外套が階段を下りていく。


「止まれ!」


 ノアの声が響いた。


 男は振り返らず、搬入口へ向かった。階段の途中で、木箱の蓋が外れ、中の紙が何枚か床に散らばる。セレネは足を止め、紙の一枚を拾った。


 そこには、顔料の注文番号と、受け取り人の印影が写されていた。


 男の姿はすでに外へ出ていた。ノアが追いついたとき、雪の上には馬車の轍だけが残っていた。


「箱は……」


「奪われました」


 セレネは息を整えながら答えた。


「ですが、中身の重要箇所は覚えています」


 ノアが彼女を見る。


「すべてか?」


「すべてではありません。必要な箇所だけです」


 セレネは紙を裏返し、拾った印影を見た。


「注文日、雪解け水での洗浄指定、運搬先が東棟地下搬入口。そして、受け取り人の印は文書管理係のものです」


「リオネルか」


「印影の欠け方が、印鑑台帳にある彼の認印と一致するはずです」


 二人はすぐに記録院へ戻った。セレネは記憶を頼りに、失われた箱の中身を書き出した。ノアが質問し、彼女が答える。日付、数量、運搬人の名、帳面の余白にあった小さな記号まで、順番を崩さず記した。


 最後にセレネは筆を置いた。


「間違いは?」


「今のところない」


 ノアは書き出された記録を見つめた。


「箱を奪った相手は、君が内容を覚えているとは知らなかった」


「だから急いで奪ったのでしょう。こちらが顔料の流通先に近づいたと分かった」


「そして、役所内部の人間しか知らない場所で待ち伏せしていた」


 セレネは壁の調査表を見た。顔料工房、商会注文、中央役所の地下搬入口。その線が、文書管理係の名前へつながっている。


「犯人が役所の中にいることは、もう推測ではありません」


「だが、リオネルが実行犯だと断定するには証拠が足りない」


「ええ。だから、彼を追うだけでは駄目です」


 セレネは新しい紙を取り、三つの欄を書いた。


 木箱を持ち出した者。


 顔料を受け取った者。


 十年前に契約を書き換えた者。


「同じ人間とは限りません。けれど、役所の記録を扱える者たちの間に、つながりがある」


 ノアは彼女の横に立った。


「次は印鑑台帳と夜間搬入の勤務表を調べる」


「その前に、箱を奪われた事実も記録します」


 セレネは紙の上に、時刻と場所、目撃した人物、失われた資料の一覧を書き込んだ。


 証拠を奪われたことさえ、証拠になる。


 そう考えられるようになったのは、ノアと調査方針を立て直したからだった。


 窓の外では、雪解け水が細い溝を流れている。木箱は失われた。けれど、記憶と複写と、二人が書き残した記録は残っている。


 セレネは最後に、犯人の手掛かりを書き加えた。


 役所内部。文書管理係。欠けた月の印。


 消された文字を読み戻すだけではない。


 今度は、隠れている人間の流れを追う番だった。

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