十年前に変えられた契約
公文書庫の鍵は、夜明け前の冷気を吸って重くなっていた。
セレネは鍵穴に細い金具を差し込み、記録院から借りた閲覧許可証をもう一度確かめた。公文書庫は中央役所の最奥にあり、十年以上前の水利契約は、通常の台帳とは別の区画に保管されている。
「許可証に不備はない」
隣でノアが言った。
「それでも、閲覧を拒まれる可能性はあります」
「そのときは、拒まれた事実を記録する」
セレネは頷いた。箱を奪われてから、二人は調査の手順を変えていた。誰かに見せる資料を選ぶのではなく、誰が、いつ、何を見せなかったのかまで書き残す。記録を守るには、記録の周囲にある沈黙も記録しなければならない。
公文書庫の管理人は、白髪の女だった。名札にはマルタとある。
「水利契約の閲覧ですね」
許可証に目を落としたあと、彼女は淡々と言った。
「第七保管室。十年前から十二年前の契約書は、棚の奥です」
「管理係の立ち会いは?」
「本来は必要です。ただし、文書管理係リオネルは昨夜から無断で席を外しています」
ノアとセレネは目を合わせた。
「彼は、ここにも入れますか」
「鍵を持つ者の一人です」
マルタは少し迷い、それから小さな帳面を取り出した。
「昨夜、誰かが第七保管室の鍵を借りようとしました。私は貸していません」
帳面には、鍵の貸し出し欄に何も記されていなかった。
何もないことが、かえって不自然だった。
セレネはその頁の端に指を触れた。古い紙の繊維に、薄い灰色の筋が残っている。指先に力を込めると、消された文字の輪郭が浮かび上がった。
「ここに、記入がありました」
「読めるか?」
「日付は昨夜。申請者は……リオネル。目的は、第七保管室の水利契約照合」
マルタの顔色が変わった。
「私はそんな記入を見ていません」
「だから消されたのでしょう」
セレネは紙を傷めないよう、頁を写し取った。
第七保管室には、湿った紙と古い革の匂いがこもっていた。棚の番号をたどり、二人は水利契約の束を取り出す。十年前の契約書は三部あった。役所保管用、記録院提出用、関係商会への交付用。
最初に役所保管用を開いた。
町の上流にある雪解け水を、春の二十日から秋の終わりまで共同管理する。水門の開閉権は役所に属し、各地区への配分は記録院の測量に基づく。
見慣れた条文だった。
だが、最後の頁に貼り合わされた跡がある。
セレネは頁を斜めから光にかざした。紙の色が、わずかに違っていた。
「ここだけ後から差し替えられています」
ノアが灯りを近づける。
「読めるか」
「表面の文字は新しい。けれど、下の層に元の条文が残っている」
セレネは目を閉じ、紙に沈んだ文字を拾い上げた。
水門の操作権は、役所の監督下で各地区の代表が共同して行う。
それが元の文だった。
差し替えられた条文には、別の文言が書かれている。
上流水門の操作権は、北部運搬商会、白樺商会、灰谷商会の三者に委託する。
委託期間は十年。
セレネは息を止めた。
「十年……」
「婚約解消の日に聞いた話と一致する」
ノアが契約書の末尾を指した。委託に伴う費用として、三商会が役所に納める金額が記されている。だが、金額は水路の修繕費には到底足りない。その一方で、三商会には水運と貯水池の使用料を優先的に決定する権利が与えられていた。
「商会が水を独占して利益を得た」
「それだけではない」
セレネは次の頁をめくった。
水量不足、災害、農地の損失が発生した場合、委託先は責任を負わない。
「責任を負わず、料金だけを決められる契約か」
ノアの声が低くなる。
「だから、雪解けの時期に水路が崩れても、誰も修繕しなかった」
セレネは拳を握った。町の水が止まる予兆は、自然災害だけではなかった。十年前に変えられた一枚の頁が、水路を弱らせ、誰も責任を取れない仕組みを作っていた。
けれど、契約書の余白には別の記述もある。
セレネはそこを読み戻した。
「変更の提案者は、役所の水利管理官。承認者は前記録院長。立会人は三商会の代理人」
「エドガーの父親の名がある」
ノアが言った。
「商会だけではありません。役所も記録院も関わっている」
そのとき、棚の外で足音が止まった。
ノアは契約書を閉じ、セレネを背後へかばおうとした。
「動かないでください」
セレネは小声で言った。
「ここにいるのは、契約を隠した人間だけではないかもしれません。誰かが真実を確認しに来た可能性もあります」
足音の主は、ゆっくりと保管室へ入ってきた。役所の制服を着た若い男だった。腕には古い台帳を抱えている。
「驚かせてすみません」
男は立ち止まり、二人を見た。
「私は水利管理課の補佐、ダリオです。十年前の契約について、話したいことがあります」
「あなたは変更に関わったのですか」
「当時は見習いでした。けれど、署名の順番がおかしいことは知っていました」
ダリオは台帳を開いた。
「契約変更の承認日は、雪解け前になっています。しかし商会への交付日は、その三か月前です。まだ契約が存在しない時期に、内容を知っていた」
セレネは台帳と契約書を見比べた。証拠は一本の線ではなかった。複数の帳面に分かれた線が、ようやく同じ一点へ集まり始めている。
「なぜ今、話すのですか」
「リオネルが昨夜、古い記録を探していました。あの人が何を消そうとしているのか、もう黙っていられない」
ダリオは震える手で、一枚の控えを差し出した。
「変更前の契約案です。私は捨てられる前に写しました」
そこには、共同管理と公開測量の条文が残っていた。
セレネはそれを受け取り、丁寧に折った。
「あなたの証言と控えを、正式な記録にします。ただし、都合のいい部分だけは使いません」
「それで構いません」
ダリオは頷いた。
公文書庫を出るころ、東の空が白み始めていた。雪解け水の音が、役所の地下からかすかに響いている。
「三商会が利益を得た。役所が承認し、記録院が隠した」
ノアが言った。
「けれど、まだ誰が最初に書き換えを命じたのかは分かりません」
「追うのか」
「ええ。ただし、もう一つ分かったことがあります」
セレネは契約書の写しを胸に抱えた。
「水を奪った人を罰するだけでは、同じことが起きます。誰でも契約の変更を確認できる仕組みが必要です」
ノアはしばらく黙り、それから穏やかに答えた。
「君なら、その仕組みを作れる」
「私一人では作りません」
セレネは彼を見た。
「調査仲間が必要ですから」
ノアは微笑んだ。
二人の前で、朝の水路が光った。十年前に変えられた契約は、今ようやく、町の人々が読める場所へ戻ろうとしていた。




