悪者を一人にしない調査
朝の水路市場には、いつもより多くの人が集まっていた。
北部運搬商会、白樺商会、灰谷商会。十年前の契約変更で水門の操作権を得た三つの商会が、それぞれ別の帳簿と証言を持って呼び出されていた。
セレネは市場の隅に置かれた長机の前に座り、記録用の紙を並べた。隣にはノアが立っている。彼は護衛のためではなく、証言の順序と時刻を記すために来ていた。
「最初に言っておきます」
セレネは集まった商会主たちを見渡した。
「私は、商会を一括して罪人とは決めません。契約変更によって利益を得た事実と、被害が生まれた事実は、別々に確認します。誰かを悪者にして終わる調査では、同じ仕組みが残るからです」
ざわめきが起きた。
北部運搬商会の主、グレンは、太い指で机を叩いた。
「ずいぶん聞こえのいい話だ。私たちは役所から正式な権利を買った。契約を作ったのは役所と記録院だ。責められる筋合いはない」
「買った金額を確認しても?」
セレネは控えを差し出した。
「三商会が納めた管理費は、当時の水路修繕費の三分の一にも届いていません。その代わり、商会側には水運料と貯水池使用料の決定権が渡されている」
「水門を維持するには、人手も道具も必要だった」
「維持した記録はありますか」
グレンは口を閉じた。
ノアが古い台帳を開く。修繕欄に並ぶのは、同じ職人の名前と、毎年ほとんど変わらない金額だった。ところが村々の証言では、十年間に大きな修繕は一度も行われていない。
「記録上の修繕が、実際には行われていなかった可能性があります」
セレネは書き留めた。
「支払い先を確認させてください」
「それは商会の内部帳簿だ」
「水門の操作権を使っていた期間の公費に関わる記録です。隠すなら、隠したという事実も記録します」
グレンは不満そうに鼻を鳴らしたが、帳簿を開いた。
次に話したのは白樺商会の代理人、ミラだった。彼女は契約変更の理由を、別の角度から語った。
「十年前、春先の雪崩で旧道が塞がりました。役所は水門を開く日を決められず、運搬業者は毎日待たされた。商会が操作を引き受ければ、荷を運ぶ時間を固定できる。そう説明されたのです」
「水門管理を引き受けることが、町のためになると思った?」
「少なくとも私は、そう信じました」
ミラは唇を結んだ。
「けれど、料金の決定権まで含まれているとは知りませんでした。契約書を受け取ったときには、もう変更されていた」
セレネは彼女の言葉をそのまま書き取った。
「署名したのは、あなたです」
「ええ。確認を怠った責任はあります」
その声には、言い逃れとは違う重さがあった。
灰谷商会の主、オルドは最後まで黙っていた。彼は若いころ、上流の村で水路工事をしていたという。
「俺たちは、水を売ったつもりはなかった」
やがて彼は言った。
「水路を使う荷車の順番を決め、運送料を集めただけだ。だが、干ばつの年に役所から『商会が水を止めた』と責められた。だから記録を残すなと言われた」
「誰に?」
ノアが尋ねた。
オルドはしばらく答えなかった。
「水利管理官だ。水門をいつ開けたか、誰に許可したか、書面にするなと。記録があれば、責任の所在がはっきりするからだろう」
市場の空気が冷えた。
セレネは三人の証言を並べた。商会は利益を得ていた。だが、役所は権限を手放すことで責任を逃れ、記録院は承認の順序を見過ごした。商会の一部は仕組みを利用し、一部は仕組みに巻き込まれていた。
被害を受けた側にも、違いがあった。
上流の村では水を優先的に使える代わりに、料金を払えない農家が畑を失った。下流の町では荷運びの時間が短縮された一方、急な水門操作で堤が傷んだ。利益を得た者と損失を負った者は、商会の中でも同じではない。
セレネは一枚の白紙を机の中央に置いた。
「契約変更の経緯を、こう整理します。まず、役所が水門管理の混乱を理由に委託を提案した。次に、三商会が条件を受け入れた。契約書は後から差し替えられ、責任を負わない条文が追加された。その後、料金決定権だけが商会に残り、修繕義務の記録が消えた」
ノアが補った。
「つまり、一人の命令で起きたことではない。複数の人が、それぞれ別の理由で沈黙した結果だ」
グレンが低く笑った。
「それなら、誰も裁けないではないか」
「違います」
セレネは彼を見た。
「誰が何を知り、何を選んだかを分けて記録します。知らなかったことと、知っていて隠したことは同じではありません。けれど、どちらも将来の制度に反映させる必要があります」
ミラが静かに尋ねた。
「商会には、何を求めるのですか」
「利益の全額を奪うことではありません。まず、修繕費の不足分を計算します。水門を使って得た利益のうち、公共設備の維持に使われなかった分を明らかにする。そのうえで、被害を受けた村への補償と、今後の公開記録に協力してもらいます」
「協力しなければ?」
「拒否した事実を公開します」
ノアが小さく息を吐いた。厳しいが、脅しではない。選択の結果を、消さずに残すだけだ。
夕暮れまでに、三商会は帳簿の一部を提出することに同意した。完全な和解には遠い。それでも、責任を一つの名に押しつけず、関係した者の役割を分けて記録する道は開かれた。
市場を出るころ、ノアが言った。
「君は、商会を許すつもりなのか」
「許すかどうかは、まだ決めません」
セレネは水面を見つめた。
「事実を確かめる前に裁くつもりがないだけです。怒りは必要です。でも、怒りだけでは水門の鍵は作れません」
ノアはしばらく黙っていた。
「公平であろうとするのは、疲れるだろう」
「ええ」
「それでも続ける?」
「続けます。私が誰かを憎むためではなく、町が次に同じ選択をしないために」
ノアは微笑んだ。
「その判断を、私は尊敬する」
セレネは返事をしようとして、言葉を失った。胸の奥に、冷たい水とは違う熱が静かに広がっていく。
遠くで水門が軋んだ。
まだ壊れた仕組みは残っている。けれど、その仕組みを作った人々の声が、初めて同じ記録の上に並び始めていた。




