告白より先に守りたい仕事
冬祭りの朝、町は白い息と鈴の音に包まれていた。
水路沿いの通りには、雪解け水を模した青い布が張られ、風が吹くたびに波のように揺れている。屋台には焼いた根菜、蜂蜜酒、干し果実が並び、子どもたちは木彫りの水鳥を手に走り回っていた。
セレネは人の流れを避けながら、記録院の臨時机へ向かった。祭りの賑わいの中でも、彼女の手には厚い帳面がある。先日の聞き取りで商会から提出された記録を整理し、証言と照合する仕事が残っていた。
「祭りの日まで仕事をするとは思わなかった」
背後からノアの声がした。
振り返ると、彼は濃紺の外套を着て、片手に二つの紙包みを持っていた。
「あなたも来ているではありませんか」
「私は君が仕事をしているか確認しに来た」
「それなら、確認は済みましたね」
「済んだ。だから、これは食事だ」
差し出された包みから、香ばしい匂いが漂った。セレネは礼を言って受け取る。焼きたての平焼きパンには、塩漬け肉と温めた豆が挟まれていた。
「食べながらでも帳面は読めます」
「読まない時間を作るために買った」
ノアの言葉に、セレネは少しだけ眉を上げた。
「祭りを楽しめということですか」
「調査官としてではなく、セレネとして」
その呼び方に、胸がかすかに揺れた。
彼女は帳面を閉じた。完全に仕事から離れるのは落ち着かなかったが、ノアと並んで通りを歩くと、見慣れた町が別の場所に見えた。
広場では、今年の水路祭に使った古い石板の代わりに、白木の板へ新しい誓いが刻まれていた。
『水は一人のものではない。記録もまた、一人のものではない』
セレネは足を止めた。
「誰が刻んだのでしょう」
「子どもたちと、石工組合だそうだ。君たちの調査を見て、祭りの言葉を変えたいと言ったらしい」
「まだ何も解決していません」
「それでも、町の人は変化を見ている」
ノアは板に触れず、その文字を見上げた。
「以前なら、誰かが決めたことを信じるしかなかった。今は、確かめようとする人が増えている」
「そうなればいいと思っていました」
「君が始めたからだ」
セレネはすぐに否定しようとした。しかし、広場の端で老人が若い水路番に古い記録の読み方を教えているのが見えた。祭りの飾りの下では、商会の人間と村人が同じ鍋から料理をよそっている。疑いが消えたわけではない。それでも、互いを見ないふりをするだけの町ではなくなりつつあった。
「始めたのは私だけではありません」
セレネは言った。
「あなたが現場を歩き、村人の話を聞き、私の判断を急かさず待ってくれたからです」
「待つのは得意ではない」
「そうは見えません」
「君の前では、得意になりたいと思った」
祭りの音が遠のいた気がした。
ノアは紙包みを持つ手を下ろし、まっすぐセレネを見る。いつもの観察する目ではなかった。災害の兆候を探す目でも、記録の矛盾を確かめる目でもない。
「セレネ。私は――」
その先を聞く前に、彼女は彼の袖をつまんだ。
「ノア」
彼は言葉を止めた。
「待ってください」
拒むつもりではなかった。けれど、受け取ってしまえば、何かが変わると分かっていた。変わることが怖いのではない。変わった後も、自分の足で立てるかを確かめたかった。
「私は、今の調査を終わらせたいのです」
「分かっている」
「商会の帳簿も、役所の記録も、まだ途中です。水門の管理を誰でも確かめられる仕組みにするまで、私はこの仕事を手放したくない」
ノアは黙って聞いていた。
「婚約がなくなって、私は初めて、自分の人生を誰かの決定から取り戻せると思いました。だから、今ここで恋愛を選んだら、また誰かとの関係を軸に自分を決めてしまう気がするのです」
言葉にすると、胸の奥にあったものがはっきりした。
「あなたを信じていないわけではありません。むしろ、信じているからこそ、曖昧なまま寄りかかりたくない」
ノアはしばらく広場を見つめていた。やがて、静かに息を吐く。
「君は、私に答えを急がせないのだな」
「あなたにも、私にも」
「では、私は待ってもいい?」
セレネは袖をつまんでいた指を離した。
「待つかどうかは、あなたが決めてください。私は、待つことを求めません」
「それでも、隣で調査を続けることは?」
「それは仕事です」
「仕事なら、君は私を追い払わない」
「必要なら追い払います」
ノアが笑った。セレネもつられて笑う。
「分かった。告白は、君の仕事が終わるまで預けておく」
「預ける場所が悪いです。記録院には未処理の箱が多すぎます」
「では、なくさないように私が覚えておく」
その言葉は軽い冗談のようで、妙に真剣だった。
二人は広場を離れ、凍った水路のそばを歩いた。雪の下で水は細く流れている。止まっているように見えても、春へ向かう力を失ってはいない。
角を曲がると、臨時机の上に新しい届け出が積まれていた。上流の村から、水門の開閉時刻を住民にも知らせてほしいという要望書だった。差出人の欄には、複数の村名と商会名が並んでいる。
セレネは帳面を開いた。
「祭りは終わりです」
「まだ昼だ」
「私にとっては、もう始まっています」
ノアは苦笑しながら、彼女の隣に立った。
「それなら、まず何をする?」
「誰でも確認できる水量記録の試験運用を考えます。商会にも村にも役所にも、同じ数字を見せる方法を作るのです」
「手伝おう」
「対等な調査仲間として?」
「もちろん」
セレネは頷き、最初の欄に日付を書き込んだ。
恋の答えは、まだ先でいい。自分の名で守るべき仕事があり、誰かに選ばれる前に、自分で選びたい未来がある。
その隣でノアが紙を押さえた。風に飛ばされないように、ただそれだけのために。
雪の町に鈴が鳴る。二人は同じ記録を見つめながら、次の水路へ向かう準備を始めた。




