↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
8/20

災害調査官の告白


 顔料工房は、町外れの斜面に建っていた。


 雪解け前の冷たい風が、乾燥棚に吊るされた布を揺らしている。工房の煙突からは細い煙が上がっていたが、戸口には鍵がかかっていた。


「休業中でしょうか」


 セレネが戸を叩くと、しばらくして中から年配の女が現れた。白い髪を後ろで束ね、煤のついた手で錠を外す。


「記録院の方なら、見せられるものはありませんよ」


「顔料の製造と販売について、確認したいことがあります」


「十年前のことかい?」


 女の目が、ノアへ移った。


「あなたは災害調査官だね。まだあの雪崩の後始末も終わっていない顔をしている」


 ノアの表情がわずかに固まった。


 セレネは気づいたが、聞かなかった。工房の中には赤紫色の粉を入れた壺がいくつも並んでいた。同じ色に見えても、顔料には光の当たり方で青みや黒みが現れる。母の記録にあった粉と一致するかもしれない。


「この顔料は、古いインクの上に重ねても境目が残りにくいものですか」


「配合を変えればね。だが、誰でも作れるものじゃない。鉱石を細かく砕き、雪解け水で何度も洗う。水の質が変われば色も変わる」


 女は棚の奥から帳面を取り出した。


「十年前に大量注文があった。記録院向けだと聞いて納めたが、代金を払ったのは商会だった」


「どの商会ですか」


 女が答えようとしたとき、外で馬のいななきが聞こえた。


 ノアが振り返る。


「裏口は?」


「ないよ」


 彼はセレネを壁際へ寄せ、入口の横に立った。間もなく、戸を乱暴に叩く音がした。


「役所の確認だ。帳面を出せ」


「役所の人間なら、身分証を見せてください」


 ノアが言うと、外から舌打ちが返った。次に、戸を蹴る音が響く。古い木戸が軋み、棚の壺が震えた。


「帳面を隠して」


 セレネは女から帳面を受け取り、胸元へ抱えた。ノアは戸を押さえながら、低い声で言った。


「裏の壁を探せ。古い工房なら、染料を運ぶ通気口がある」


「あなたは?」


「時間を稼ぐ」


 セレネは壁際の棚を調べた。積まれた木箱の一つに、風が通る隙間がある。押すと、棚全体がわずかに動いた。背後に人ひとりが通れる狭い空間が現れる。


「ここです」


「先に行け」


「ノアは」


「命令ではない。頼んでいる」


 その言葉に、セレネは一瞬ためらった。いつもの彼なら、自分が残ると言うはずだった。けれど、今回は声に余裕がない。


「一緒に来てください」


「分かった」


 二人は通気口を抜け、工房裏の雪の中へ出た。女も帳面を守るため、別の出口から逃げると言った。町へ戻る道は二つに分かれている。


 しばらく歩いたところで、ノアが足を止めた。


「セレネ。君に話しておきたいことがある」


 雪を踏む音が消え、周囲が静かになった。


「今でなくても構いません」


「今でなければ、また黙る」


 ノアは斜面の下を見た。そこには、数年前に崩れた旧水路の跡があった。


「四年前、北境の村で雪崩が起きた。私は調査官として、斜面の亀裂を確認していた。住民を避難させるべきだと考えたが、村長は収穫物を移す時間が必要だと言った。私は、危険の確証がないまま避難命令を出すのをためらった」


 彼の指が、外套の端を強く握った。


「夜になって雪崩が起きた。家が三軒潰れ、二人が亡くなった。私が迷わなければ、助けられたかもしれない」


 セレネは何も言わず、彼の横顔を見た。


「それ以来、私は判断を急がないようにしてきた。記録を集め、証拠を重ね、誰にも反論されない結論を出そうとした。だが、その間にも水は流れる。危険は、証明を待ってくれない」


「だから、私が無茶をすると止めるのですね」


「君を止めたいのではない。君まで同じ後悔を背負うことが怖い」


 ノアの告白は、雪の中へ沈むように静かだった。


 セレネは母の木箱を思い出した。蓋を閉じる母の手。誰かの気配。追い切れなかった調査。そして、今も続いている改ざん。


「私は、あなたを責めません」


「責められて当然だ」


「いいえ。責めることと、記録することは違います」


 ノアがこちらを見る。


「あなたが迷ったことも、判断を誤ったことも、なかったことにはできない。でも、それを隠せば同じことが繰り返されます。だったら、失敗した場所と理由を調査方針に含めるべきです」


「調査方針に?」


「はい。今まで私たちは、消された契約の証拠を集めることだけを優先していました。けれど、顔料の流通、工房への注文、契約を書き換えた時期を別々に追っていた。これでは、誰かが一つの証拠を奪えば、全体が崩れます」


 セレネは帳面を開いた。風に紙がめくれる。


「これからは三本に分けます。顔料そのものの記録、購入者の記録、そして実際に訂正された契約の箇所。どれかが失われても、他の二つから辿れるようにする」


「写しを複数作るのか」


「写しだけではありません。日付と立会人をつけ、工房の女主人にも一部を渡します。記録を一か所に置かない」


 ノアは帳面の余白を見つめ、やがて頷いた。


「君は、私の失敗を調査の一部にするのだな」


「失敗を隠さない人となら、できます」


 ノアはわずかに笑った。苦い笑みだったが、初めて肩の力が抜けて見えた。


 町へ戻る前に、二人は石垣の陰で帳面を書き写した。セレネが注文の日付を読み、ノアが購入者と運搬経路を整理する。互いの記憶違いをその場で指摘し、分からない箇所には空白を残した。


 空白を埋めるために、また調べればいい。


 その夜、記録院の小部屋で、セレネは新しい調査表を壁に貼った。


 顔料工房。記録院の備品庫。十年前の商会注文。母の途切れた記録。


 ノアはその横に、別の紙を貼った。


 災害調査官の判断記録。四年前、北境の村。避難を遅らせた理由。


 セレネは紙を見つめた。


「これも公開するつもりですか」


「いつかは。少なくとも、君には隠さない」


「では、私も一つ追加します」


 セレネは筆を取り、自分の欄に書いた。


 婚約者の言葉を信じ、契約の矛盾を見逃したこと。


 ノアが驚いた顔をした。


「それは君の失敗ではない」


「そう決めつけるのも、記録官としては危険です。私が見逃した事実は残す。ただし、誰かに利用された責任まで引き受けるつもりはありません」


 ノアは静かに頷いた。


 窓の外で、雪解け水が軒先から落ちている。


 二人は新しい方針を紙にまとめ、最後に同じ名を記した。


 セレネ・ノア。共同調査。


 それは恋人の約束でも、主従の命令でもなかった。


 互いの弱さを隠さず、それでも同じ流れを見失わないための、最初の署名だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。