母の記録箱
裁定官の前で契約書を調べるまで、残された時間は三日しかなかった。
セレネは記録院の地下倉庫へ降りた。十年前の水利契約に関わる資料を探すためだったが、目当ての棚へ向かう途中、足元の石床に小さな水染みを見つけた。地下まで雪解け水が入り込んでいる。水路の異常は、町の記録だけでなく、建物そのものにも現れ始めていた。
「この辺りに、母の保管棚があったはずです」
セレネが言うと、後ろからついてきたノアが灯りを掲げた。
「お母上も水路の記録を扱っていたのか」
「記録院の監査官でした。私がここで働き始める前に亡くなったので、詳しい仕事は聞いていません」
母は几帳面な人だった。家では食器の置き場所まで決めていたのに、仕事に使った紙片や測量図は、なぜか整理しないまま残していた。セレネはそれを、母の死後に片づける気になれず、長い間見ないふりをしていた。
棚の奥から、古い木箱を引き出した。蓋には母の筆跡で、短く「未整理」とだけ書かれている。
箱を開けると、乾いた紙の匂いが立ちのぼった。古い地図、破れた水量表、折り畳まれた手紙。どれも分類されていない。セレネは一枚ずつ取り出し、日付と内容を確認していった。
その中に、薄い布で包まれた小瓶があった。
「顔料でしょうか」
ノアが覗き込む。
瓶の底には、暗い赤紫色の粉が沈んでいた。セレネは蓋を開けず、瓶の側面に貼られた紙を見た。母の字で、こう記されている。
――乾燥後、古いインクの上に重ねても境目が残りにくい。水路契約の訂正箇所と同じ可能性。
セレネの喉が乾いた。
「これを母が調べていた?」
「そう読めるな」
ノアは紙を受け取らず、セレネの手元を見ていた。
「触れて確かめるか?」
「……はい」
セレネは小瓶に指を添えた。
見えたのは、母の姿だった。窓のない小部屋で、灯りの下に契約書を広げている。隣には見知らぬ男がいた。顔は霞んでいたが、袖口に商会の紋章が刺繍されている。
「この顔料は、記録院の備品ではありません」
母の声が聞こえた。
「では、どこから手に入れたのです」
男は答えなかった。代わりに、別の紙を机へ置いた。紙には、複数の商会名と水路工事の日付が並んでいる。
映像が途切れ、セレネは指を離した。
「何が見えた」
「母が、顔料の入手先を調べていました。商会の人間と会っていたようです。それから、水路工事の日付と商会名の一覧も」
「顔は?」
「分かりません。けれど、紋章は見ました」
セレネは箱の底を探った。布の切れ端の下から、小さな金属片が出てきた。商会の紋章を刻んだ留め具だった。半分に折れている。
ノアが眉をひそめる。
「母上が持ち帰ったのか。それとも、誰かが置いていったのか」
「分かりません」
セレネは留め具を掌に載せた。冷たい金属からは、母が箱を閉じたときの記憶が伝わってくる。急いで蓋を押さえ、鍵をかける母。背後で扉が開く音。母は振り返り、何かを隠すように箱を抱えていた。
次の瞬間、映像が黒く沈んだ。
「母は、誰かに見つかったのかもしれません」
「それは事故だったのか?」
「母は階段から落ちて亡くなったと聞いています。けれど、今まで疑ったことはありませんでした」
言葉にした途端、胸の奥に硬いものが落ちた。母の死を疑うことは、母を信じていなかったことになる気がした。だから、何も考えずに受け入れてきた。
ノアはすぐに慰めようとはしなかった。ただ、灯りを少し近づけた。
「今、無理に結論を出す必要はない」
「でも、この箱にあるものは、裁定会へ持っていくべきです」
「母上の記録を証拠にするのか」
「未整理の記録です。顔料の分析結果もない。証拠としては弱いでしょう」
「それでも、調査の道筋にはなる」
セレネは頷き、紙を日付順に並べた。十年前の契約改訂の三か月前、母は顔料を調べ始めている。その後の記録は急に途切れていた。
箱の隅に、封をされた手紙が一通残っていた。宛名はない。封蝋は割れている。
セレネが開くと、短い文面が現れた。
――水は流れを変えられる。記録も同じ。ただし、流れを変えた者は、必ずどこかに余分な跡を残す。
母の言葉だった。
その下には、三つの場所の名が書かれている。記録院、公文書庫、そして町外れの顔料工房。
「工房へ行こう」
ノアが言った。
「裁定会まで二日しかありません」
「だからこそ、顔料が今も作られているものか確かめるべきだ」
セレネは箱の中身を写し取り、原本を布で包んだ。母が残した記録を、今度は自分が守る。
倉庫を出る前、彼女は木箱を振り返った。
母は不正を追っていたのかもしれない。けれど、追い切れなかった理由までは、まだ分からない。
分からないことを恐れて蓋を閉じるのではなく、分からないまま記録する。それが記録官の仕事だと、セレネは初めて母の背中から教えられた気がした。
階段を上ると、ノアが隣に並んだ。
「君の母上は、君に似ているな」
「頑固なところが?」
「見たものを、見なかったことにできないところが」
セレネは返事をしなかった。ただ、手の中の封筒を強く握った。
母の記録箱は、過去をしまっておくための箱ではなかった。
消された契約へ続く、最初の扉だった。




