差し替えられた署名
町へ戻った翌朝、セレネが記録院の小部屋で前日の写しを整理していると、扉を叩く音がした。
「セレネ。調査を中止しろ」
入ってきたのはエドガーだった。
以前のように上等な外套を着ている。だが、その顔には婚約を解消した日の余裕がなかった。後ろには役所の紋章を掲げた二人の兵士が立っている。
「これは調査停止命令だ。水利契約の閲覧と、村々への聞き取りをただちにやめてもらう」
エドガーは封蝋の押された書状を机に置いた。
セレネはすぐには手を伸ばさなかった。命令書の紙質、封蝋の色、署名の位置を順に見る。ノアは少し遅れて部屋へ入り、兵士たちの横を通り過ぎて彼女の隣に立った。
「停止の理由は?」
「不正確な記録を用いた扇動だ。君の調査によって村同士の対立が深まり、町の秩序が乱れている」
「昨日、二つの村は立会いのもとで水量を確定しました。争いを煽ったのは、食い違う台帳です」
「それを判断するのは君ではない」
エドガーの声が硬くなった。
セレネは書状を開いた。上部には、調査の対象となっている水利契約の名称が記されている。十年前に改訂された、町と周辺村の配水に関する契約だった。
署名欄には、当時の記録院長と水路管理局長、そして町の代表者の名が並んでいる。
最後の署名を見た瞬間、セレネの指が止まった。
紙の上に残る文字が、薄く揺らいだ。
消された記録を読み取るとき、文字は記憶の底から浮かび上がる。完全に消されていれば輪郭だけが残り、上から別の顔料を重ねられていれば、古い線と新しい線が重なって見える。
セレネは目を細めた。
「この命令書の根拠は、十年前の契約ですね」
「そうだ」
「では、契約そのものを確認します」
「閲覧は停止命令に含まれる」
「命令書に、契約の閲覧を禁じるとは書かれていません」
エドガーが黙った。
セレネは書状を机の明かりの下へ移した。署名欄の紙だけが、本文よりわずかに白い。切り取った跡はない。だが、紙の繊維がほかの場所と逆方向に潰れていた。
「この署名欄は、後から差し替えられています」
兵士の一人が息をのんだ。
「何を根拠にそんなことを」
「紙の継ぎ目は隠されています。しかし、本文の下端に残った水染みの形が、署名欄のものと一致していません。さらに、本文の行間には古い折り目があるのに、署名欄には折り目がない。契約書を一度折った後で、署名部分だけ別の紙に置き換えたのでしょう」
セレネは筆先で署名の末尾を示した。
「ここに使われている顔料も、本文の署名とは違います。新しい署名は乾き方が早く、紙の表面にしか染みていない」
ノアが書状を受け取り、裏面を光にかざした。
「署名欄の裏だけ、透け方が違う」
「ええ。しかも、命令書に写された契約名と、契約本文に記された正式名称も一致していません。誰かが別の署名を持つ文書を根拠にして、この命令を書かせたのです」
エドガーの顔から血の気が引いた。
「署名は父のものだ」
「だからこそ、確認が必要です」
「父を疑うのか」
「署名を疑っています。人ではなく、記録を」
セレネは書状を閉じた。
「停止命令を出した人が正しいかどうかは、署名だけでは決まりません。署名が本物で、内容が正しいのか。そこまで確かめなければ命令の根拠にはならない」
エドガーは机の上の書状を見つめた。彼の父は大きな商会を営み、町の水路工事にも資金を出している。水利契約の改訂にも関わった人物だと、セレネは以前から聞かされていた。
だが、今回の命令書にある署名は、父の名を利用しただけかもしれない。
「この命令は有効だ」とエドガーは低く言った。「役所の印がある」
「印も後から押せます」
「セレネ」
「私は従いません。ただし、命令を無視して隠れて調査するつもりもありません。公開の場で、根拠となる契約を調べます」
ノアが頷いた。
「立会人を集めよう。昨日の村の書記と、記録院の監査官を呼べばいい」
「それを許可する権限はない」
「なら、止める権限があることを証明してください」
ノアの言葉に、エドガーの視線が揺れた。
しばらくして、彼は書状を取り上げた。
「三日後、裁定官の前で説明しろ。命令に背いた責任も問われる」
「分かりました。契約書の原本も持ってきてください」
「原本は公文書庫にある」
「あなたがそう言ったことも、記録しておきます」
エドガーは何か言いかけたが、結局、兵士を連れて部屋を出ていった。
扉が閉まると、セレネは長く息を吐いた。手のひらには、知らないうちに爪の跡が残っている。
「怖かったか」
ノアが尋ねた。
「ええ。けれど、怖いからといって、文字を見なかったことにはできません」
「彼は君の元婚約者だ」
「だから、余計な言葉を挟まないようにしました」
セレネは命令書の写しを作り始めた。紙の色、折り目、顔料の濃淡、署名の筆圧。見たものを一つずつ記録する。
ノアはその横で、立会人を呼ぶための文面を書いた。
「エドガーは、君を黙らせるために来たのだろうか」
「本人の意思だけではないと思います」
「署名が差し替えられていたから?」
「ええ。誰かは、調査が契約の本文へ届く前に止めたかった。命令書の署名は、そのために使われたのでしょう」
セレネは写しの最後に日付を書き、自分の署名を添えた。
自分の名を、誰かの権威を飾るためではなく、見た事実に責任を持つために書く。
「この署名は差し替えられません」
セレネが呟くと、ノアは彼女の筆先を見た。
「誰にも?」
「誰かが書き換えようとしても、立会人がいれば分かります」
窓の外では、雪解け水が石の溝を走っていた。
止められたのは調査ではない。古い契約の表面を覆っていた薄い紙だけだ。
その下に何が書かれているのか、セレネはもう知りたくないとは思わなかった。知るべきなのだ。たとえ、その名の中に、かつて自分が信じた人々の署名が残っていたとしても。




