水を分ける記録官
翌朝、セレネたちは三つの村から預かった写しを荷車に積み、谷の分水所へ向かった。
分水所は、山から下ってきた水路が二つに分かれる場所だった。古い石造りの水門が中央にあり、そこから東の畑へ向かう流れと、西の低地へ向かう流れが伸びている。春の雪解けが始まったばかりなのに、水はすでに濁り、石壁の縁まで勢いよく満ちていた。
水門の前には、二つの村の住民が集まっていた。
「東の村が水を取りすぎている」
「先に水を受け取る権利はこちらにある」
「古い契約には、日が昇る前に分けると書いてある」
「その契約は十年前に変わった」
怒鳴り声が水音に混じっている。西の村の農夫が持っていた木札には、受け取る水量として六十樽と刻まれていた。一方、東の村の書記が抱えている台帳には、八十樽と記されている。
同じ水門なのに、二つの村が主張する数字が違っていた。
分水所の管理人は、疲れ切った顔でセレネを見た。
「町の役所へ知らせを送ったのですが、返事がありません。今朝から、どちらへ水を流すべきか決められずにいます」
「決められないままなら、どちらの村も水を失います」
セレネは石壁に近づいた。水門の横には、古い測量標が埋め込まれている。上部に細い溝が刻まれ、一定量の水が流れたときに印が濡れる仕組みだった。
しかし、溝の一部には泥が詰まり、目盛りの線も半分ほど摩耗している。
「この測量標は、いつから使われていますか」
「母の代からです。毎年、春に役所の測量官が確認していました」
「最後に確認されたのは?」
「十年前です」
ノアが水路の先を見渡した。
「十年前から、一度も?」
「測量官は来ました。ただ、標を測るのではなく、台帳に数字を書き写して帰っていきました」
セレネは水面にしゃがみ込んだ。流れは東側へ強く傾いている。水門の板がわずかに歪み、片方の隙間が広くなっていた。
「今のままでは、目盛りだけを見ても正しい分配にはなりません」
東の村の若い男が声を荒らげた。
「なら、また西の村に奪われるのか。去年もそうだった。俺たちの畑は干上がったのに、向こうの麦畑だけは青々としていた」
「去年の配水記録を見せてください」
男は警戒しながら台帳を差し出した。西の村の書記も自分の台帳を開いた。
セレネは二冊を並べた。日付、開門した時刻、閉門した時刻。数字は食い違っているが、奇妙なことに、どちらの台帳にも同じ空白があった。
「去年の四月三日、開門時刻がありません」
「その日は水門が壊れた日だ」と西の村の管理人が言った。「修理のため、昼まで流れを止めた」
「東の台帳には、朝から水を受け取ったと書かれています」
若い男が眉をひそめた。
「そんな記録、初めて見た」
セレネは台帳の紙を傾けた。東の村の欄には、後から薄い灰色の膜が塗られている。下に残った文字は、今の数字とは違っていた。
「この記録も訂正されています」
その場にいた人々が黙った。
セレネは訂正前の数字を読み戻した。東の村に書かれていたのは八十樽ではなく、四十樽だった。西の村の六十樽という記録も、もとは百樽と記されている。
「誰かが、二つの村の数字を同時に少なく書き換えています」
「では、余った水はどこへ行った?」
ノアが水門の中央を指した。
「余った分が、分水所の下流へ流された可能性がある。ここから先には、町へ向かう古い支流があるはずだ」
管理人が驚いた顔をした。
「支流は十年前に埋めたと聞いています」
「聞いただけですか」
ノアは石壁の裏へ回り、苔に覆われた細い溝を見つけた。水はそこへも流れ込んでいる。溝の先には新しい泥の跡があり、最近掘り返された形跡があった。
セレネは周囲を見回した。
「水路を実際に測りましょう。古い測量記録が残っているなら、今の流れと比べられます」
管理人が小屋の奥から、油紙に包まれた巻物を持ってきた。そこには二十年前の測量図が描かれていた。分水所の幅、石門の高さ、東西の水路へ送る割合まで細かく記されている。
セレネは図と実物を何度も見比べた。
「この分水所は、東へ四割、西へ六割に分ける設計です」
「だが、今は東へもっと流れている」
ノアが板の傾きを測った。石の上に細い棒を置き、水面の高さを記録する。セレネは古い図の数値から、現在の流量を計算した。
「板を元の位置へ戻せば、ほぼ六十樽と四十樽になります。西の村の木札にある六十樽は正しい。ただし、東の村の八十樽は、後から書き足された数字です」
東の若い男は、台帳を見つめた。
「俺たちは、八十樽を受け取る権利があると思っていた」
「あなたたちが悪いのではありません。記録がそう見せていたのです」
セレネは両方の村人に向き直った。
「今すぐ決めるべきなのは、どちらが正しいかを争うことではありません。水門を測量図どおりに戻し、今日の流量を両方の村の立会いで記録することです。そのうえで、過去の訂正箇所を別に調べます」
誰もすぐには返事をしなかった。やがて西の村の管理人がうなずいた。
「こちらは立ち会う」
東の若い男も、しばらく黙ったあとで言った。
「俺もだ。八十樽を譲るのではない。正しい数字を確かめる」
ノアと管理人が水門の板を動かし、セレネは水面の高さと時刻を記録した。二つの村の書記がそれぞれ同じ数字を書き、立会人の名を添える。夕方までに、分配された水量は古い測量図と一致した。
争いは完全には消えなかった。それでも、怒鳴り声は止み、村人たちは初めて同じ水面を見ていた。
帰り道、ノアは歩調を緩めてセレネの隣に並んだ。
「君は、どちらかの味方になると思っていた」
「私も、最初はそうしなければならないと思っていました」
「だが、両方の間違いを示した」
「間違いを示すことと、人を責めることは別です」
セレネは記録板を抱え直した。
「水は、声の大きい人のところへ流れるべきではありません。測れるなら測り、測れないなら測れる仕組みを作る。それだけです」
ノアはしばらく黙っていた。
彼女が自分の知識を誇るのではなく、誰もが確かめられる形へ変えていく。その姿を見ていると、胸の奥に静かな熱が残った。崩落の現場で危険を恐れず指示を出したときも、村人の署名を一つずつ集めたときも、彼女は誰かに認められるためではなく、正しい判断を選んでいた。
ノアは、自分がセレネの判断力に惹かれていることを認めた。
それは、守ってやりたいという気持ちとは違う。彼女の隣で、同じ記録を見て、同じ責任を引き受けたいという思いだった。
町へ戻る前に、セレネは分水所で作った新しい記録を箱へ収めた。水門の位置、測量図との比較、二つの村の立会人の名。最後に、短く書き加える。
――古い測量記録と実地観測により、配水の基準を確認。数字の争いは、数字を共有することで止められる。
箱を閉じたセレネの横で、ノアは何も言わずに鍵のかかった蓋を支えた。
二人の手が一瞬触れた。
セレネが顔を上げると、ノアはすぐに手を引いた。けれど、その目には以前とは違う光があった。
水路沿いの村々で、改ざんされた記録はまだ見つかるだろう。
それでも、今日の一枚は消せない。水を受ける者たちが同じ場所に立ち、同じ流れを見て、自分の名で確かめた記録だからだ。




