↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/20

水を分ける記録官

 翌朝、セレネたちは三つの村から預かった写しを荷車に積み、谷の分水所へ向かった。


 分水所は、山から下ってきた水路が二つに分かれる場所だった。古い石造りの水門が中央にあり、そこから東の畑へ向かう流れと、西の低地へ向かう流れが伸びている。春の雪解けが始まったばかりなのに、水はすでに濁り、石壁の縁まで勢いよく満ちていた。


 水門の前には、二つの村の住民が集まっていた。


「東の村が水を取りすぎている」


「先に水を受け取る権利はこちらにある」


「古い契約には、日が昇る前に分けると書いてある」


「その契約は十年前に変わった」


 怒鳴り声が水音に混じっている。西の村の農夫が持っていた木札には、受け取る水量として六十樽と刻まれていた。一方、東の村の書記が抱えている台帳には、八十樽と記されている。


 同じ水門なのに、二つの村が主張する数字が違っていた。


 分水所の管理人は、疲れ切った顔でセレネを見た。


「町の役所へ知らせを送ったのですが、返事がありません。今朝から、どちらへ水を流すべきか決められずにいます」


「決められないままなら、どちらの村も水を失います」


 セレネは石壁に近づいた。水門の横には、古い測量標が埋め込まれている。上部に細い溝が刻まれ、一定量の水が流れたときに印が濡れる仕組みだった。


 しかし、溝の一部には泥が詰まり、目盛りの線も半分ほど摩耗している。


「この測量標は、いつから使われていますか」


「母の代からです。毎年、春に役所の測量官が確認していました」


「最後に確認されたのは?」


「十年前です」


 ノアが水路の先を見渡した。


「十年前から、一度も?」


「測量官は来ました。ただ、標を測るのではなく、台帳に数字を書き写して帰っていきました」


 セレネは水面にしゃがみ込んだ。流れは東側へ強く傾いている。水門の板がわずかに歪み、片方の隙間が広くなっていた。


「今のままでは、目盛りだけを見ても正しい分配にはなりません」


 東の村の若い男が声を荒らげた。


「なら、また西の村に奪われるのか。去年もそうだった。俺たちの畑は干上がったのに、向こうの麦畑だけは青々としていた」


「去年の配水記録を見せてください」


 男は警戒しながら台帳を差し出した。西の村の書記も自分の台帳を開いた。


 セレネは二冊を並べた。日付、開門した時刻、閉門した時刻。数字は食い違っているが、奇妙なことに、どちらの台帳にも同じ空白があった。


「去年の四月三日、開門時刻がありません」


「その日は水門が壊れた日だ」と西の村の管理人が言った。「修理のため、昼まで流れを止めた」


「東の台帳には、朝から水を受け取ったと書かれています」


 若い男が眉をひそめた。


「そんな記録、初めて見た」


 セレネは台帳の紙を傾けた。東の村の欄には、後から薄い灰色の膜が塗られている。下に残った文字は、今の数字とは違っていた。


「この記録も訂正されています」


 その場にいた人々が黙った。


 セレネは訂正前の数字を読み戻した。東の村に書かれていたのは八十樽ではなく、四十樽だった。西の村の六十樽という記録も、もとは百樽と記されている。


「誰かが、二つの村の数字を同時に少なく書き換えています」


「では、余った水はどこへ行った?」


 ノアが水門の中央を指した。


「余った分が、分水所の下流へ流された可能性がある。ここから先には、町へ向かう古い支流があるはずだ」


 管理人が驚いた顔をした。


「支流は十年前に埋めたと聞いています」


「聞いただけですか」


 ノアは石壁の裏へ回り、苔に覆われた細い溝を見つけた。水はそこへも流れ込んでいる。溝の先には新しい泥の跡があり、最近掘り返された形跡があった。


 セレネは周囲を見回した。


「水路を実際に測りましょう。古い測量記録が残っているなら、今の流れと比べられます」


 管理人が小屋の奥から、油紙に包まれた巻物を持ってきた。そこには二十年前の測量図が描かれていた。分水所の幅、石門の高さ、東西の水路へ送る割合まで細かく記されている。


 セレネは図と実物を何度も見比べた。


「この分水所は、東へ四割、西へ六割に分ける設計です」


「だが、今は東へもっと流れている」


 ノアが板の傾きを測った。石の上に細い棒を置き、水面の高さを記録する。セレネは古い図の数値から、現在の流量を計算した。


「板を元の位置へ戻せば、ほぼ六十樽と四十樽になります。西の村の木札にある六十樽は正しい。ただし、東の村の八十樽は、後から書き足された数字です」


 東の若い男は、台帳を見つめた。


「俺たちは、八十樽を受け取る権利があると思っていた」


「あなたたちが悪いのではありません。記録がそう見せていたのです」


 セレネは両方の村人に向き直った。


「今すぐ決めるべきなのは、どちらが正しいかを争うことではありません。水門を測量図どおりに戻し、今日の流量を両方の村の立会いで記録することです。そのうえで、過去の訂正箇所を別に調べます」


 誰もすぐには返事をしなかった。やがて西の村の管理人がうなずいた。


「こちらは立ち会う」


 東の若い男も、しばらく黙ったあとで言った。


「俺もだ。八十樽を譲るのではない。正しい数字を確かめる」


 ノアと管理人が水門の板を動かし、セレネは水面の高さと時刻を記録した。二つの村の書記がそれぞれ同じ数字を書き、立会人の名を添える。夕方までに、分配された水量は古い測量図と一致した。


 争いは完全には消えなかった。それでも、怒鳴り声は止み、村人たちは初めて同じ水面を見ていた。


 帰り道、ノアは歩調を緩めてセレネの隣に並んだ。


「君は、どちらかの味方になると思っていた」


「私も、最初はそうしなければならないと思っていました」


「だが、両方の間違いを示した」


「間違いを示すことと、人を責めることは別です」


 セレネは記録板を抱え直した。


「水は、声の大きい人のところへ流れるべきではありません。測れるなら測り、測れないなら測れる仕組みを作る。それだけです」


 ノアはしばらく黙っていた。


 彼女が自分の知識を誇るのではなく、誰もが確かめられる形へ変えていく。その姿を見ていると、胸の奥に静かな熱が残った。崩落の現場で危険を恐れず指示を出したときも、村人の署名を一つずつ集めたときも、彼女は誰かに認められるためではなく、正しい判断を選んでいた。


 ノアは、自分がセレネの判断力に惹かれていることを認めた。


 それは、守ってやりたいという気持ちとは違う。彼女の隣で、同じ記録を見て、同じ責任を引き受けたいという思いだった。


 町へ戻る前に、セレネは分水所で作った新しい記録を箱へ収めた。水門の位置、測量図との比較、二つの村の立会人の名。最後に、短く書き加える。


 ――古い測量記録と実地観測により、配水の基準を確認。数字の争いは、数字を共有することで止められる。


 箱を閉じたセレネの横で、ノアは何も言わずに鍵のかかった蓋を支えた。


 二人の手が一瞬触れた。


 セレネが顔を上げると、ノアはすぐに手を引いた。けれど、その目には以前とは違う光があった。


 水路沿いの村々で、改ざんされた記録はまだ見つかるだろう。


 それでも、今日の一枚は消せない。水を受ける者たちが同じ場所に立ち、同じ流れを見て、自分の名で確かめた記録だからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。