崩れた水路と最初の決断
三度目の鐘が鳴り終わる前に、町の空気は祭りから警戒へと変わった。
広場に残っていた人々が顔を上げ、水路番の少年が鐘楼から駆け下りてくる。白い息を切らしながら、彼は叫んだ。
「山側の旧水路で、泥が流れ込んでいます! 上流の壁が崩れかけている!」
ざわめきが広がった。
セレネは大水路の縁に立ち、山道の先を見た。まだ町へ届く水量ではない。だが、鐘を鳴らすほどの異変なら、役所はすぐに封鎖と責任の所在を考え始めるだろう。誰かが判断を遅らせれば、崩落は水路を越えて住宅地へ向かう。
「旧水路の下に住む家を移してください」
セレネは水路番の少年に言った。
「でも、役所の許可が……」
「許可を待てば、間に合わないかもしれません」
声が広場に響き、何人もの視線が集まった。婚約を解かれたばかりの記録官が、また勝手なことを言っている。そんな目だった。
ノアがセレネの隣に立った。
「旧水路の下流には何軒ありますか」
「倉庫を含めて、十二軒です」
「まず住民を広場へ。荷物は最小限、子どもと高齢者を優先してください。水路番は二人ずつ組み、家を回る。走らせるな。混乱を起こせば、避難そのものが遅れる」
少年はノアの徽章を見て、うなずいた。災害調査官の指示なら、役所の命令に近い重みがある。彼は仲間を呼び、広場の端へ走っていった。
「あなたは?」とノアが尋ねた。
「水路の記録を取ります」
「危険が増したら、すぐに離れてください」
「あなたもです」
ノアはわずかに口元を緩めた。
「調査仲間として、従うかどうかは私が決めます」
冗談を返す余裕があるのかと、セレネは驚いた。だが、その落ち着きが広場にいる人々の不安を抑えていることも分かった。
二人は旧水路へ戻った。
斜面を下る泥水は、さきほどより太くなっていた。封鎖壁の一部が膨らみ、石の間から細い水が幾筋も噴き出している。セレネは崩れた箇所の周囲を見回し、古い測量杭の刻みと現在の水位を照らし合わせた。
「このままなら、壁の中央が先に抜けます」
「抜けた水は下の分岐へ流れる」
「分岐の先は、町の倉庫街です」
「だから住民を避難させた」
ノアは崩落箇所から少し離れた場所に杭を打ち、縄を張った。セレネは彼の動きを見ながら、手元の記録板に時刻と水位を書き込んだ。
そのとき、壁の表面に白い筋が走った。
「下がって!」
ノアが叫ぶ。
次の瞬間、石が一つ、二つと外れた。泥と雪が一気に押し出され、旧水路の底を埋めていく。ノアがセレネの腕をつかみ、斜面の高い方へ引いた。彼女は足を滑らせながらも、記録板を胸に抱えた。
大きな音が山間に響いた。
崩れた壁の一部が水路へ落ち、行き場を失った水が横へあふれ出す。幸い、避難のために張った縄の外側で止まったが、泥流は倉庫街へ向かう細い溝を満たし始めた。
「流れを変えられます」
セレネは斜面下の石積みを指した。
「昔の分岐口です。ここを開けば、水は空き地へ逃がせる」
「分岐口は埋まっている」
「記録では、封鎖は土を詰めただけです。石を三つ外せば届くはず」
「崩落の中へ入る必要がある」
「私が行きます」
「危険です」
「なら、あなたは記録を取ってください。私は水路を見ます」
ノアは反論しかけたが、セレネの顔を見て言葉を止めた。
「分かった。だが、合図を決める。私が戻れと言ったら、必ず戻る」
「あなたも、私が危険だと言ったら退いてください」
「調査仲間だから?」
「調査仲間だからです」
二人は泥水の浅い場所を選び、分岐口へ近づいた。セレネは記録に残る古い図面を思い出し、崩れた石の下へ手を差し入れた。冷たい泥が袖口から入り込む。指先に硬い縁が触れた。
「ここです」
ノアが隣から石を押し、セレネが土を掻き出す。三つ目の石が動いた途端、奥から水が噴き出した。濁った流れは二人の足元を洗い、空き地へ向かって勢いよく下っていく。
倉庫街へ向かっていた水が、少しずつ逸れていった。
広場へ戻ると、避難した住民たちが集まっていた。誰もが泥にまみれたセレネとノアを見ている。役所の書記官も駆けつけていた。
「勝手に住民を動かしたそうですね」と、書記官が険しい顔で言った。「被害が出たら、あなたが責任を取るのですか」
セレネは濡れた記録板を開いた。崩落前後の時刻、水位、分岐口の位置。文字はところどころ滲んでいたが、読める。
「責任を問うなら、まず事実を確認してください。旧水路の封鎖壁は、今日十時四十二分に崩れました。下流の十二軒は十時三十八分から避難を開始し、十一時七分までに全員が広場へ到着しています。分岐口を開けたことで、倉庫街への浸水は防ぎました」
「あなたの記録など、正式な報告ではありません」
「では、今から正式な記録にします」
セレネは広場の中央に立ち、濡れた筆を握った。
「私は記録官セレネ。ここにいる住民の前で、私が見た水位と崩落の順序を読み上げます。異なる事実を知る方は、誰でも訂正してください。私の身分ではなく、記録の内容で判断してください」
静まり返った広場で、彼女は一つずつ事実を読み上げた。
途中、水路番の少年が「避難開始は十時三十七分です」と声を上げた。セレネはすぐに書き直した。別の住民が、分岐口を開ける前に倉庫の扉を閉めたと証言した。ノアも崩落の位置と水の流れを補足した。
記録は、彼女一人のものではなくなっていった。
読み終えたとき、広場の端で誰かが小さく拍手した。やがて拍手は広がり、鐘の音よりも確かな響きになった。
セレネは濡れた手を見下ろした。自分の技能を隠していれば、もっと安全だったかもしれない。疑われず、目立たず、誰かの許可を待っていられたかもしれない。
けれど、消された文字を読めるのに、読めないふりをして人が危険にさらされるなら、その沈黙は中立ではない。
「これからも、私の技能を使います」
隣のノアにだけ聞こえる声で、セレネは言った。
「隠さず、公に」
「それがあなたの決断なら、私はその記録を取ります」
「護衛としてではなく?」
「調査仲間として」
崩れた旧水路の向こうで、雪解け水が新しい道を探していた。セレネはその流れを見つめながら、初めて自分の力を、自分自身の名で引き受けた。




