消された文字が告げる雪解け
祭壇の鐘が二度目に鳴る前に、セレネは広場を抜けた。
石畳の向こうには、山へ続く細い道がある。水路沿いに伸びるその道は、春先にはぬかるみ、ところどころ雪に覆われていた。ノアは先に立ち、足元の崩れやすい場所を確かめながら歩いていく。セレネは彼の背中を追い、胸元に抱えた記録板を強く握った。
「石板の文字を、あなたは本当に読めるのですか」
道の曲がり角で、ノアが振り返らずに尋ねた。
「消された文字なら、完全には消えません。刻まれた溝の深さや、削った方向に痕跡が残ります。上から塗った顔料も、石の呼吸を止めるので分かります」
「記録院の秘術ですか」
「秘術ではありません。見ようとする人が少ないだけです」
答えながら、セレネは自分の声にわずかな震えを感じていた。
これまで彼女は、文字を読み戻す技能を人前で使わないようにしてきた。記録院では重宝される一方で、気味の悪い力だと陰で囁かれていたからだ。過去を暴く力は、都合の悪い者にとって災いになる。
エドガーも、そんな目をしていた。
婚約を解消する直前、彼が向けた視線には、愛情より警戒が勝っていた。
「あなたは、役所の記録を疑っているのですね」
今度はセレネが尋ねた。
「疑うというより、確かめている」
「同じことでは?」
「違います。疑いは結論を急ぐ。調査は、結論を遅らせる」
ノアはそこで初めて彼女を見た。淡い茶色の瞳は、広場で見たときより静かだった。
「あなたは、もう結論を出しているように見えます」
「石板の文は改ざんされています」
「それは見た。だが、誰が、いつ、何のためにやったかは分かっていない」
「……はい」
認めると、喉の奥に引っかかっていたものが少しほどけた。改ざんを見つけたことで、すべてを知った気になっていたのかもしれない。石板の文字は警告であって、犯人の名ではない。
道の下から、水の音が聞こえた。
大水路は白い石で組まれた堅牢なものだが、山側には古い分岐がいくつも残っている。現在は使われていないはずの旧水路も、その一つだった。十年前の大修繕で封鎖されたと記録にはある。
ノアは斜面の前で足を止めた。
「ここです」
雪に半ば埋もれた石組みの隙間から、細い水が流れ出していた。水は濁り、茶色い泡を浮かべている。セレネは記録板を開き、祭壇の石板に刻まれていた条項を思い出した。
第一水門を開くまで、旧水路への流入を禁ずる。
現在の文には、そう記されていた。だが消された古い文では、雪解けの兆しを確認した時点で旧水路を解放し、流量を分散させるはずだった。
「封鎖されているのに、水が入っています」
「上流の雪が想定より早く崩れた。封鎖壁のどこかが破れている」
ノアは腰を下ろし、水の流れを指で示した。
「この量なら、今すぐ危険というほどではない。ただし、気温が上がれば話は変わる」
「今すぐ水門を開ける必要があります」
「役所は応じると思いますか」
「石板の条項を示します」
「誰が?」
その問いに、セレネは黙った。
役所はすでに彼女を、婚約を解かれたばかりの感情的な記録官として扱っている。祭壇で異議を唱えたことも、責任逃れのために騒いでいると思われるだろう。証拠を示しても、都合よく読み替えられる可能性がある。
ノアは水路の壁を調べながら続けた。
「役所へ戻る前に、上流の流入口を見ます。現地の状況を記録すれば、話を聞かせる材料になる」
「でも、町へ知らせるのが先では?」
「危険が確定していない段階で騒げば、避難の指示そのものが軽く扱われる。反対に、危険が確定してからでは遅い」
冷静な言葉だった。セレネは腹立たしさを覚えたが、すぐにそれが自分の焦りから来るものだと気づいた。
ノアは彼女を安心させるために、都合のよい判断をしているのではない。必要な順序を守ろうとしている。
「では、ここで記録を取ります」
セレネは膝をつき、流れ出す水の位置と幅、濁りの色を記録板に書き込んだ。水路の石に残る藻の線から、昨夜より水位が上がっていることも分かる。筆を走らせていると、ノアが斜面の雪を見つめているのに気づいた。
「何かありますか」
「雪の中に杭がある」
彼が手袋の先で示した場所には、黒い木片が突き出ていた。雪を払うと、古い測量杭が現れた。側面には年号と、流量を示す刻みが残っている。
セレネは息をのんだ。
その年号は、石板の条項が書き換えられた時期と一致していた。
「旧水路は、封鎖されたのではありません」
「そう思う理由は?」
「杭が現役の位置にあります。封鎖工事の後に設置されたなら、ここまで埋まっていない。誰かが水位を測っていた」
ノアは杭を見下ろし、しばらく考えた。
「つまり、旧水路を使わないことにした後も、流量を監視していた者がいる」
「監視していたのに、石板の文だけを変えた」
「あるいは、変えた者が監視記録も持っている」
その言葉が、冷たい水のようにセレネの中へ落ちた。
改ざんは一枚の石板だけではない。誰かが雪解けの時期を知りながら、町に別の判断をさせようとしている。
山の上で、低い音が響いた。
雪の塊が崩れ、斜面をゆっくり滑り落ちていく。水路の中へ泥が流れ込み、濁流が一段高くなった。
ノアが立ち上がる。
「戻ります。今夜、気温が上がれば旧水路の壁は持たない」
「役所を動かせますか」
「あなたの記録と、私の報告を並べれば可能性はある」
「可能性では足りません」
セレネは記録板を閉じた。
「町の人たちにも知らせます。役所が拒むなら、私自身の名で」
ノアは彼女を見つめた。止めると思っていたが、彼は小さくうなずいた。
「それがあなたの選択なら、私は調査官として記録します」
「護衛としてではなく?」
「私はあなたの護衛ではない」
彼の声は淡々としていた。
「調査仲間です」
セレネは一瞬、返す言葉を失った。
山から吹き下ろす風が、青いリボンを揺らす。失った婚約の代わりに得たものを、彼女はまだ名前で呼べなかった。ただ、ノアの言葉が、誰かに守られるためではなく、自分の判断を支えるものだということだけは分かった。
二人は並んで山道を下った。
町では、三度目の鐘が鳴り始めていた。けれどその音は、祭りの合図ではなかった。水路番が異変を知らせる、短く切迫した鐘だった。




