↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/20

消された文字が告げる雪解け

 祭壇の鐘が二度目に鳴る前に、セレネは広場を抜けた。


 石畳の向こうには、山へ続く細い道がある。水路沿いに伸びるその道は、春先にはぬかるみ、ところどころ雪に覆われていた。ノアは先に立ち、足元の崩れやすい場所を確かめながら歩いていく。セレネは彼の背中を追い、胸元に抱えた記録板を強く握った。


「石板の文字を、あなたは本当に読めるのですか」


 道の曲がり角で、ノアが振り返らずに尋ねた。


「消された文字なら、完全には消えません。刻まれた溝の深さや、削った方向に痕跡が残ります。上から塗った顔料も、石の呼吸を止めるので分かります」


「記録院の秘術ですか」


「秘術ではありません。見ようとする人が少ないだけです」


 答えながら、セレネは自分の声にわずかな震えを感じていた。


 これまで彼女は、文字を読み戻す技能を人前で使わないようにしてきた。記録院では重宝される一方で、気味の悪い力だと陰で囁かれていたからだ。過去を暴く力は、都合の悪い者にとって災いになる。


 エドガーも、そんな目をしていた。


 婚約を解消する直前、彼が向けた視線には、愛情より警戒が勝っていた。


「あなたは、役所の記録を疑っているのですね」


 今度はセレネが尋ねた。


「疑うというより、確かめている」


「同じことでは?」


「違います。疑いは結論を急ぐ。調査は、結論を遅らせる」


 ノアはそこで初めて彼女を見た。淡い茶色の瞳は、広場で見たときより静かだった。


「あなたは、もう結論を出しているように見えます」


「石板の文は改ざんされています」


「それは見た。だが、誰が、いつ、何のためにやったかは分かっていない」


「……はい」


 認めると、喉の奥に引っかかっていたものが少しほどけた。改ざんを見つけたことで、すべてを知った気になっていたのかもしれない。石板の文字は警告であって、犯人の名ではない。


 道の下から、水の音が聞こえた。


 大水路は白い石で組まれた堅牢なものだが、山側には古い分岐がいくつも残っている。現在は使われていないはずの旧水路も、その一つだった。十年前の大修繕で封鎖されたと記録にはある。


 ノアは斜面の前で足を止めた。


「ここです」


 雪に半ば埋もれた石組みの隙間から、細い水が流れ出していた。水は濁り、茶色い泡を浮かべている。セレネは記録板を開き、祭壇の石板に刻まれていた条項を思い出した。


 第一水門を開くまで、旧水路への流入を禁ずる。


 現在の文には、そう記されていた。だが消された古い文では、雪解けの兆しを確認した時点で旧水路を解放し、流量を分散させるはずだった。


「封鎖されているのに、水が入っています」


「上流の雪が想定より早く崩れた。封鎖壁のどこかが破れている」


 ノアは腰を下ろし、水の流れを指で示した。


「この量なら、今すぐ危険というほどではない。ただし、気温が上がれば話は変わる」


「今すぐ水門を開ける必要があります」


「役所は応じると思いますか」


「石板の条項を示します」


「誰が?」


 その問いに、セレネは黙った。


 役所はすでに彼女を、婚約を解かれたばかりの感情的な記録官として扱っている。祭壇で異議を唱えたことも、責任逃れのために騒いでいると思われるだろう。証拠を示しても、都合よく読み替えられる可能性がある。


 ノアは水路の壁を調べながら続けた。


「役所へ戻る前に、上流の流入口を見ます。現地の状況を記録すれば、話を聞かせる材料になる」


「でも、町へ知らせるのが先では?」


「危険が確定していない段階で騒げば、避難の指示そのものが軽く扱われる。反対に、危険が確定してからでは遅い」


 冷静な言葉だった。セレネは腹立たしさを覚えたが、すぐにそれが自分の焦りから来るものだと気づいた。


 ノアは彼女を安心させるために、都合のよい判断をしているのではない。必要な順序を守ろうとしている。


「では、ここで記録を取ります」


 セレネは膝をつき、流れ出す水の位置と幅、濁りの色を記録板に書き込んだ。水路の石に残る藻の線から、昨夜より水位が上がっていることも分かる。筆を走らせていると、ノアが斜面の雪を見つめているのに気づいた。


「何かありますか」


「雪の中に杭がある」


 彼が手袋の先で示した場所には、黒い木片が突き出ていた。雪を払うと、古い測量杭が現れた。側面には年号と、流量を示す刻みが残っている。


 セレネは息をのんだ。


 その年号は、石板の条項が書き換えられた時期と一致していた。


「旧水路は、封鎖されたのではありません」


「そう思う理由は?」


「杭が現役の位置にあります。封鎖工事の後に設置されたなら、ここまで埋まっていない。誰かが水位を測っていた」


 ノアは杭を見下ろし、しばらく考えた。


「つまり、旧水路を使わないことにした後も、流量を監視していた者がいる」


「監視していたのに、石板の文だけを変えた」


「あるいは、変えた者が監視記録も持っている」


 その言葉が、冷たい水のようにセレネの中へ落ちた。


 改ざんは一枚の石板だけではない。誰かが雪解けの時期を知りながら、町に別の判断をさせようとしている。


 山の上で、低い音が響いた。


 雪の塊が崩れ、斜面をゆっくり滑り落ちていく。水路の中へ泥が流れ込み、濁流が一段高くなった。


 ノアが立ち上がる。


「戻ります。今夜、気温が上がれば旧水路の壁は持たない」


「役所を動かせますか」


「あなたの記録と、私の報告を並べれば可能性はある」


「可能性では足りません」


 セレネは記録板を閉じた。


「町の人たちにも知らせます。役所が拒むなら、私自身の名で」


 ノアは彼女を見つめた。止めると思っていたが、彼は小さくうなずいた。


「それがあなたの選択なら、私は調査官として記録します」


「護衛としてではなく?」


「私はあなたの護衛ではない」


 彼の声は淡々としていた。


「調査仲間です」


 セレネは一瞬、返す言葉を失った。


 山から吹き下ろす風が、青いリボンを揺らす。失った婚約の代わりに得たものを、彼女はまだ名前で呼べなかった。ただ、ノアの言葉が、誰かに守られるためではなく、自分の判断を支えるものだということだけは分かった。


 二人は並んで山道を下った。


 町では、三度目の鐘が鳴り始めていた。けれどその音は、祭りの合図ではなかった。水路番が異変を知らせる、短く切迫した鐘だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。