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婚約を解かれた記録官は、消された春を読み直す  作者: 銀細工ナギ


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婚約解消は水路祭の鐘とともに

 鐘が鳴った。


 雪解け水を町へ運ぶ大水路、その起点に据えられた白い石の祭壇から、澄んだ音が谷じゅうへ広がっていく。春を告げる水路祭の日、青銀の旗が風にはためき、広場には焼き菓子と香草茶の屋台が並んでいた。山の雪はまだ白く残っているのに、町の人々はもう夏の話をしている。


 セレネは記録院の式服の襟を整え、祭壇の前に立つエドガーを見た。


 彼はいつもどおり端正だった。濃紺の上着、銀糸の刺繍、父親から贈られた水晶の留め具。けれど、その顔に祭りの喜びはなかった。


「セレネ」


 呼ばれただけで、胸の奥が冷えた。


 隣に並ぶはずだった彼は、半歩だけ距離を置いている。見物人のざわめきが、波のように広場の端から寄せてきた。二人の婚約を祝うため、わざわざ山向こうの村から来た者もいる。セレネの母が残した青いリボンも、今日は髪に結んでいた。


「話があります」


「今、ここで?」


「今でなければ、皆に伝える機会がありません」


 エドガーは一度だけ目を伏せ、それから周囲に聞こえる声で言った。


「私は、君との婚約を解消します」


 鐘の余韻が消えるより早く、広場の空気が凍った。


 誰かが息をのんだ。屋台の鍋で煮立つ湯の音だけが、不自然なほど大きく響く。


 セレネは彼の顔を見つめた。驚きはあった。痛みもあった。だが、それ以上に奇妙だったのは、言葉が耳に届いた瞬間、頭の中で別のものがほどけたことだった。


 婚約解消。


 その記録は、いつ、どこで、誰によって残されるのか。


 記録官としての習慣が、感情より先に働いた。


「理由を聞いても?」


「君は記録に執着しすぎる。家を支える妻になる気がない。私の立場を理解しようともせず、古い台帳ばかり掘り返している」


「それが解消の理由ですか」


「父もそう判断した。君の調査は役所を困らせ、商会との関係を悪くする。これ以上、私の家名に傷をつけるわけにはいかない」


 なるほど、とセレネは思った。


 エドガー自身の決断ではない。少なくとも、彼の言葉の並びには、誰かが書いた文章のような硬さがあった。


 そのとき、祭壇の石板に朝の光が差した。


 大水路の建設年と、最初の水利契約を刻んだ古い石板。祭りの日には白布を外し、町の人々に見せる決まりになっている。セレネは何度も目にしていたが、今日は表面に妙な濁りがあることに気づいた。


 水路祭の鐘を鳴らす振動で、薄い石粉がひとひら落ちた。


 その下から、消された文字の端が現れた。


 セレネは反射的に身をかがめた。指先で触れてはいけない。記録院の規則では、古文書や碑文に直接触れることは禁じられている。それでも、目で追えば分かる。


 刻み直された線の深さ。

 削られた溝に残る灰白色の粉。

 上から塗られた、わずかに青みを帯びた顔料。


 誰かが文字を消し、その上から別の文を刻んでいる。


 石板の右端には、祭壇へ流れ込む水の量を定めた古い条項があった。現在読める文は、「雪解けが始まりし後、七日目に第一水門を開く」。


 だが、消された文字の輪郭は違う。


 七日目ではない。


 セレネは息を止めた。残された線を頭の中で組み合わせる。古い公用文字の「三」と「七」は形が似ている。けれど、ここにあったのは三日目だ。しかもその前には、雪解けの兆しを観測した時点で水門を開く、と記されていた。


 雪解けは、もう始まっている。


 山から流れ下る水が例年より濁っていたこと。昨夜、宿直の水番が「上流の音が早い」と話していたこと。今朝、祭壇脇の細い排水溝が満ちていたこと。


 すべてが一つにつながった。


 現行の規定どおりなら、町は七日間、第一水門を閉じたままになる。その間に雪解け水が旧水路へ集中すれば、堤が耐えられない。水が止まるだけではない。どこかが崩れれば、下流の家々が押し流される。


「セレネ、聞いているのか」


 エドガーの声に、広場の視線が戻ってくる。


 彼の後ろには、役所の水利主任がいた。腕を組み、こちらを睨んでいる。セレネが以前提出した台帳の照合報告を、失礼な妄想だと退けた男だ。


「今の話は、記録院にも報告する」


「君は婚約を解かれたばかりだ。混乱しているんだろう」


「混乱しているのは、そちらの記録です」


 言葉が落ちると、誰かが小さく笑った。すぐに笑い声は消えたが、セレネの背筋は伸びた。


 エドガーの頬が赤くなる。


「私を辱めたいのか」


「あなたのことを話しているのではありません。水路のことです」


 セレネは石板を見た。消された文は、まだ完全には失われていない。読み取れる。ならば、救える可能性もある。


 しかし、彼女一人では役所を動かせない。証拠を集める間にも、水は増える。


 広場の外れに、灰色の外套を着た男が立っていた。祭りの喧騒から離れ、山側の水路を見ている。災害調査官ノア。数日前、上流の雪崩跡を調べるため町へ来たと聞いていた。


 彼は人の噂ではなく、地面の傾きや水の色を見る男だという。


 セレネは石板から離れ、彼のもとへ歩いた。


「ノア調査官」


 男が振り返る。淡い茶色の瞳が、彼女の髪の青いリボンから石板へ移った。


「何か」


「水路の記録に改ざんがあります。雪解けの開始日が消され、第一水門を開く時期が変えられている」


「根拠は?」


「石板の刻み跡と、消された文字の残りです。けれど、私の証言だけでは役所は動きません」


「それで、私に何を?」


 セレネは一瞬だけためらった。


 婚約を失ったばかりの自分が、何を信じていいのか分からない。けれど、石板に刻まれた水の約束まで失うつもりはなかった。


「現地を見てください。水路が危険だと、あなたの記録に残してほしいのです」


 ノアは黙って上流を見た。遠い山腹で、雪の塊が鈍く崩れる音がした。


「案内できますか」


「できます」


「婚約者との騒ぎは?」


「もう、私の問題ではありません」


 そう答えると、胸の奥に残っていた痛みが、初めて自分の足元へ落ちた気がした。


 ノアはうなずき、外套の留め具を締めた。


「では、行きましょう。鐘が次に鳴る前に」


 祭壇では、二度目の鐘を鳴らす準備が始まっていた。


 セレネは一度だけ振り返った。人々の間で、エドガーが誰かに何かを訴えている。その声はもう届かなかった。


 彼女は石板に残る消された文字を胸に刻み、ノアとともに、雪解け水の音が強くなる道へ踏み出した。

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