第四話 夢六つ
朝だった。輝樹は自室のベッドにいた。
会社へ行くと、岡本はいつもの席にいた。輝樹も西新宿の自分の席に鞄を置き、昼まで仕事をした。
その日から何日か、同じように会社へ行った。朝は岡本より先に着く日もあれば、岡本がすでに席でメールを読んでいる日もあった。資料を直し、会議に出て、昼を食べ、夕方になれば残った仕事を片づけた。週が変わっても、その繰り返しだった。
数日後、大学時代の友人の田村から誘われ、新宿三丁目の個室居酒屋へ行った。男三人、女三人だった。田村がこちらの幹事で、向こうは有川香菜の会社の先輩がまとめていた。
香菜は輝樹の斜め向かいに座っていた。服もバッグも手を抜いている感じがなく、席へ着いてから外した腕時計まで、選んで身につけているものに見えた。
「河瀬です。二十七」
「有川です。二十四です」
仕事を聞かれ、輝樹はIT関係だと答えた。香菜も会社員だと言った。それ以上は隣の会話に流され、二人だけで長く話すことはなかった。二次会には行かず、店の前で六人とも別れた。
一回目は新宿の飲み屋だった。香菜は今の会社に入ってから担当が二度変わった話をし、輝樹は西新宿で働いていると言った。出身の話になり、香菜が東京育ちだと話した。輝樹も練馬で育ったと答えた。
店は細長く、二人用の卓が壁際に並んでいた。香菜は生ビール、輝樹は瓶ビールを頼み、焼き鳥と冷やしトマトを分けた。香菜が、担当が変わるたびに同じ説明を最初からするのが面倒だと言うと、輝樹は、こちらも引き継ぎ資料を読まずに聞いてくる人はいると返した。出身の話では、練馬は新宿から近いのに遠い扱いをされる、と輝樹が言い、香菜が笑った。
食事が終わるころ、香菜が次は休みの日がいいと言った。日を決め、駅で別れた。
二回目は愛宕山へ行った。出世の石段を見上げて、香菜が先に上り始めた。輝樹も後ろから続いた。
晴れていて、石段には上から日が落ちていた。途中で香菜が一度立ち止まり、振り返って、まだある、と言った。輝樹も手すりの脇で足を止め、下まで続く段を見た。上り切るころには二人とも黙っていた。
上まで着いてから、二十三区で一番高い天然の山らしい、と輝樹が言うと、香菜は息を整えながら、山ってこれでいいんだ、と笑った。
境内を歩きながら、休日に何をしているかを話した。香菜は買い物に出ることが多く、家にいる日は映画を見ると言った。輝樹は遠くへ出るより近場を歩く方が好きだと答えた。
社殿の前を離れてから、香菜がスマホを出した。石段の上から一枚撮り、今度は輝樹に渡して、自分も入るように頼んだ。輝樹が撮った写真をその場で確認し、香菜は一枚だけ撮り直してもらった。輝樹も頼まれて隣に立ち、二人で一枚撮った。
帰りに二人で何枚か写真を撮った。その日の夜、香菜から送られてきた写真を保存し、輝樹も自分が撮ったものを返した。
三回目は渋谷で待ち合わせ、新宿まで歩いた。途中で何度か店を覗き、疲れたところでカフェに入った。
渋谷を出てしばらくは人の多い道を歩き、途中から細い通りへ入った。香菜が店先の服を見て足を止めれば輝樹も待ち、輝樹が道を一本間違えると香菜がスマホを見て戻した。カフェでは窓際の席に座り、輝樹はアイスコーヒー、香菜は紅茶を頼んだ。
家族の話になった。香菜は母親とはよく会うと言い、そのあと少し間を置いて、父は三年前に亡くなったと話した。輝樹はそれ以上聞かなかった。
店を出るころには外が暗くなっていた。二人は再び新宿の方へ歩き、信号で止まっては、青になると並んで渡った。会話が途切れても、そのまま歩けた。
店を出てからも二人で歩いた。新宿が近づいたところで、輝樹は足を緩めた。
「俺、有川さんのこと好きだよ」
香菜はすぐには答えなかった。前を向いたまま数歩歩き、それから輝樹を見た。
「うれしい」
それ以上の言葉はなかった。駅へ着くまで二人で歩き、別れる前に香菜が次の休みを聞いた。雨でも行ける場所がいいと言い、都庁へ行くことになった。
四回目は朝から雨だった。輝樹が都庁第一本庁舎の一階へ入ったとき、香菜はまだ来ていなかった。
入口の外では雨が斜めに落ちていた。自動ドアが開くたびにタイヤの音と雨音が入り、閉じると遠くなった。出入りする人の靴で床には細い水の跡が伸び、清掃のモップが何度かそこを横切った。輝樹は柱の近くに立ち、スマホの時刻を一度見た。
五分ほどして、自動ドアの向こうに香菜が見えた。入口を抜け、濡れた傘を脇へ寄せて畳んだ。
香菜は入口のマットの上で一度傘を閉じ、先端を床へ向けた。布に残った水が縁から落ち、足元に小さな点を作った。留め具を探して指を滑らせ、広がった布を手でまとめてから巻いた。輝樹はその動きを待ちながら、畳まれて細くなっていく傘を見ていた。
緑地に格子の入ったバーバリーだった。緑の部分は全体にくすんで黄ばんでいる。紳士物らしく、香菜が持つには少し大きかった。金具にも持ち手にも、名前や文字は見えなかった。
巻かれた布の格子はところどころ線がずれて見え、濡れた部分だけ色が少し濃くなっていた。香菜は持ち手を手首にかけ、傘袋の口を開いた。輝樹の目は、香菜の手元から離れなかった。
それ、父親が五十歳の誕生日に、母親から贈られた傘だろ。
香菜が傘袋へ入れ、二人は並んで歩き出した。
輝樹は数歩進んだところで止まった。
……なんで俺は知ってる?
香菜も足を止めた。
自動ドアが背後で開き、雨音が一度大きくなった。香菜は半歩先から振り返り、輝樹が来ないのを見て、その場で待った。通路を歩く人が二人の間を避けて通った。輝樹は香菜の手にある傘袋を見てから、顔を上げた。
「それ、お父さんが五十歳の誕生日に、お母さんからもらった傘だよね」
「……うん。え、私それ話したっけ?」
輝樹は香菜の顔を見た。
「いや、ちょっと待って」
香菜は首を傾げたが、それ以上は言わなかった。
少し歩いたところで香菜が化粧室へ行くと言った。輝樹は近くのベンチに座り、香菜が角を曲がって見えなくなるまで待った。膝の上でスマホを取り出した。
四回だった。合コンを入れても五回だった。
合コンでは名前と年齢と仕事を一言ずつ話した。一回目は仕事と出身地だった。二回目は愛宕山で、休みの日に何をしているかを話した。三回目は渋谷から新宿まで歩き、カフェで家族の話をした。そこで聞いたのは、父親が三年前に亡くなったことだけだった。四回目は今日で、これは今日、初めて見た。
輝樹はスマホを出した。香菜とのメッセージを一番上まで遡った。
待ち合わせの時間を決めたやり取りがあった。愛宕山で撮った写真があった。香菜の会社の愚痴があり、次はどこへ行くかという話があり、三回目のあとには帰宅したという短い連絡もあった。今日の待ち合わせ場所を決めたやり取りまで、上から順に読み直した。
それに触れた文はなかった。
香菜とは電話で話したこともなかった。
香菜が化粧室へ行っている間に、送られてきた写真も開いた。愛宕山で撮ったものにも、一回目の店で撮った料理にも、該当する物は写っていなかった。
香菜のSNSも見た。過去の投稿を遡ったが、そこにも写っていなかった。田村は香菜をあの席で初めて知った。香菜側の三人とも、輝樹にはあの日まで面識がなかった。共通の知人もいなかった。
父の形見だろうとは思える。三年前に父親が亡くなっていて、香菜には似合わない古い紳士物を持ってきている。それだけなら察しがつく。
五十歳の誕生日に母親から、までは察しがつかない。つくはずがない。
香菜が戻ってきた。輝樹はスマホを伏せた。
なぜ俺は知っているのか?
左手を持ち上げ、手のひらを開いた。
左手に、コップがあった。
目が覚めた。




