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形而上のコップで優雅なティータイムを  作者: 雁幸三


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最終話 夢、それとも

朝だった。輝樹は自室のベッドにいた。

火曜だった。月曜の夜、布団に入ってスマホを枕元へ置き、電気を消したところまでは覚えていた。そこから先だけがなかった。眠りに落ちた瞬間を思い出そうとしても、最後に残っているのは暗くした天井だった。そんなものは誰でも覚えていない。

顔を洗い、着替え、いつもの時間に家を出た。西武池袋線は朝の混雑で、輝樹は吊革につかまったまま何駅か立っていた。西新宿の会社へ着くと、五年目になった自分の席へ鞄を置いた。引き出しには昨日まで使っていた付箋と充電ケーブルが入り、佐伯課長は少し離れた席でモニターを見ていた。午前中は届いていたメールを返し、昼まで資料を直した。机の脇には自分の名前が入った内線表があり、共有フォルダには先月から触っている案件のファイルが並んでいた。昼前に佐伯課長から修正箇所を一つ戻され、輝樹は赤字のところだけ直して再送した。

昼は岡本と外へ出た。会社の近くの定食屋に入り、向かいに座った。注文した料理を待っている間、岡本は午後の会議が長そうだとぼやいた。

「大野幸助って知ってる?」

「誰?」

輝樹は水を一口飲んだ。それ以上聞かず、運ばれてきた定食に箸をつけた。

食べ終わる少し前、岡本が味噌汁の椀を置いて顔を上げた。

「先週の金曜、休んだだろ」

「それ山田」

「あ、そうだ」

岡本は一度だけ頷き、そのまま別の話を始めた。午後は席へ戻り、定時まで仕事をした。佐伯課長に確認を回し、戻ってきた箇所を直し、ファイルを共有フォルダへ入れた。

帰宅すると、両親が先に夕食を始めていた。輝樹が上着を置いて座ると、母が冷蔵庫から小鉢を出した。

「おとといカレーだったでしょ」

「おとといは鍋だ」

「あ、そうだった。カレーは土曜か」

母は小鉢を卓に置いた。父は何も言わずにご飯をよそった。輝樹も箸を取り、テレビの音を聞きながら食べた。食後、母は残った皿を重ね、父は湯呑みに茶を足した。

食器が片づくと風呂に入り、髪を乾かして自室へ戻った。ベッドの上でしばらくスマホを見てから充電器につなぎ、机の明かりを消した。

水曜の昼休み、輝樹は田村にメッセージを送った。窓際の休憩スペースで、送信した画面を見た。

「合コン、やったっけ」

「合コン?やってないよ」

返事はそれだけだった。輝樹も続けて送らず、画面を閉じた。休憩スペースを出ると、廊下の先でコピー機が動いていた。席へ戻り、午後の予定表を開いた。

帰りの改札で定期券の期限を見て、一週間先だと思っていた日付がその週の金曜になっていることに気づいた。券面をもう一度見ても同じだった。カレンダーを開いて日付を戻すと、自分が更新日を一週間ずらして覚えていた。帰宅途中で更新できる時間を確かめ、翌日に寄ることにした。

電車の中で、岡本が堺の高校を三年間で卒業したことを、いつ聞いたのか辿った。入社した年の歓迎会だった。長いテーブルの端で岡本が堺の話をし、高校まではずっと向こうだったと言っていた。大学から東京へ出たとも話した。その席の並びも、岡本が持っていたジョッキも、途中で料理の皿を回したことも思い出せた。

夜、自室の本棚から梅ヶ丘小の卒業アルバムを出した。棚の奥に立ててあった厚い冊子を机へ置き、ページをめくった。六年の欄を探し、行事の写真を順に見た。鶴岡八幡宮で撮った集合写真があり、高徳院の大仏の前で並んだ写真があり、小町通りで班ごとに歩いている写真があった。別のページにも目を通したが、銭洗弁天の写真はなかった。

入学式のページには、校門の前で並ぶ子どもたちがいた。運動会では色の違う帽子が校庭いっぱいに並び、六年一組の集合写真には幸助もいた。輝樹はページをゆっくり戻し、机の上でアルバムを開いたまま何枚か見直した。

輝樹はアルバムを閉じる前に、幸助へメッセージを送った。

「六年の鎌倉、銭洗弁天行ったっけ」

「行ってないだろ」

画面にはそれ以上何も増えなかった。輝樹は少し待ち、スマホを机へ伏せた。アルバムを元の場所へ戻し、机の上に残った埃を手で払った。

そのあとは机の上を片づけ、アルバムを戻した本棚の前を通って照明を消した。スマホを枕元へ置き、そのまま布団に入った。

木曜も朝から会社へ行った。岡本は自分の席で仕事をしていて、輝樹も届いたメールを返し、午後の会議に出た。定時を少し過ぎて会社を出た。

木曜は仕事を終えてまっすぐ帰った。夕食を済ませ、自室へ入り、ベッドに腰を下ろした。部屋の電気はつけたままだった。両手を膝に置き、しばらく何もせずに座ってから、声に出した。

ベッドの端に座ったまま、輝樹は両手の位置を変えなかった。エアコンの風がカーテンを少し動かし、机の時計の数字だけが進んだ。廊下の向こうで扉が閉まる音がして、それから部屋は静かになった。

「これは夢だ」

何も起きなかった。それが何を意味するのかは分からなかった。

時計の秒表示だけが進んだ。窓の外を車が一台通り、カーテンの隙間に一瞬だけ光が流れた。廊下で母の足音がして、遠ざかった。輝樹はもう一度は言わず、スマホを充電器につないだ。照明を消し、布団に入った。

金曜、帰宅してからコップを探した。要るのかどうかは分からない。要るなら、次のときに手元にあるべきだった。

まず自室の本棚の上を見た。椅子を寄せ、積んであった古い封筒や小箱を一つずつ下ろした。本を何冊か抜き、棚と壁の隙間にも手を入れた。埃のたまった奥まで指を滑らせ、落ちていたクリップを拾ったが、コップはなかった。下ろした物を戻し、椅子も元の場所へ置いた。

次に台所へ行き、食器棚の上段を開けた。踏み台を出し、手前の皿を何枚か下ろした。奥に押し込まれていたマグカップや湯呑みを一つずつ手前へ動かし、重ねてある器の後ろも覗いた。あのコップを使っていたころ、飲み口の欠けた側を避けて口をつけていた。指で縁の向きを確かめてから飲んでいたことまで思い出した。棚の端まで見て、皿を戻した。

洗面所の棚も開けた。洗剤の詰め替えや古いタオルをどけ、下の収納から予備の歯ブラシや石鹸の箱を出した。洗面台の下には掃除用品と買い置きのボトルしかなく、奥へ腕を入れても手に触れるのは配管と壁だけだった。鏡の裏も開け、上の段まで見た。そこにもなかった。

物置の前にしゃがみ、段ボールを三箱引き出した。一箱目には古い教科書とノートが入っていた。二箱目には使わなくなったケーブルや小型の家電が詰めてあった。三箱目には新聞紙に包まれた食器と雑貨が入っていた。新聞紙を一つずつ外し、中身を全部見て、割れないように包み直して戻した。空いた箱の底にも手を入れた。

三箱を物置へ戻したところで、母が廊下を通った。箱を出した跡だけ床に薄く残っていた。輝樹は膝についた埃を払ってから立った。

「ばあちゃんにもらったコップ、どこにあるか分かる?」

「あったわね、おばあちゃんが亡くなる前にあなたにって買ってくれたのよね。どこにやったかしら」

母は足を止め、少し考えてから台所の方を見た。輝樹が食器棚はもう見たと告げると、母は首を傾げたまま居間へ戻った。

父にも聞いた。テレビの前に座っていた父は、一度だけ輝樹の方を見た。

「知らん」

割った記憶はない。捨ててもない。今でもどこかにはあるはずだ。

「割った?捨てた?」

「割ってないわよ」

「だから知らん」

輝樹は自室へ戻り、床に残っていた埃をティッシュで拭いた。探した場所を頭の中で辿っても、他にすぐ開けられる場所は浮かばなかった。香菜のときは四回を数えられた。コップは十年近く、最後に見たのがいつかも数えられない。

土曜は昼まで家にいた。昼食のあと一度外へ出て、夕方には戻った。

午前中、居間では父がテレビをつけ、母が洗濯物を畳んでいた。輝樹はソファの端で番組を眺め、昼になると三人でうどんを食べた。食後は自室でスマホを見て過ごし、午後になって上着を着た。練馬駅前まで歩き、書店で棚を一周してから日用品を少し買った。駅前の人通りを抜け、来た道を歩いて家へ戻った。玄関で靴を脱ぎ、買った物を机の脇に置いた。夕方までテレビの音が居間から聞こえていた。

どこだ?どこにある?

輝樹は頭をかきむしった。

待つことしか思いつかなかった。しかし待って何かが起きる保証もなかった。

夜、自室に入り、机の明かりだけをつけた。椅子に座り、何も持たない手を膝の上へ置いた。電気を消す前に、輝樹はしばらく自分の手を見ていた。

六度とも、そこにあった。

それだけだ。

それでも、他に確かめるものがなかった。

輝樹は、空の左手を握った。

何もなかった。

(終)

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