第三話 夢五つ
朝だった。輝樹は自室のベッドにいた。
一日目はいつも通り会社へ行った。西新宿のオフィスで午前中のメールを返し、昼になると岡本と外へ出た。昼休み、地下の店で向かい合って定食を食べ、岡本が午後の打ち合わせの愚痴を言うのを、輝樹は味噌汁を飲みながら聞いた。午後はそれぞれの席へ戻り、夕方まで仕事をした。
岡本は何度か隣から声をかけてきたが、内容はファイルの場所や会議室の予約だった。輝樹も必要な返事だけをして、退社時刻になればパソコンを閉じた。駅まで歩き、電車に乗り、家へ帰った。
二日目も朝から仕事だった。昼過ぎに修正依頼が重なり、定時を少し過ぎて会社を出た。帰宅して着替えたころ、スマホに幸助からメッセージが届いた。
「梅ヶ丘小の同窓会、明日やるから来いよ。俺が幹事」
場所は練馬駅前の居酒屋だった。参加者の人数と開始時刻も続けて届いた。輝樹は予定を見て、行くと返した。幸助から親指を立てた画像が一つ返ってきて、その日のやり取りはそこで終わった。
三日目、仕事を終えて練馬駅で降りた。店は駅前の雑居ビルの二階にあり、靴を脱いで上がる座敷の奥に十人が集まっていた。輝樹が加わって十一人になった。
幸助は入口に近い席で人数を数え、遅れてくる者がいないことを確かめてから店員を呼んだ。瓶ビールと烏龍茶が回り、刺身の皿と揚げ物が卓に並んだ。久しぶりに顔を合わせる相手もいたが、席が決まるころには呼び方だけ昔に戻っていた。小学校のころの教師や給食、校庭の隅にあった遊具の話があちこちで始まり、給食の牛乳をこぼした話ひとつで卓の端まで笑い声がつながった。輝樹も覚えている話には口を挟み、覚えていない話には黙って笑った。
幸助が輝樹の仕事を聞き、同じ会社に同期がいるという話になった。
「岡本って知ってる?」
「誰それ」
「同僚」
幸助は首を振った。それ以上は聞かず、隣から飛んできた話に返事をした。輝樹も枝豆を一つ取り、別の相手に会社は忙しいのかと聞かれて、時期によると答えた。
しばらくして、幸助が昔の話を始めた。
「六年の社会科見学で鎌倉行っただろ。銭洗弁天でお前、洗い場の水飲んだじゃん」
幸助は、小銭が投げ込まれている洗い場の水を輝樹が手ですくって飲み、そのあと腹を壊したと言った。向かいに座っていた二人が笑い、少し離れた席からも声が重なった。
「あったあった」
誰かが、帰りまでずっと腹を押さえていたと言った。別の誰かが、先生に何を飲んだのか聞かれていたと言った。幸助は、あのとき本気で飲むとは思わなかった、と笑った。
輝樹は箸を止めた。話の中身より、周りの反応の速さが先に目に入った。誰も幸助に聞き返さず、何の話か確かめもしなかった。知っている出来事の続きを思い出すように、それぞれが細部を足していた。
幸助がスマホを取り出した。
「写真あるぞ」
卒業アルバムのページを撮ってきたらしかった。幸助が画面を横にし、卓の中央へ差し出した。
一枚目には洞窟の入口の前に六人が並んでいた。狭い入口の周りに石壁があり、六人とも正面を向いていた。幸助が指で画面を広げると、そのうちの一人が輝樹だった。
二枚目には、洗い場の前で身を屈め、片手を水へ伸ばしている男の子が写っていた。十二歳の輝樹だった。頬の形も、前髪も、当時着ていた上着も、自分で見間違える余地がなかった。手の先には水があり、その周りには硬貨がいくつも見えた。
三枚目は境内の集合写真だった。幸助も、さっきから話に乗っている連中も写っていた。中央から少し外れた列に、輝樹も立っていた。写真の端には教師らしい大人が一人いて、後ろには見覚えのない建物が写っていた。三枚とも同じ日の写真らしく、輝樹たちの服も班の顔ぶれも変わっていなかった。
輝樹は一枚目へ戻し、もう一度二枚目を見た。画面の中の自分は笑っていなかった。だからといって嫌がっている顔でもなく、ただ水へ手を伸ばしていた。
忘れているだけかもしれなかった。
記憶なんて抜ける。十二歳の一日の細部なら、なおさらだった。写真が三枚あり、自分まで写っていて、その場にいる十人が同じ出来事を知っているなら、自分の方が忘れていると考える方が自然だった。
けれど、小学校で鎌倉へ行ったのは六年の秋の一度だけだった。五年の社会科見学は国会議事堂だった。六年の班は六人で、行き先を決めるとき、銭洗弁天は確かに候補に出た。高徳院から回るには遠く、集合の時間に間に合わないから外した。その代わりに小町通りで昼を食べることにした。実際に回ったのは鶴岡八幡宮と高徳院で、そのあと小町通りへ行った。候補から外した場所へ、途中で予定を変えて寄ったこともない。行っていない。
これは起きていない。
輝樹はスマホの画面を見た。二枚目には十二歳の自分がいる。卓の周りにいる十人も、同じ出来事を覚えている。幸助は何の迷いもなく次の写真へ指を滑らせ、隣の男は腹を押さえていた輝樹の真似をして笑っていた。
いや。前にもそうだった。俺の記憶じゃなく、世界の方が間違っていた。
輝樹は左手を卓の上に出した。手の甲を上に向けてから、視線を落とした。
左手に、コップがあった。
目が覚めた。




