第4話 秋季キャンプ
横須賀の秋の海風が、容赦なく吹き抜ける。
横須賀の球団施設で始まった秋季キャンプ。緑と黄色の新しい練習着に身を包んだ選手たちが、広いグラウンドで声を張り上げていた。
前年のチーム成績は5位。「最下位寸前」の5位だ。
弱点を聞かれれば「全部」と答えるしかない。
先発は枚数が足りず、中継ぎは火の車、抑えは固定できず、助っ人外国人は不振を極め、期待の若手は伸び悩み……どこを突いても穴だらけだ。
戦力外通告を受けた俺だが、実は今年は年間を通しても2軍に落とされたことは一度もなかった。
それは俺が優れていたから……なんてカッコいい話じゃない。
俺のような40代半ばのロートルを2軍に落として休ませる余裕すら、このチームにはなかったのだ。台所事情は冷や飯を通り越して氷漬けである。
「はぁ……はぁ……! 監督、ペース早くないすか……!?」
隣で肩を上下させながら、息も絶え絶えに走っているのは若狭大将だ。25歳。
俺の20歳下、子どもと言っても通じる年齢だ。
「何を言ってんだ大将、お前が俺にペース合わせてどうすんだよ! ほら、足上げて!」
今年、ショートの準レギュラーとして主に6番を打ち、ブレイクの兆しを見せた若手筆頭。
だが、シーズン終盤には明らかに体力が落ち、打率も急降下した。1年間グラウンドに立ち続けるスタミナとタフさが、まだ彼には足りない。
「来年……絶対……ショートのレギュラー獲りたいんで……! 監督のメニュー、絶対脱落しないっす……!」
「その意気だ。だが俺は今年『兼任』だからな? 走った後は投手陣のブルペン入って、その後に野手陣のフリー打撃だ。付き合うか?」
「ま、マジすか……化け物かよ……」
若狭が引きつった顔で呟く。
俺は苦笑いしながら、秋晴れの空を見上げた。
俺自身、打撃・投手の両メニューをこなしながら、監督として一人ひとりの動きに目を光らせなければならない。想像以上に過酷だ。
だが、汗を流す若狭の必死な目を見ていると、不思議と疲れよりも愛おしさが勝った。
「大将、お前が『不動のショート』にならなきゃ、このチームの浮上はないぞ」
「わかってます……! 俺が、このチーム引っ張る打者になりますから!」
「よし、じゃあもう1本ポール間走だ!」
「ええーっ!?」
横須賀のグラウンドに若狭の悲鳴が響く。
ブルペンでは投手が捕手のミットを鳴らし、サブグラウンドではガタさんの怒声が聞こえる。
駒不足、戦力不足、課題山積み。
だけど、ここには確実に泥を舐めてでも強くなろうとする「芽」があった。
かつての京浜クリッパーズは、「12球団で一番練習量が少ないチーム」としてバラエティ番組などでネタにされるのが定番だった。
シーズン終盤にチームが失速するのも、土壇場で粘り負けするのも、すべては「根本的な練習不足」が原因だと笑われていたのだ。
だが、今年の横須賀の秋季キャンプは、まるで別のチームのように熱を帯びていた。
早朝の走り込みから、夜の室内練習場での素振りに至るまで、泥だらけになって汗を流さない選手は一人もいない。
息を荒らげながら、若手の選手たちがグラウンドの端で話しているのが耳に入ってきた。
「監督、今日ブルペンで100球投げたあと、そのまま野手の特打入ったらしいぞ……」
「マジかよ……45歳の監督にあれだけ走られて、打たれて、投げられたら、俺たち若手が休めるわけねえだろ!」
「『上さんより練習量で負けてられない』って、みんな必死だよ……」
俺としては、別段特別なことをしているつもりはなかった。
投手と野手の両方のメニューをこなすとなれば、27年間ずっとこのくらいの練習量が俺にとっての「普通」だったからだ。
(ただのベテラン選手だった頃は、俺が裏でどれだけ練習してようが誰も気に留めなかったのにな……)
立場が「兼任監督」に変わった途端、俺の何気ない練習メニューが、若手たちにとっては無言のプレッシャーであり、強烈な発破になっているようだった。俺の背番号『39』がグラウンドで動き回っている限り、誰も手を抜くことができないのだ。
そんなことを考えながら、俺はメイングラウンドでサードの守備位置につき、白球を追いかけていた。
——パカンッ!!
「甘いぞ健二! 足が動いてねえ!」
ノックバットを握っているのはガタさんだ。
鋭いノックが、サード線ぎりぎりに飛んでくる。
俺は泥にまみれながら飛びつき、一塁へ送球した。
「よし、ガタさん! もういっちょ!」
息を弾ませて定位置に戻り、構え直したその時だった。
「健二、いつまで受けてるんだ! そろそろ次のやつに代われ!」
ノックバットを抱えたガタさんから、容赦ない怒声が飛んできた。
「えっ? いや、まだ俺、20本くらいしか受けてないですよ」
「お前は選手である前に『監督』だろ! 自分の追い込みに夢中になって、横で見てる若手たちの打球判断や足の運びを見る目を疎かにしてどうする! 監督が一番ノック受けて満足してどうすんだ!」
ガタさんの正論すぎる一言に、俺は思わずぐうの音も出なかった。
振り返ると、サードの定位置の後ろで、順番を待っていた若手内野手たちが苦笑いしながらこちらを見ている。
「……すまん、ガタさん。ついつい身体が勝手に動いちゃって」
「ハァ……お前は放っておくと限界を超えて動き回りそうだからな。管理する俺の身にもなれってんだ」
ガタさんは呆れたように息を吐くと、サードの若手に向かって叫んだ。
「ほら、次! 大将、入れ! 監督のヘロヘロな守備をお手本にするなよ!」
「はいっ!」
グラウンドに若手たちの活気ある声と、ガタさんのノックの音が再び響き渡る。
手袋を外し、ベンチへと下がりながら、俺はタオルで汗を拭った。
選手として汗を流す快感と、全体を俯瞰しなければならない監督としての責任。その狭間で揺れる難しさを痛感しつつも、目の前で必死に白球を追う若者たちの姿に、胸の奥が熱くなるのを感じていた。




