第15話 キャンプ地の朝
午前6時
沖縄の朝はまだ薄暗く、ひんやりとした空気が肌を刺す。
俺はキャンプ地のホテルの前で軽く準備運動を済ませると、ゆっくりと走り出した。
これは監督としてのトレーニングというよりは、もはや朝の日課だ。
小学生の頃から欠かさず続けているので、かれこれ30年以上になる。とにかく俺は走ることが好きなのだ。足裏がアスファルトを叩くリズムを聞いていると、頭の中がすっきりと整理されていく。
ホテルから少し離れた海岸沿いのコースに入ったところで、後ろから足音が近づいてきた。
「上さん、今日もやってるんすね。ご一緒させてもらっていいですか?」
振り返ると、白い息を吐きながら並走してきた男がいた。
「おう、前原か。珍しいな、朝から」
「ひどいなあ。僕も走り込みはけっこう好きなんですよ」
前原裕哉。26歳。背番号『14』。
右のサイドスローで、昨シーズンは9勝13敗と負け越しながらも、実質的に先発ローテーションの柱として投げ続けていた男だ。
だが終盤に右肩の張りを訴えて離脱。そのケガの影響もあり、この春季キャンプでもまだ試合での投球はしていない。
俺は隣を走る前原の顔をチラリと見ながら、ペースを少し落とした。
「肩の様子はどうだ? 痛みは引いたか」
「はい、患部はほぼ完治してます。トレーニングコーチとも話して、オープン戦には間に合いそうです」
「そうか。お前が早めにローテーションに帰ってきてくれると本当に助かるが、焦って再発させたら元も子もない。絶対にムリはするなよ」
「ありがとうございます。……でも、早く結果出さないといけない理由があるんすよね」
「ん? なんだ?」
前原は走るリズムを崩さないまま、少し照れくさそうに笑った。
「実は……近々結婚するんです。だから、今年は今まで以上にがんばらないといけないんすよね」
「おお! 結婚か! それはめでたいな!」
早朝の海岸線に俺の大きな声が響いた。
10敗以上しながらもローテーションを守り抜いたタフな右腕にも、人生の大きな転機が訪れようとしていた。
「守るものができると、やっぱりプロとしての意識も変わるからな」
「上さんもそうだったんすか?」
「そりゃそうだよ。俺なんて20代の頃は自分のためにしか投げてなかったけど、結婚して、長女が生まれて、そのあとに息子が生まれて……家族が増えるたびに『俺がこの腕一本で食わせていかなきゃならんのだ』って、腹の底から気合を入れ直したものさ」
「やっぱそうなるんすねぇ……。守るべき家族ができると、1敗の重みも変わってきそうです」
「おう。だからこそ、しっかり肩を治せ。守るべき奥さんのために、今年は二桁勝ってドカンと稼がなきゃな」
「はいっ!」
朝日が昇り始め、沖縄の海がオレンジ色に輝き始める。
若いエース候補の決意に満ちた横顔を見ながら、俺たちは朝日の中をどこまでも走り続けた。




