第14話 オーナー・神楽坂華乃という女
午後の陽射しが強くなってきた時間帯、グラウンドの喧騒から少し離れた球団事務所前のメイン通路を、俺とひとりの女性が並んで歩いていた。
京浜ライマルクリッパーズの新オーナー、神楽坂 華乃。30歳。
若くして親会社『ライマルサービス』の一角を仕切る敏腕経営者であり、このクリッパーズの運命を握る女性オーナーだ。
俺を兼任監督に仕立てたのもこの人だ。
「上平さん、現場の指揮は大丈夫ですか? 練習のお邪魔になっていません?」
「いえいえ、ガタさんやコーチ陣にメニューは任せてありますからご安心ください。オーナー直々の施設視察とあっちゃ、監督自ら案内するのがスジってものです」
俺は苦笑いしながら、真新しい室内練習場や最新のトレーニング機器が並ぶジムエリアを順に案内していった。
現場の意見を取り入れて新設してもらった施設ばかりで、そこに関しては感謝しかない。
ひと通り視察を終え、バックネット裏のオーナーラウンジへ移動する移動中の廊下でのことだった。
ふと足を止めた彼女が、綺麗な眉を少しひそめ、首をかしげながら思わぬ質問を投げかけてきた。
「ねえ、上平さん。ふと思ったんですけど……」
「はい?」
「もし、選手としての上平さんを他球団にトレードに出したとしたら、うちの『監督』ってそのまま続けられるんですかね? ほら、選手契約と監督契約って、書類上は別々じゃないですか」
「…………え?」
唐突すぎる、そしてあまりにも不穏すぎる「トレード」という単語に、俺は思わず足を滑らせそうになった。
(おいおい……新オーナー様、まさか監督就任早々に俺をトレードに出す算段でも立ててるのか……!?)
背中に一瞬冷や汗が流れる。
言われてみれば、確かにどういう扱いになるのかは非常に興味深いテーマだ。
プロ野球の長い歴史を見ても、過去の『選手兼任監督』といえば野村克也さんをはじめ、球界の歴史に名を刻む偉大なレジェンドばかり。
トレードで他球団に放出されるなんて前代未聞であり、あり得ない話だった。
……まあ、通算成績も実績もそこそこの「敗戦処理のベテラン」である俺程度なら、ビジネスとしてトレードに出されても文句は言えないのかもしれないが。
俺は引きつりそうな顔をなんとか整え、冗談めかして笑い飛ばした。
「いやぁ、オーナー。こんなロートル選手、そもそも他の球団が欲しがりませんよ。トレードを持ちかけたって門前払いされるのがオチです」
冷や汗を隠しながら自虐で返した俺に対し、若いオーナーは「ふふっ」と可愛らしく微笑み——
「あ、それもそうですね!」
と、あまりにもあっさり、何の発掘の余地もなく納得して頷いた。
(……いや、合ってるよ? 合ってるんだけどさ……!)
「さすが上平さん、ご自身の市場価値をよく分かってらっしゃる」と言いたげな、屈託のない爽やかな笑顔。悪気ゼロのストレートな回答に、俺の胸に『ズスッ』と小さなナイフが突き刺さる。
(……それはそれで、おじさんちょっと傷つくぞ……?)
「……まあ、はい。ですから、安心して『選手兼任監督』としてここで骨を埋めさせていただきますよ」
俺が苦笑いしながら頭をかくと、オーナーは「頼みにしてますよ、監督」と満足そうに頷き、再びヒールを鳴らして歩き出した。
不穏なトレード案は一瞬で立ち消えたが、現役最年長選手のプライドがほんの少しだけ削られた気がした。
華乃オーナー、実は元ソフトボール選手で、代表としてオリンピックに出場した実績を持つガチガチのアスリート。
大のプロ野球好きでもあり、球団経営に対して並々ならぬ情熱を持っているのだが……元アスリートだからこその「独特な選手の評価基準」を持っていた。
「……上平さん」
バックネット裏のラウンジからグラウンドを見下ろしながら、華乃オーナーが不意に目を細めた。
「はい? なんでしょう」
「今のチーム、下半身……特に『お尻の張り』が素晴らしい選手が多いですね。実に良い仕上がりです」
「……は? お尻、ですか?」
思わず素で聞き返してしまった。
「ええ、お尻です。元アスリートとして言わせてもらいますけど、選手の調子や好不調の波って、顔つきや口先じゃなく全部『お尻と太ももの張り』に出るんですよ。体幹が使えているか、下半身にしっかり軸が残っているか。そこを見れば一目瞭然です」
真面目な顔でキッパリと言い切るオーナー。
なるほど、五輪まで登り詰めたアスリートらしい独自の「体幹観察眼」というわけか。いや、理にかなってはいるんだが、30歳の綺麗なお姉さんが真顔で「お尻」を連呼している画はなかなかシュールだ。
華乃オーナーは腕を組み、グラウンドで打撃練習をしている選手たちへ鋭い視線を送る。
「たとえば……あそこにいるゲイリー選手。あのお尻の大きさとハムストリングスの張り!さすがメジャー級の体幹ですね。彼なら今季30本は手堅いです」
「おお、さすがのお見立てですね」
「それから、あそこで内野ノックを受けているルーキーの平山くん。彼も良いお尻をしてます。走れる選手のお尻の形をしている。……逆に」
華乃オーナーの視線が、ベンチ前で素振りをしているベテランの大広へ向かった。
「大広選手……ちょっとお尻のラインが落ちてますね。骨盤が寝ていて、下半身の力がバットに伝わりきっていない形です。だから打席で力負けするんじゃないですか?」
「……!」
思わず息をのんだ。
確かに大広は最近、試合でも結果が出せていない。
彼女はそれを「お尻のライン」だけでズバリと見抜いて見せたのだ。
「……オーナー、恐れ入りました。お見事な分析です。大広にはすぐ下半身主導のフォーム修正をさせます」
「ふふ、任せてください。私、お尻を見る目だけは誰にも負けませんから」
自信満々に胸を張る華乃オーナー。
冷酷なビジネスマンかと思いきや、誰よりも現場の泥臭さを知り、選手たちの肉体の変化を目ざとく見抜く熱血スポーツウーマン。
そして、彼女は最後にちらりと俺の腰元へ視線を落とした。
「ちなみに、上平さん」
「はい?」
「上平さんのお尻、年齢にしてはキュッと締まっていて悪くないですよ。右打席で力むのは、右の臀筋の締め込みがコンマ数秒早いからです。もっとギリギリまで残したほうが強い球が打てます」
「……あ、アドバイスまでありがとうございます」
まさかオーナーから右打席の打撃フォームについて「お尻視点」で指導されるとは思わなかった。
恐るべき30歳新オーナー。




