第13話 対外試合(3)
7回裏
俺の3回目の打席。
相手ベンチが動いて、マウンドには新しく左腕のピッチャーが上がってきた。
そこで俺はバットを抱え、すっと打席の向きを変える。
——そう、俺はスイッチヒッターでもあるのだ。
右腕対左打者、左腕対右打者。相手投手の利き腕に合わせて左右を使い分ける。ただ、元々右利きということもあって、右打席のほうが圧倒的にバットを強く振りやすい。パワーが出るのは魅力なのだが、その分どうしても「一発を狙ってやろう」という欲が出て、大振りになりがちなのが長年の悪癖だった。
ここ数年は「右打席でもコンパクトに、強く叩く」を意識してトレーニングを重ねてきたが……人間、いざという場面になると、長年の癖が顔を出してしまう。
「プレイ!」
マウンドから放たれた左腕のクロス気味のスライダー。
手元で鋭く曲がる軌道に、体が反応してしまう。
(コンパクトに……! 押し込め……!)
頭ではそう分かっていても、バットの軌道がわずかに大振りになった。
——パコッ!
鈍い打球音が響き、ボールはボテボテのゴロとなって二塁手の正面へと転がっていく。
余裕でアウトのタイミングだ。
そのまま一塁へ駆け抜けたが、結果はセカンドゴロ。
「くそっ、また力んだか……」
ベンチへ引き上げる途中、自分のヘルメットをトントンと叩く。
右打席での「力みのコントロール」。27年プロをやっていても、いまだに理想と現実のギャップに悩まされるんだから野球というスポーツは奥が深い。
ベンチに戻ると、ヘッドコーチのガタさんがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「おい監督、右打席で力みすぎだぞ。柵越えでも狙ってたのか?」
「うるさいなガタさん、体が勝手に反応しちまうんだよ。……まぁ、バットの感触自体は悪くなかったけどな」
苦笑いしながらベンチのフェンスにもたれかかり、次のバッターへ送るサインの準備に意識を切り替える。
試して、失敗して、また修正する。
選手としても監督としても、俺の長い長い「開幕までのテストマッチ」はまだ始まったばかりだ。
8回表
ここで俺は「兼任監督」として審判へ向かい、守備陣のガラリとした交代を告げた。
場内アナウンスが響き渡る。
『ファーストの上平に代わり、ライトの大広がファースト。
センターの鎌倉がライト。センターに津田、キャッチャー中北に代わり、後藤。
ピッチャー、山下に代わり中澤が入ります。
5番ファースト大広、背番号4
7番キャッチャー後藤、背番号33
8番ライト鎌倉、背番号57
9番センター津田、背番号41。
ピッチャー中澤、背番号140。以上です。』
背番号『140』。
この回からマウンドに上がる中澤大毅は『育成選手』である。育成とはいえ、年齢も29歳。3年前には『最優秀中継ぎ投手』も獲得した選手。
肘を手術して直近2年間は登板なし。
リハビリを経て、今日、ついに実戦のマウンドへと向かう。
ベンチへと下がる俺は、マウンドへ走っていく中澤とすれ違いざまに、短く声をかけた。
「中澤、気負わないようにな。今まで耐えてきた自分を信じて投げろ」
「……はい! ありがとうございます!」
中澤の目は力強く、だが澄んでいた。
かつてタイトルも獲った男が、2年間のリハビリと屈辱の育成契約を経て、再び踏みしめる実戦のマウンドだ。
マウンド上で中澤を迎えたキャッチャーの後藤が、中澤の肩をぽんと叩いて優しく声をかける。
「中澤、とにかく低めのコントロール重視で。バックを信じて打たせていこう!」
「わかりました、後藤さん」
俺はベンチの最前線に立ち、腕を組んでその背中を見つめた。
隣に立ったガタさんも、どこか感慨深そうな顔でマウンドを見つめている。
「背番号『140』の男が、もう一度支配下への扉をこじ開ける瞬間ですよ」
中澤が大きく息を吐き、ポケットからロジンバッグを取る。
ボールをギュッと握りしめるその姿には、焦りや不安ではなく、投げられる喜びが満ちあふれていた。
背番号140の復活の第1球——
その投球動作に、ベンチの全員が息をのんだ。
「ボール!フォア!」
審判の判定の声が響き、中澤の手から滑り落ちるようにボールが外れた。
先頭打者を打ち取り、サードライナーで1アウト。ここまでは悪くなかった。
だが、久々の実戦のマウンド、そして「結果を出して支配下へ這い上がる」という強い思いが、知らず知らずのうちに彼の右腕を硬くさせていたのだろう。
立て続けに2者連続の四球。
ストライクが入らない。カウントを悪くし、焦りが色濃くなった3人目の打者に対し、中澤は逃げるようにストライクゾーンの真ん中に球を置きにいってしまった。
——バコンッ!!!
力のない棒球を、相手打者のバットが見事に捉える。
乾いた快音を残した打球は、沖縄の青空をどこまでも伸びていき、レフトスタンドの芝生席へ突き刺さった。
3ランホームラン。スコアは2-8。
打たれた瞬間、中澤はマウンド上でガックリと膝を折りかけ、悔しそうに顔を歪めた。
背番号『140』の背中が、あまりにも小さく見える。
俺はベンチの柵を乗り越え、球審に向かってスッと右手を挙げた。
「ピッチャー交代」
球場に交代を告げ、ゆっくりとマウンドへ歩を進める。
後藤が申し訳なさそうな顔で頭を下げてきたが、俺は手でそれを制し、俯く中澤の前に立った。
「……中澤、交代だ」
「……すみません、監督。せっかくチャンスをいただいたのに……大事なところで逃げてしまいました……」
絞り出すような中澤の声。悔し涙で目が潤んでいる。
「焦って置きにいった球をスタンドまで運ばれた。これが今のプロの打者だ。……だけどな、中澤」
俺は背中をポンと強く叩いた。
「肘の痛みは出なかったろ? フォームの軸も崩れてなかった。ボールの勢い自体は、オフの増量のおかげで間違いなく戻ってきてる」
「あ……」
「今日出た課題は『技術』じゃなくて『復帰戦のメンタル』だ。それが分かっただけでも今日の登板は大成功だよ。ここからまた修正していけばいい。下を向くな、胸張ってベンチに下がれ」
中澤は一瞬驚いたように目を見開いた後、ユニフォームの袖で目元をぐっと拭い、力強く頷いた。
「……はい! ありがとうございました!」
ボールを受け取り、次に登板するピッチャーへ渡す。
マウンドを降りていく中澤の背中に、スタンドのファンから
「中澤、次がんばれよ!」「焦るなよ!」と温かい拍手が送られていた。
ベンチに戻り、ガタさんが「まぁ、最初はこんなもんだろ」と小さく呟く。
「ええ。球自体は悪くなかった。壁を一つ越えるための、いい薬になりましたよ」
痛烈な打撃と、苦い現実。
2-8と大きくリードを許した展開だが、目の前の1試合の勝敗以上に、開幕へ向けた収穫と課題が次々と浮き彫りになっていく。
俺はスコアブックに目をやりながら、残りのイニングへ向けて頭を切り替えた。
中澤の降板後、敗戦処理の重苦しい空気の中でマウンドに上がったのは、ドラフト5位ルーキーの左腕・堀之内由伸(背番号26)だった。
大卒らしく度胸の据わった面構えでマウンドに立つと、持ち味である最速149kmのストレートと落差のある変化球を強気に投げ込んでいく。
課題と言われていたコントロールも、この場面では開き直りが功を奏したのか、キャッチャー後藤の構えたミットへテンポ良く吸い込まれていった。
「ストライク! バッターアウト!」
相手打線を完璧に、8回途中から試合終了まで抑えきった。
スコアは2-8で敗戦。
だが、試合後のベンチ裏で、俺は清々しい気分で堀之内の肩を叩いた。
「由伸、ナイスピッチング!逃げずに腕が振れてたぞ。」
「ありがとうございます、監督! めちゃくちゃ緊張しましたけど、後ろの守備を信じて思い切って投げ込めました!」
白熱した汗を拭いながら、21歳のルーキーが白い歯を見せて笑う。
その横では、ほろ苦い復帰戦となった中澤が、堀之内のピッチングを真剣な目で見つめながら拍手を送っていた。
打たれて凹むだけではなく、後輩の好投を素直に称え、自分の課題と向き合おうとする姿勢。それだけでも今日彼をマウンドに送った価値があったというものだ。
そこへ、スコアボードを片付け終えたガタさんが歩み寄ってきた。
「お疲れさん、健二。監督初陣は黒星スタートか」
「まぁまぁ、ガタさん。今は勝ち負けより『課題の収穫』ですから。ゲイリーの一発に鎌倉の走塁、堀之内の好投……初戦にしては十分すぎるネタが集まりましたよ」
「へっ、相変わらずポジティブな監督だな。……よし、それじゃ全員集めて反省会といくか!」
沖縄の夕暮れ時、橙色に染まるグラウンド。
監督であり、選手であり、そしてこの泥臭いチームのリーダーである俺——上平健二の、長い長いシーズンが、ここから本格的に動き出す。




