第8章 冒険者ギルド改革
王都アストレアの冒険者ギルドの一階は、紙と肉と汗の匂いがした。
透が初めて足を踏み入れた瞬間彼の身体は、十年前のコンビニの裏倉庫を思い出した。
あれは、引き継ぎが完全に止まった倉庫の匂いだった。
今彼の目の前にある光景はそれと、まるで同じだった。
王都までの旅は、その後特に大きな襲撃もなく終わった。十日かけて街道を北上しいくつかの宿場町を経て、王都の南門に到着した。透は商隊から銀貨二枚と、隊長からの紹介状を受け取った。紹介状は、王都の冒険者ギルドの裏方助手の口を斡旋するものだった。
王都アストレアは想像していたよりも生臭く、想像していたよりも色彩が貧しかった。透は前世で映画や漫画で見たヨーロッパの中世都市の絵を頭の隅に残していたが、それは綺麗に整えられたフィクションの絵だった。実物の王都は、城壁の内側に三万人ほどの人間が押し込められた現実の生活の場だった。汚水が側溝を流れ肉屋の前に蝿が群がり子どもが裸足で走り、馬糞が道の角に積み上がっていた。だがその生活臭の中に確かに、人が日々を立ち上げている匂いもあった。透はそれを嗅ぎ分けた。彼は前世で深夜のコンビニの前を通る、酔った会社員の溜息の匂いを嗅ぎ分けてきた経験を持っていた。
彼はその足でギルドへ向かった。リシェルから受け取った蝋封の書状は、まだ革のバンドの中にあった。だが彼は王女に直接会う前に、自分の足で立てる場所を一つ作りたかった。借りたものをまず自分で増やしてから返したい。それが彼の考えだった。
ヴィオラは商隊と一緒に王都に着いた後別の依頼を受けて、そのまま西へ行った。彼女は別れ際、透に向かって短く言った。
「マジマ。次に会ったらもう少し、長く話そう」
「はい」
「私の歌、用意しておく」
それだけ言って彼女は馬の上から手を上げた。透は深く頭を下げた。
彼女の背中が街道の向こうに消えるまで彼はその場に立っていた。
王都のギルドは町の中央広場から二筋外れた、石畳の道沿いの三階建ての建物だった。看板は古くペンキは剥げ、入口の木の扉は片方が外れかけていた。透が中に入ると、最初に目に入ったのは床に散乱した紙の束だった。それは依頼書らしかった。誰も読まずに踏まれて、靴跡で汚れていた。
受付のカウンターには、三十代後半の女が一人座っていた。眉間に皺が深く目の下に隈ができていた。彼女の前には未処理の依頼書らしき木札が積まれており、積み方の角度が不揃いだった。透の目はそれを一秒で見抜いた。
「紹介状を、お持ちしました」
透は紹介状を差し出した。
女はそれを受け取り半分目を通し、それから深い息を吐いた。
「裏方助手、ね。歓迎するわ。ただし」
「ただし?」
「ここはひどいわよ。覚悟して」
「覚悟しています」
「あなた、まだ何も見てないでしょ」
彼女はそう言って奥の扉を指差した。
奥の事務室は、地獄だった。
正確には、彼の前世のコンビニで「在庫管理が崩壊した三日後」と同じ景色だった。
納品物の素材──モンスターの牙薬草毛皮──が、種類も鮮度もばらばらに積まれていた。納品伝票は束ねもせず、机の上に山になっていた。一部の素材は明らかに腐っており、室内に獣臭が漂っていた。床の隅には、討伐証明らしき木札が無造作に転がっていた。
透の目が視野の中で素早く分類を始めた。
鮮度の高いもの。鮮度の低いもの。すでに腐ったもの。冷蔵が必要なもの。乾燥保管が必要なもの。
どこからどう手を付けるか、彼の頭の中で順番が立ち上がっていく。
「あなた、どうしたの? 顔色が変わったわよ」
受付の女が、彼の後ろから言った。
「いえ。整理しなければと思いまして」
「整理? 無理よ。あなた一人でできることじゃない」
「一人でやろうとは、思っていません」
「じゃ、誰と」
「順番に、皆さんと」
彼女は怪訝な顔をした。
透は紹介状の宛先である、ギルドマスターのバランドを呼んでもらった。三十分後、バランドが出てきた。彼は四十代の元冒険者で肩幅が広く、左目に古い傷の線があった。彼は透を一目見て、言った。
「お前、何か売り込む気か」
「いえ」
「じゃ、何だ」
「現状の改善を、提案させてください」
「提案?」
「ここの依頼処理速度を、十日以内に三倍にできます。費用は、ほぼかかりません」
バランドは目を細めた。それから長く息を吐いた。
「やってみろ。失敗したらお前の給金、半分にする」
「お受けします」
最初の三日透は誰にも何も言わずに、観察した。
朝ギルドが開く前に彼はカウンターの内側に立ち依頼書がどこから入ってどこを通ってどこに行くかを目で追った。受付の女が依頼書を受け取り、彼女の机の左の山に置く。冒険者がそれを取り二階の事務室で詳細を確認し、必要なら裏の倉庫から地図を借りる。地図は誰が借りたか誰が返したか、記録されていなかった。冒険者が依頼を完了して戻ってくると納品物を地下の倉庫に置き、討伐証明を受付に出す。受付の女が証明を確認し、報酬を支払う。それで終わり。
だがその間、いくつもの「断絶」が見えた。
依頼書を取った冒険者の名前は誰も記録していなかった。地図を借りた冒険者の名前も。納品された素材が誰の依頼に対応するものか、明示されていなかった。その結果納品物が誰の素材か分からなくなり、廃棄が頻発していた。
コンビニの地獄シフトと、同じ構造だった。
誰が何をいつ誰から誰へ渡したのかが、書かれていない。
透はそれをすべて、書き始めた。
四日目の朝彼は受付の女にA四より少し大きい、麻紙のノートを渡した。
表紙には、彼の字で「ギルド業務引き継ぎ帳・第一号」と書かれていた。
「これ、何?」
「シフトログです。皆さんの業務を、書いていただきます」
「書く? 忙しいのに無理よ」
「五分です。書く側も、五分以内で書ける形式にしてあります。書かれていれば、あなたが朝五分で全体を把握できます」
彼はノートの最初の頁に、書式の見本を作っていた。
「依頼受付日/依頼者/依頼内容/受注した冒険者/納期/備考」
「これ、書くだけ?」
「これだけです」
「で、これでギルドが速くなるの?」
「速くなります。書かれた情報を全員が共有できれば、断絶が消えます」
受付の女は、半信半疑のまま彼のノートを受け取った。
透は同じ要領で、二階の事務員、地下の倉庫番、外回りの調査員にも、それぞれ違う書式の引き継ぎノートを配った。事務員には「処理中の案件と、本日の保留」。倉庫番には「入庫と出庫と、現在庫」。調査員には「現在の任務先と、想定帰還日」。それぞれが、自分の業務内容に応じた、最低限の項目だけを書く。
五日目の朝彼は全員のノートを集め受付のカウンターの裏に、大きな板を立てた。板にはその日のすべての依頼の状態が、一目で分かるように貼り出された。
「進行中」「保留」「納品待ち」「報酬未払い」。
冒険者がギルドに入ってきてその板を見て、自分の依頼の状態を確認できた。
七日目には、依頼の処理速度が体感的に速くなっていた。
十日目、バランドが透を呼んだ。
「お前、何者だ」
透はカウンターの内側で、ノートを書きながら答えた。
「ただのバイトです」
「ただのバイトじゃない奴の言い方だ、それは」
「私の故郷ではこういう仕事を『普通』と呼びます」
「普通の連中が、なぜここに来ない」
「来てもらえる仕組みを、作っていなかったからです」
バランドは透を見て、しばらく言葉を探した。
「お前を、正規職員にする。三階の窓際の机をやる。給金も上げる。受けろ」
「お受けします」
ギルドが「普通」に動き出してから依頼の質も変わってきた。
これまで「ギルドに頼んでも納期が読めない」と敬遠していた商人や、貴族の家令たちが、次々と依頼を持ち込み始めた。納期が読めるギルドは、彼らにとって最も価値があった。報酬の総額が三週間で倍以上になった。
その頃、透の前に「クレーマー冒険者」が現れた。
彼は四十代の人間で、剣士。三十年の経験があると自称し、報酬の高い依頼を、納期も守らずに引き受け、結果を出さずに「素材が悪かった」「依頼者が嘘をついた」と暴れる男だった。前任のカミラは、彼が来るたびに胃を痛めていた。
ある日彼が透のカウンターに来て、いつものように怒鳴り始めた。
「おい貴様、最近来た新人だな。ここの仕組みを変えたのは貴様か」
「はい」
「お前が変えてから俺の依頼の支払いが遅くなった」
「いえ依頼の納期が書面で明示されるようになっただけです。あなたの納期が、過ぎたまま戻ってきていません」
「俺は三十年この仕事をやってる」
「存じ上げております」
透は店員の角度で頭を下げた。
だが頭を下げる角度は前世のクレーマー対応の角度と、同じだった。
「お客様。今のあなたの依頼の状態をこちらの板で、ご確認いただけます」
彼は受付の裏の板を指差した。男の依頼は「期限超過」の枠に貼り出されていた。
「これを、皆が見ます」
「皆?」
「他の冒険者も依頼者もギルド職員も、全員」
男の顔色が変わった。
「貴様、俺を晒すつもりか」
「いえ。事実を、皆で共有しているだけです」
「事実だと?」
「あなたが納期を、守られていないという事実です」
男はカウンターを叩いた。だが叩いたあと彼の周りの冒険者たちが一瞬視線を彼に向け、すぐに目を逸らした。彼らの目には明らかに、彼への評価の下方修正があった。
男は何かを言いかけて、止めた。
それから低く抑えた声で言った。
「明日までに、納品する」
「お待ちしております」
「次からもう暴れない」
「ありがとうございます」
透は深く頭を下げた。
男は、そのままギルドを出ていった。
カミラがカウンターの裏で、小さく呟いた。
「あの人あんなに静かなの、初めて見た」
「クレームは相手を黙らせるためにではなく相手に状況を見せるために、対応します」
「それ、どこで習ったの?」
「マニュアルです」
「マニュアル?」
「私の故郷で、書かれたものです」
透はそう言って書類の続きに戻った。
カミラは彼の横顔を、もうしばらく見ていた。
受付の女──カミラという名前だった──は、ある日透のいるカウンターの内側に立って低く言った。
「マジマあなた、私たちを救った」
「いえ皆さんが、書いてくれただけです」
「書く方法を、教えてくれた人がいなかっただけよ」
「それは」
「私の前任の人が辞めるとき私に何も教えなかった。私は毎日自分で考えて間違えながらここを回してきた。あの人がもしノート一冊くれていたら私は何年も、こんなに眉間に皺を寄せていなくて済んだのに」
透は彼女の言葉を、長く受け止めた。
受け止めながら自分の妹のことを彼はまた思った。
五年間自分が彼女にノート一冊渡せていたら。
彼の喉に、塩辛い熱がのぼった。
彼は咄嗟に店員の角度の笑みで、それを抑えた。
「カミラさんこれからも、よろしくお願いします」
「ええ。よろしく」
彼女は頷いて、自分のカウンターに戻った。
その夜透は三階の窓際の机に、自分の引き継ぎノートを置いた。
表紙にはこう書かれていた。
「真島透・私的引き継ぎ帳・第一号」
彼は最初の頁を開いた。
頁は、白いままだった。
彼は長くその白い頁を見つめた。
他人のためのノートはすぐに書ける。
自分のためのノートを、彼はまだ書き出せなかった。
彼は筆を取りしばらく持ったまま一文字も書かずに、置いた。
ペンの先のインクが、机の上に小さな染みを作った。
彼はその染みを、布で拭った。
拭ったあとも机の木目に薄く、インクの跡が残った。
彼はそれを見て、思った。
書こうとしないと、書けない。書こうとしても書けないことはある。
書きそびれたものは書きそびれたまま痕跡だけが残る。
彼の前世の葵への五年が、その痕跡だった。
彼は窓を開けた。
王都の夜の空気が入ってきた。下の通りで、誰かが何かを売り歩く声が遠く聞こえた。物売りの呼び声は、夜の九時を過ぎても止まなかった。彼は耳を澄ました。
誰かが「お兄ちゃん」と呼んだ気がした。
振り返ったが、誰もいなかった。
彼の机の上で開かれたままの白いノートが夜の風で頁を一枚、めくった。
めくれた頁の上にまだ書かれていない約束が、半透明に並んでいるような気がした。
彼は窓を閉め灯を消し、机に伏せた。
彼の眠りは浅かった。
夢の中で誰かが、ノートを読んでいた。
読んでいたのは葵のような気がした。
だが葵がノートに何が書いてあると言ったかは夢の中でも、彼には聞こえなかった。




