第7章 無口なエルフの少女ヴィオラ
その少女は林の中で誰よりも先に、透の存在に気づいた。
気づいて、誰にも告げなかった。
誰にも告げずに彼女はただ、透の身体の傾き方を観察していた。
彼が街道脇でどう歩くかだけを、彼女の青い目は読み取っていた。
ヴァルナンは街道の北端の、河に挟まれた小さな町だった。透がそこに辿り着いたのは宿が燃えた夜から二日後の昼過ぎだった。彼の足は夜通し歩いて固くなり、靴底は底磨きの段差ができていた。アンヌが教えてくれた市場で彼女の妹を訪ね、姉の最後の言葉を伝えた。妹は涙を流さなかった。涙は流さずただ深く頷き彼に銀貨を六枚と王都への馬車の手配と、紹介状を一通くれた。
「姉の引き継ぎを、ありがとうね」
彼女はそう言った。
姉の引き継ぎ。
透はその四文字を、ゆっくり受け止めた。
王都行きの馬車に乗る前に、彼はヴァルナンの冒険者ギルドに寄った。アンヌの妹が、紹介状の宛先として「王都までの護衛任務に同行できる隊」を指定していた。一人で街道を行くより、団体に紛れた方が安い、という配慮だった。
ギルドは町の北の角にある、二階建ての石造りの建物だった。一階が酒場兼依頼掲示の広間、二階が事務室。透が入ると、酒の匂いと汗の匂いが混ざって彼の鼻を打った。受付の机に、木札が散乱していた。納品の伝票らしきものが麻の紐で雑に括られて隅に積まれていた。
透は反射で、その積み方の角度を直したくなった。直したい衝動を、彼は意識して抑えた。今は彼の宿ではない。彼は今ただの依頼人だった。
受付の女が、彼の紹介状を見て、「ああ、護衛任務ね」と言い、奥の隊長らしき男を呼んだ。隊は今夜出発で、行き先は王都、護衛対象は香辛料を運ぶ商隊。透は同行を認められた。
夕方彼は隊と顔合わせをした。
六人の冒険者の中に一人だけ、目立って異質な人物がいた。
彼女は壁の柱に背を預け片膝を立てて座り、誰の視線も受けようとしなかった。髪は淡い銀色で肩のすぐ下まで伸び、毛先が外側に軽く跳ねていた。耳は──微かに尖っていた。完全なエルフの耳ほど長くはない。だが人間の耳でもなかった。半エルフ。透は視界の文字を呼び出さなくてもそれが分かった。
彼女はずっと無言で、誰とも目を合わせない。隊長が「斥候のヴィオラだ」と紹介したときも、彼女は軽く顎を引いただけで、声を出さなかった。
隊の中には、彼女のことを面倒くさそうに見ている者が二人いた。一人が小声で言った。
「あの娘、今回もか」
「便利だけどな。森の中じゃ誰よりも早く敵を見つける」
「便利、なんだよな」
「なんで普通に喋らないんだ」
「半エルフだろ。森の連中の癖が抜けないんだろう」
透は黙って彼らの会話を耳の端で受け取った。
彼らがヴィオラを「便利」と呼ぶ角度が、彼の前世のコンビニで「マニュアル君」と呼ばれていた自分への呼ばれ方と、同じ角度だった。
出発は、夜の九時だった。馬車は四台。商隊が二台、護衛が二台。隊員は前後に分かれて配置についた。透は商隊の馭者の隣に座らされた。彼は剣も魔法も使えないが、目だけは良いと判断されていた。具体的には夜目が利いた──これは前世のコンビニの夜勤五年で、彼の網膜が独自に磨いてきた能力だった。視界の文字には〈夜目(小)〉と、いつのまにか追加されていた。
隊が街道を進み始めて二刻ほど経ったころヴィオラが先頭の馬車から後ろの透の横を、馬で擦り抜けて行った。彼女は何も言わずに、透の隣を通り過ぎた。
だが通り過ぎる瞬間彼女の視線は確実に、透のほうを向いていた。
一秒、目が合った。
一秒で、彼女は前に行った。
夜が深くなった頃街道の右手の林の中で、何かが動いた。
最初に気づいたのは護衛隊の隊長ではなく、ヴィオラだった。彼女は何の合図もなく、馬を脇道へ向け、林の中へ消えた。隊長が「ヴィオラ?」と呼んだとき、彼女はすでに闇の中だった。
五分ほどして、彼女が戻ってきた。
「狼。三頭。いま遠ざかってる」
それが、彼女の最初の発声だった。声は澄んで低く必要最小限の単語だけだった。隊長は頷いた。
「ヴィオラ、後ろから付けて回れ」
「分かった」
隊はそのまま進んだ。
透はヴィオラの言葉を反芻した。三頭。いま遠ざかってる。彼女は数を数え敵意の有無を判断し、移動方向を確認した。彼女の声はコンビニの引き継ぎノートの最良の一行と、同じ密度を持っていた。
夜半襲撃が来た。
狼ではなく、人間だった。
五人の盗賊が、街道の角で、商隊の前を塞いだ。彼らは雑な装備で、リーダー格らしい男が「商品を全部置いて行け」と叫んだ。隊長が「下がれ」と短く命令し、護衛隊の四人が前に出て応戦の構えを取った。馬車が止まり、商隊の馭者は荷車の影に身を伏せた。透もその指示に従い、馬車の脇に身を寄せた。
透の身体は緊張の質を、よく知っていた。
コンビニで強盗対応のロールプレイングを、本部から受けたことが何度かあった。あの訓練は本物の刃が向けられる夜のためのものだったが、訓練そのものは安全な研修室で行われた。本物の夜は、彼の人生で一度だけだった。あの夜彼の身体は震えなかった。震えなかったのは勇気ではなく、震える前に身体が動いてしまったからだ。
今もそうだった。
透の身体は震えていなかった。震える前に、観察を始めていた。誰がどの位置にいて誰が次に倒れる可能性が高くて、その時に誰の身体が誰を救えるか。彼の頭の中で、地図が高速で更新されていった。
盗賊たちが矢を放った。
護衛の一人──斧を持った熊のような大男──が肩を矢で貫かれ、前のめりに倒れた。その隣にいた剣士の青年が、彼を引き起こそうとした。だがその瞬間別の盗賊が斜め後ろから青年に向けて剣を振り上げていた。
透の身体が考える前に動いた。
彼は「青年が見ていない方向の敵」を、二歩で青年の肩越しに指差した。
「左後ろ」
青年は反射で振り向き、剣で受けた。だがそれだけでは間に合わなかった。透はもう一歩踏み込み彼の足元に倒れていた大男の身体を、後ろへ滑らせた。大男の血が地面で広がっており、その滑りで盗賊の足が一瞬狂った。
青年はその一瞬で剣を返し、盗賊を斬った。
透は呼吸を一回した。
彼の身体は、自分が何をしているのかを、最後まで知らなかった。彼は前世で五年間客が転んだ場所、棚が倒れた場所、油がこぼれた場所を、瞬時に「優先順位」で見分けてきた。「先に運ぶべき」を見極める動きが、彼の身体に染みついていた。
それが戦場でも同じ機能を果たすとは彼自身、知らなかった。
盗賊たちは味方の一人が倒れたのを見て、引いた。引きながら矢を一本撃って去った。その矢は誰にも当たらず、馬車の後板に刺さった。
戦闘が終わった後、隊長が大男のところに駆け寄った。大男は息をしていた。矢は肩を貫いていたが、致命傷ではなかった。隊長はすぐに包帯を巻き、ポーションを口に流し込んだ。透は商隊のほうへ戻り、馭者の様子を確認した。馭者は震えていたが、無事だった。
透が馬車の脇に戻ったとき彼の隣に、いつの間にかヴィオラが立っていた。
彼女は何も言わなかった。
しばらく彼女は透の顔を、横から見ていた。
透は彼女のほうを向いた。
彼女は視線を逸らさなかった。
「あなた、戦えないって聞いてた」
彼女の声は、低く滑らかだった。
「戦えません」
「でも、いま青年を生かした」
「私は、戦っていません」
「分かってる。あなたがやったのは戦闘じゃない。優先順位の判断だ」
透は驚いて、彼女の青い目を見た。彼女の目は彼の前世のコンビニの監視カメラのレンズと、似たような透明さを持っていた。だがレンズと違い、彼女の目は判断していた。彼を見て、彼の動きを分析していた。
「あなたは何をしたの?」
彼女が問うた。
「倒れた人の身体を、滑りに使いました」
「そう」
「申し訳ない、と思ったんです。倒れた人に」
「なぜ?」
「死体を、道具にしたから」
「彼は死んでいない」
「結果として、です」
ヴィオラは少しだけ目を細めた。彼女の口の端がほんのわずか、上がった。笑ったと表現するには、動きが小さすぎた。だがそれは表情だった。
「あなた、そういう男なんだね」
「どういう男ですか」
「死体を道具に使ったあと、死体に申し訳ないと思う男」
透は答えなかった。
彼女は彼の隣で、しばらく沈黙していた。
それから彼女は短く言った。
「私、ヴィオラ。トレディン家の」
「真島透です」
「マジマ」
「はい」
「珍しい音」
「私の故郷の名です」
「故郷、どこ」
「遠くです」
「分かる」
彼女はそれだけ言ってまた馬の元へ戻っていった。
彼女の去っていく背中を、透は短く見送った。
夜営は、街道脇の小さな広場で行われた。商隊の馬車を円に並べ、中央で焚き火を起こす。負傷した大男は寝かされ、護衛の二人が交代で見守る。透は焚き火の傍で、簡易の食事を配る役を引き受けた。隊員たちは「ありがとう」と一言ずつ受け取った。透の動きは、店員の手の運びだった。
ヴィオラは焚き火から少し離れた、薪の山の上に座っていた。彼女は食事を受け取らなかった。透は迷ってから彼女の傍に皿を置いた。
「いらないなら、戻します」
「いる」
彼女は皿を膝の上に取り、ゆっくり食べ始めた。彼女は誰のほうも見なかった。透も彼女の隣に彼女の方を見ない角度で、座った。彼の身体は人と隣り合うときの距離の感覚を、コンビニのカウンター越しの五年で得ていた。近すぎず、遠すぎず。
しばらく二人は黙って焚き火を見ていた。
ヴィオラは食べ終わり、皿を膝の横に置いた。
「マジマ」
「はい」
「あなた、家族いる」
「妹がいます」
「そう」
「あなたは」
「いない」
彼女の声は、平らだった。
「母はエルフ。森を出て、人間の父と暮らした。両方の集落から弾かれて、私だけが残った」
「お母様は」
「死んだ。私が八歳のとき」
「お父様は」
「分からない。母が死んでから出ていった」
透は何も言えなかった。彼は彼女の頬を、横から見た。彼女の頬は火の影で半分が橙色に染まり、もう半分が暗い藍色だった。彼女の表情は、その境目でどちらにも傾かなかった。
「私は」
彼女が続けた。
「受け取った文化も、渡せる相手もいない」
透の喉が一瞬詰まった。
彼の中で彼女の言葉が、彼自身の言葉と一致した。
「私も、似ています」
彼はそう言った。声は、自分でも知らないほど低かった。
「私も両親が早くに死にました。妹はいますが私は妹に、両親のことを何も渡してこなかった」
「なぜ」
「分かりません」
「分かる」
彼女は短く言った。
「分かるって何が」
「あなたが何が分かっていないかが、分かる」
透は彼女のほうを向いた。
彼女は初めて彼の目を真っすぐ見た。
彼女の青い目の中に火が二つ、小さく映っていた。
彼女はしばらくその目で透を見て、それからふっと視線を空のほうへ移した。
「マジマ」
「はい」
「私の母は毎晩私に歌をうたった。エルフの古い歌。私はその歌を覚えてる。でも私はそれを誰にも歌わない。歌っても聞いてくれる相手がいないから」
「私が、聞きます」
透の口から自分でも意外な言葉が出た。
ヴィオラは目を伏せた。
「いま聞かなくていい」
「いまじゃなくて、いつかでも」
「いつか」
「いつかあなたが歌いたいときに」
彼女は答えなかった。答えなかった代わりに彼女の指が外套の端を、軽く握った。それは肯定の動作だと、透は判断した。コンビニで五年客の指の動きを見てきた目がそう言った。
「私、もう長く話したから寝る」
彼女は皿を置いて立ち上がり、彼の隣を離れた。
彼女は薪の山の向こう側に行き、外套を頭からかぶってすぐに動かなくなった。
透はその背中を、しばらく見ていた。
焚き火の薪がぱちん、と一つ爆ぜた。
その夜彼は珍しく、夢を見ずに眠った。
夢を見ずに眠れたのは五年ぶりだった。
朝隊が出発するとき、ヴィオラはもういつも通りの無口に戻っていた。
だが彼女は馬の上から透のいる馬車を、一度だけ見た。
透も彼女のほうを、一度だけ見た。
それだけで二人は、二人になっていた。




