第6章 引き継ぎを引き受ける
十騎は、宿の前で止まらなかった。
止まらなかったからそれは旅人ではないと、透は確信した。
彼らは速度を落としもせず宿の脇道に折れ林の影から回り込み、宿の裏手へ消えた。
見えなくなった瞬間宿屋の犬が低く唸り始めた。
「アンヌさん」
透は厨房に駆け込んだ。
「裏に、人が回り込みました」
「何だって」
アンヌの手が肉切り包丁の柄に止まった。
「客じゃない。たぶん十人以上」
「街道の盗賊は、こんな夕方に出ない」
彼女はそう言いつつ、もう包丁を握り直していた。年齢を重ねた女が、武器を握る角度には、彼女自身の歴史がにじんでいた。透はそれを見て、「アンヌさんは武器の握り方を知っている人だ」と気づいた。気づいて、訊いている時間はなかった。
「お客様、何人?」
「上に、商人が一人。広間に、馬方が二人」
「商人を起こして馬方は連れて出てくれ。あんたは奥の納屋から井戸の裏手に回って」
「アンヌさんは」
「私はカウンターから動かない」
「逃げてください」
「逃げるよ。でもその前に、火を消す」
透は階上に駆け上がり、商人の部屋の扉を強く叩いた。
「お客様、起きてください。盗賊らしきものが宿の裏に」
返事はなかった。
彼は扉を押した。鍵はかかっていなかった。
中で、革のベストの旅商人が椅子の背にもたれかかったまま動かなかった。透は近づいた。商人の喉に、薄く赤い線が一本走っていた。すでに切られていた。窓が小さく、外側に向かって開いていた。誰かが窓から忍び込んで、出ていったあとだった。
透は商人の手首に指を当てた。脈はなかった。
彼は静かに商人の傍を離れた。
立ち上がる前に、彼は商人の机の上を見た。革の包みがほどけて、中身が散らばっていた。香料の小袋金物の見本、そして一枚の薄い紙。紙には何かの図面のような、あるいは地形のような線が引かれていた。透はそれを、急いで自分の懐にしまった。後で見るべき、と判断した。誰がなぜこの男を殺したかその答えは、あるいはこの紙に書かれているかもしれなかった。
扉を閉め、階段を下りた。降りる足音は、彼の前世のコンビニの「お客様緊急時」の足音と同じ歩幅だった。彼の身体は、緊急事態に慣れていた。彼の頭が初めて見る光景でも、彼の足は決まった速さで動いた。
階下の広間に下りると、馬方の二人がすでにアンヌに状況を聞いていた。彼らは武器を持っていなかったが、片方は腰の革帯に短い鉈を提げていた。
「裏から十騎」アンヌが続けた。「二階の客は、もう亡くなってる」
「亡くなって?」
「殺されてる。私は厨房の窓からこれを見た」
彼女は鉈の柄で、外を指した。
「火が」
窓の外にすでに一筋、黒い煙が立っていた。納屋から上がっていた。
透の身体がすうっと冷えた。
「納屋ですか」
「藁に火をつけたんだろう。盗賊じゃないね、これ」
「では」
「軍だ」
アンヌは短くそう言った。
「軍。誰の」
「分からない。分からないけど軍の動きだよ。盗賊ならまず宿に押し入って金を奪う。これは違う。先に客を一人静かに殺した。たぶんあの商人は、誰かに追われてた。盗賊じゃなくて、誰かが目的を持ってここに来た」
彼女は鉈を腰に挟みもう一本の小さな短刀を、透のほうに差し出した。
「あんた、これ持ってな」
「使えません」
「使うんじゃない。持ってるだけ。誰かが寄ってきたら、見せて。それで充分だ」
透は短刀を受け取った。鞘ごと、彼の前世の握力よりやや重い。
宿の表で、何かが破裂する音がした。
火が広がる早さを、薪の山が決めていた。納屋には、冬越しの薪が積んであった。彼らはそれを知っていて、火をつけた場所を選んでいた。
表からアンヌの夫が叫んだ。アンヌの夫は宿の外で、馬に水をやっていた老人だった。彼の声は悲鳴とも違う、低い呻きだった。透はその呻きの方角に駆けた。
表に出ると、地面に老人が膝をついていた。彼の背中に矢が一本、刺さっていた。羽の色は、白と灰の二色だった。透はその矢を見て、息を止めた。彼の前世の知識は何も役に立たなかったが彼の身体は、矢が深いか浅いかを目で判別した。深い。
「アンヌ」
彼は屋内に向かって叫んだ。叫ぶことを彼の身体は普段しなかった。彼の声は、自分でも知らない音域を出していた。
「アンヌさん!」
アンヌが厨房の裏口から出てきた。彼女は夫の傍に走り寄り膝をつき、夫の頬に手を当てた。夫は薄く笑った。
「アンヌ」
「うん」
「客たちを、頼む」
「うん」
「俺はちょっと、休む」
彼の身体は、それから動かなかった。
アンヌの手は震えなかった。震えなかったかわりに彼女の口の端が、わずかに歪んだ。それから戻った。
宿の入り口から矢が一本、飛んできた。アンヌの肩を掠めた。彼女は身を伏せた。透はとっさに彼女を引っ張り、納屋の脇へ移した。納屋の屋根からはすでに焔が立っていた。熱の壁が彼らの背中を押した。
「アンヌさん井戸の裏に、地下の貯蔵庫があるって言ってましたよね」
「あるよ」
「行きましょう」
彼は彼女の腕を取り、馬方の二人に「逃げて、村まで」と短く指示し、自分は地下貯蔵庫へ向かった。馬方たちは反対方向、東の街道のほうへ走った。彼らの選択は、透の選択ではなかった。透はこの宿に、もう少し残らなければならない理由が、自分の中にあるのに気づいていた。残った理由は、彼の身体が老人の死体に背を向けることをまだ許可していなかったからだった。
地下貯蔵庫は、井戸の裏の石組みの下にあった。木の蓋がありそれを持ち上げると、ちょうど人ふたりが下りられる狭い梯子が見えた。アンヌが先に下り、透が続いた。蓋を下から閉めると上の音が一段、小さくなった。
中は、ひんやりしていた。穴蔵で冬越しの保存食塩、樽が積まれている。窓はない。明かりは、アンヌが懐から出した小さな油皿だけ。彼女が指を擦り合わせると、芯に火が点いた。簡単な火付けの魔法らしかった。
「あんた、聞いておいてくれ」
アンヌは座り込み、息を切らしていた。彼女の左肩は、矢の擦った跡が血で滲んでいた。
「私は、もう走れない」
「アンヌさん」
「いい。聞きな」
彼女は懐から革袋に包まれた小さな鍵を取り出した。それから別の革袋から薄い帳簿を出した。
「この鍵は宿の金庫の鍵だ。帳簿は過去の取引の記録。あんた両方とも、持っていきな」
「無理です」
「無理じゃない。あんたは、今夜私の宿を見た最後の人だ」
「アンヌさん、生きてください」
「生きるよ。でも、生きても私はもう宿を建て直せない。歳だ」
彼女は深く息を吐いた。
「マジマ。あんた私の引き継ぎを、受け取ってくれ」
透は鍵を受け取らなかった。受け取らないかわりに彼女の手の上に、自分の手を置いた。彼女の手は冷えていた。
「アンヌさん」
「うん」
「私はまだ誰の引き継ぎもちゃんと、受け取ったことがない人間です」
「そうかい」
「両親の引き継ぎも、受け取れませんでした」
彼の声は、自分でも知らないところから出てきていた。地下の冷たい空気が、彼の口から言葉を絞り出した。地下貯蔵庫の中で、彼は前世で一度も誰にも言わなかったことを初めてしかも自分の母親と同じくらいの年の女に言っていた。
「両親が事故で死んだ夜私は葵に──妹に両親の死を伝えてそれから五年両親の話を一度も妹にしませんでした。妹は両親のことをどんどん忘れていきました。私はそれを、止めませんでした。それが私が人生で一番、引き継ぎ損ねたものです」
アンヌは黙って彼の指を握っていた。
「じゃ最初の一人目に、私を選びな」
彼女は彼の指を、自分の指で握り直した。
「マジマ。私は夫を見捨てられない。下に降りるときあの人の身体を、上に置いてきた。私はしばらくここで、一人になりたい」
「アンヌさん」
「あんたはもう上に出な。出て街道を東でも西でもなく北に向かいな。北に行けばヴァルナンだ。ヴァルナンの市場で私の名前を出せば私の妹が、宿屋を一軒やってる。妹を訪ねな。そこから先は妹が、教える」
「私は」
「あんたがどこへ行くかはあんたが決めな。でもまずは、北だ」
透は鍵と帳簿を受け取った。受け取った瞬間彼の指が震えた。
受け取ったというのはただの動作ではなかった。
彼は五年ぶりに誰かの未完了業務を、自分の名前で引き受けた。
地上に出る前に、彼はもう一度振り返った。
「アンヌさんお名前を、教えてください」
「アンヌだよ」
「お名字を」
「アンヌ・ヴェル。亡くなった夫は、ヴェル・ハンナント」
「ヴェル・ハンナント、アンヌ・ヴェル」
「覚えなくていいよ。死んだ人間の名前は軽くなる」
「軽くしません」
透は名前を二度繰り返した。
「アンヌさんがいつか宿を建て直したくなったら必ずお訪ねします。私が必ず引き継ぎを、お返しします」
アンヌは目を細めた。
「マジマ。あんたの言うことは頼もしいけど本当にできるかは、別の話だよ」
「それでも、お約束します」
「いいよ。覚えとく」
彼女は彼の指を離し、油皿の火に向かって軽く息を吹いた。火は揺れ、また落ち着いた。
「行きな」
透は梯子に手をかけた。
地上に出ると、宿は半分が崩れ落ちていた。
火は風で逆に広がり、すでに反対側の納屋までも飲み込もうとしていた。襲撃した騎馬隊は、宿の表で何かを探した様子だった。階上の商人を確認したあと目的を達したのか馬の列が東のほうへ駆け去っていく音が遠くで聞こえた。
透は身を伏せ、煙の隙間から彼らの背を見送った。馬の鞍に、紋章のある布が掛かっていた。布の地は黒で、紋章は赤い竜だった。
赤い竜。
彼はそれを覚えた。
覚える、ということを彼は意識して行った。
街道に戻ると、空はもう暗かった。
透は北のほうを見つめた。ヴァルナンへの道は、街道沿いに二日ほど。途中に村が二つ河を渡る橋が一本ある、とアンヌは言った。彼の足では夜通し歩いて、明日の昼ごろに最初の村に着く計算だった。
彼は来た方向──南──を一度振り返った。
そちらには、もう何もなかった。あったはずの宿屋は燃え落ちて、煙の塊になっていた。
彼の手の中にはアンヌの帳簿と鍵とリシェルから受け取った予言の紙、そして商人の机から取った謎の図面があった。
そして彼の頭の中には五年眠っていた誰かが薄い膜の向こうから話しかけてくる声と、まだ顔を結びつけられない名前があった。
彼は短く息を吸い、北へ向かって歩き始めた。
歩きながら彼は商人の図面を、月の光に透かして見た。図面に描かれていたのは線と数字と、いくつかの記号だった。最初は地形図だと思ったが、よく見ると違っていた。それは、何かの建造物の配置図だった。中央に円が一つ、その周りに七つの点が均等に並んでいる。点の一つひとつに、彼の知らない文字が振られていた。文字の周囲に光を当てると、視界の中で半透明の翻訳が浮かんだ。
〈封印鍵 第一〉〈封印鍵 第二〉〈封印鍵 第三〉
七つまで番号が振られていた。
封印鍵。
彼にはまだその単語の意味が分からなかった。だが商人がその図面を持ったまま殺されたという事実が、彼の指を冷たくした。商人は、誰かに追われていた。追ってきた者が図面を持ち帰らなかったのは商人の身体が囮になり、彼らがそれ以上探さなかったからだ。透は図面が彼の懐に来た偶然を、偶然で済ませない方が良いと判断した。
彼は図面をリシェルからの予言の紙と一緒に、革のバンドの中にしまった。
歩きながら彼は自分の中で何かが変わったことに気づいていた。
変わったと表現する以外の言葉が、彼の中にまだなかった。
彼はもう「いつも通り」とは答えられない場所にいた。
誰の引き継ぎを、これから自分は受け取ることになるのか。
誰へ、自分は何を引き継いでいくのか。
その問いが彼の胸の真ん中で、初めて名前を持って動き始めた。
夜半過ぎ彼は街道脇の倒木の陰で、しばらく腰を下ろした。
月の光の下でリシェルから受け取った予言の紙を、もう一度開いた。
「世界の終わりに現れるは、剣にあらず魔にあらず」
彼は声に出して読み上げた。
「ただ、前任者の遺せしものを正しく次へ運ぶ者なり」
読みながら彼の喉に、奇妙な熱がのぼってきた。
これは、自分のことを言っているわけではない。
彼はそう自分に言い聞かせた。
言い聞かせた瞬間にもう一つの声が彼の中で答えた。
「だが自分のことを言っていないと言える根拠も、ない」
彼は紙を巻き戻し、革のバンドに戻した。
そして北へ歩き始めた。
新しい世界のほんとうの第一歩が、ここから始まった。




