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引き継ぎノートの勇者 ―異世界コンビニ五年目、世界のシフトを受け取れ―  作者: もしものべりすと


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第5章 普通の店員に、世界は救えない

リシェル一行は、翌日の昼まで宿に留まった。


透が下した結論は、結論になっていなかった。


彼は朝から井戸端で水を汲み納屋で薪を割り、倉庫で在庫を数え直していた。


答えを出さないという形での答えを、彼の身体は時間稼ぎとして使っていた。


「マジマ」


午前のなかば、ロランドが井戸端の彼に声をかけた。


「殿下がお前と、もう一度話したいと言っている」


「はい」


透は手を止め、布で水を拭った。


井戸の縁の石の冷たさが指先に残っていた。彼はその冷たさを掌で握り直すように握り、解いた。これから話す内容を、彼の身体は事前に身構えていた。身構えても自分が何者でもないという事実は変わらない。彼はそう思っていた。


個室には、リシェルが地図を広げて待っていた。羊皮紙の地図で国境線が黒い線河川が青街道が茶色、それに小さな塔の絵が王国の主要都市に書き込まれていた。透は地図を見て、自分の知っている地球儀とは全く違う形の大陸が広がっているのを認めた。


「来てくれてありがとう」


リシェルは礼を言ってから地図の右の端を指差した。


「この、東の境。これがドラケン帝国との国境よ。私たちが今いる場所は、この辺り」彼女は地図の中央左寄りの一点を指した。「王都はここ。私はこの夏のあいだ、この街道を回って四つの領地を訪ねたわ」


「四つで、二つが派兵に応じてくれた」


「そう」


「残り二つは」


「断ったの。理由は、それぞれ違う。一つは、すでに帝国側と密かに接触していると思われる」


「もう一つは」


「家督相続でもめていて当主が誰なのか、外から見て判別できない状態」


透は地図を見つめた。


「もう一度お時間を、頂きたいのですが」


「どうぞ」


「私は剣が使えません。魔法も使えません。私の知っているものはぜんぶ皿の置き方と油の見方と、棚の整理の仕方です。私は王女様の隣に立つには、無価値だと思います」


リシェルは頷いた。


「それは私にも分かるわ」


「えっ」


「あなたが言ったことは本当のことよ。あなたは剣も魔法も持っていない。でもね」


彼女は地図の中央を、指で軽く撫でた。


「あなたの持っているものはこの国にいま足りないものなの。私はあなたが何者かよりもあなたが、何ができるかを見ている」


「私は」


「あなたが油の濁りに気づいたのは皿を運ぶ仕事を長くしていたから。それはあなた自身が言ったことよ。長くしていたというその一言の中に、何千日があるの。何千日の経験が、ある瞬間の判断を支える。あなたの判断が、私の命を救った」


透は唇を引き結んだ。


「考えさせて、ください」


「待つわ」


「でも私は戻る方法を、探さないといけません」


リシェルは少し首を傾げた。


「戻る、というのは」


「私はここの人間ではないということをお話ししました」


「ええ」


「私には戻るべき場所と待っている人がいます。少なくとも、いるはずです」


彼の口調が、少しだけ揺れた。


「どうやって戻るのかはまだ分かりません。でも戻る方法を探すことをまず先にしないといけないんです。私の判断が王女様のお役に立つのなら私は嬉しい。でもそのために戻る道を諦める覚悟は、まだありません」


リシェルは地図の上で指を止め、しばらく彼を見た。


「正直ね」


「申し訳ありません」


「いいえ。私は自分の願いを最優先にする者を隣に置きたくない。あなたが自分の道を持っているのなら、それを尊重するわ」


彼女は地図を巻いて、傍に置いた。


「ではこうしましょう。私が王都に着いてからあなたの判断を待つ。気が変わったら王都の城門で、私の名前を出して。あなたを通すよう伝えておくわ」


彼女は懐から紙を一枚、取り出した。


それは細長く両端を蝋で封じてあった。蝋には王家の紋章と思われる、剣と書物の絡んだ印が押してあった。


「これを持っていきなさい」


「これは」


「この国のある古い予言の最後の一節よ。父祖の代から王家の禁書庫に眠っていたもの。ある神官が十年前に、もう一度日の目を見せた」


透は紙を受け取った。


「どんな予言ですか」


「読んで」


透は蝋を指で割った。羊皮紙が内側で巻かれていた。広げると、彼の知らない文字が並んでいた。


「読めません」


「あなた視界の中に、こちらの単語の意味が浮かぶでしょう」


「は?」


「あなた転位者でしょう。私たちはその存在を知っているの。年に何人か別の場所からこちらに渡ってくる人がいる。ほとんどはこちらの言語を、視界で読み解ける」


透は試しに、紙の文字に意識を集中した。


すると文字の周囲にぼんやりと、別の文字が重なって浮かび始めた。半透明の、彼の知っている言語の文字だった。


読めた。


〈世界の終わりに現れるは、剣にあらず魔にあらず。


ただ、前任者の遺せしものを正しく次へ運ぶ者なり。


受け継ぎを断つ者は、世界を終わらせる。


受け継ぎを完う者は、世界を生かす。


彼の名は、フィッカ・トレディン〉


透は読み終えて、紙から目を上げた。


「これは」


「分かったでしょう」


「いえ、分かりません」


「分からなくていい。今すぐは、ね」


リシェルは紙を彼の手に押し戻した。


「持っていなさい。気が変わったら、それを持って王都に来て」


透は紙を、震える手で巻き戻した。蝋は割れていたが、紙は折りたためた。


彼はその紙を、宿で借りた粗末な革のバンドの中に挟んだ。


その日の午後、リシェル一行は宿を出立した。


透はアンヌと一緒に、宿の前で見送った。馬車の窓越しにリシェルが彼に微笑み、軽く手を上げた。透は深く頭を下げた。


馬車が遠ざかったあと、アンヌは透の肩を軽く叩いた。


「あんた、王女様に呼ばれたんだろ」


「ええ」


「行くのかい」


「決めかねています」


「決めかねてるあいだは、ここで働いてな」


「はい」


透は宿の中に戻った。彼の身体は、いつもの倉庫と井戸端と皿洗いの動きに戻った。だが彼の頭の中だけは、いつもの場所に戻れなかった。


予言の四行の文字が視界の隅で、ずっと半透明に浮かんでいた。


彼は意識して文字を消した。文字は素直に消えた。


だが消えたことを確認したあとで、彼はまた呼び出してしまう。呼び出して、読み直してしまう。


「前任者の遺せしものを正しく次へ運ぶ者」


それは、彼が五年間コンビニのレジでやってきたことだった。


それを「世界の終わりに現れる者」と呼ぶ詩は、彼の前世のどこにも存在しなかった。


その夜彼は宿屋の客の一人と話した。


旅商人の中年男だった。革のベストを着て、各地の村を回って香料や金物を売っている。彼は店の片隅でエールを飲み、独りごとのように愚痴を言っていた。透が皿を運ぶたびに、その独りごとが少しずつ続いていた。


「最近商売がやりにくくてさ。新しい代官に変わってから税の取り方が違うんだよ。前の代官は収穫の二割って決めてた。新しいのは商品の数で取ってくる。だから俺らみたいに小さい商品を扱ってる商人は、今までより倍取られちまう」


「規則が変わったのですか」


「規則は変わってないよ。代官の解釈が変わっただけだ。それに前の代官が後任に何の文書も残さなかった。書類は引き継がれたけど、運用は引き継がれなかったんだ。だから解釈が好き勝手になっちまった。この国は、引き継ぎが下手なんだよ」


透は皿を持った手を、もう一度止めた。


「引き継ぎが、下手」


「そ。前の領主が決めたことを次の領主が覆す。商人としちゃ、商売あがったり」


旅商人は更にエールを呷ってから続けた。


「だいたいな上の人間が下手なのは伝統だ。学校でも教わるんだよ王国貴族の子は。剣の振り方は習うけど引き継ぎの仕方は習わない。書類の書き方は家令が代わりにやる。家令が下手だと、家ごと傾く。家令を雇える金がない領主は、解釈の食い違いで領民から恨みを買う。それで最後はみんな、領民が出ていく」


「商人だけでなく、領民もですか」


「人は誰でも、合わない上司の下じゃ働かないよ。それは商売も農作も、変わりがねえ」


透はその一言を、長く頭の中に置いた。


合わない上司の下では働かない。


それは彼の前世の同僚が辞めていく理由として、何度も聞いた言葉だった。彼自身は、合わない上司の下で五年働いた。働けてしまった。働けてしまうことがある種の才能でもあるのだと、彼は今初めて思った。それは光栄でもなければ、恥でもなかった。ただ彼の身体に染み込んだ、ひとつの仕様だった。


旅商人はそれだけ言ってエールの残りを飲み干した。


透は皿を片付けながら頭の中でその言葉を、何度か繰り返した。


引き継ぎが下手な国。


彼が知っているコンビニで、引き継ぎが下手だった夜のことを彼は思い出した。あの夜前のシフトの店員がノートを書かずに帰り、彼が深夜帯に入ったとき、取り置き商品の三件が分からないまま客に「ありません」と答えてしまった。客は怒って店を出ていった。次の日、店長から叱責された。書く人がいなければ、読む人は何もできない。彼はその夜から自分のノートを必要以上に丁寧に書くようになった。


規則は変わってない。運用が変わった。


それは彼にとって馴染みのある問題だった。


夜が更けて、透は納屋の藁布団に潜り込んだ。


天井の隙間から月が二つ、薄く光っていた。


彼は仰向けになり腹の上に、リシェルから受け取った紙を置いた。


眠ろうとした。


眠ろうとしたとき、また声がした。


「お兄ちゃん、今日学校でね」


若い、しかし子どもではない声。


透は身体を硬くした。


彼はその声を、覚えているはずだった。


覚えているはずなのに声と顔が結びつかない。声と名前が結びつかない。彼の頭の中で五年眠っていた誰かが薄い膜の向こう側でこちらに向かって話している、そんな感覚だった。


彼はその声に向かって手を伸ばそうとした。


手は虚しく動き、藁を掻いた。


声は遠くなった。


彼は呟いた。


「誰なんだ」


答えはなかった。


彼は枕代わりの粗布に顔を押し付けて、長く長く息を吐いた。


朝彼は目を覚まし、納屋の天井を見つめた。


昨夜の声を、覚えていた。


覚えていたが声の主の顔は、まだ見えなかった。


彼は身を起こしリシェルから受け取った紙を、もう一度バンドに挟み直した。


彼の心の中で、まだ天秤が揺れていた。


王都へ行くか。


ここに残るか。


戻る方法を探すか。


答えは、まだ出なかった。


朝の宿の広間で、アンヌが鶏の毛をむしっていた。透は彼女の隣で、お湯を沸かす火を見ながら考え事の続きをしていた。


「悩みごとかい」


「はい」


「あんたの悩みは、たぶん二択になってないだろう」


「はい」


「そういうのは悩んでるあいだに、もうひとつ別の道が出てくる。だから急いで決めなくていいよ」


透は頷いた。


「アンヌさん」


「ん」


「もし私がこの宿を出ていくとしてその前にきちんと、引き継ぎをさせていただいてもよろしいですか」


アンヌは鶏の毛をむしる手を、少しだけ止めた。


「引き継ぎ」


「はい。何をどこにどの順番で置いたか。誰が次に来るか分からなくても書いておけば、その人が困らないように」


「あんたたかが宿屋の倉のために、そんなことまで」


「お世話になりましたから」


アンヌはしばらく彼を見て、それから笑った。笑いは彼女の眉のあたりに、わずかな水分を作った。


「ありがたいよ」


「いえ」


「あんた、本当に変わった子だね。倉のためにそんなにする人なんて、見たことない」


「倉のためじゃないんです」


「じゃ、何のため」


透は答えに困った。


答えは、彼の中にはあった。だがそれを口に出せる形にする訓練が、彼の中で行われていなかった。


「次の人のためです」


彼はそう言った。


言ってから自分でも、その答えに少し驚いた。


次の人のため。それは彼が前世で五年間引き継ぎノートを丁寧に書き続けてきた、本当の理由だった。彼は今初めてその理由を声に出した。


アンヌは何も言わずに、鶏の毛むしりに戻った。


だがその背中がほんの少し、丸みを帯びていた。


その日の夕方宿の方角から土埃が立ち上るのが見えた。


何台もの馬の蹄が、地面を踏みしめる音だった。


透は箒を持つ手を止め、街道のほうに目を凝らした。


近づいてくるのは馬車ではなかった。馬の列だった。


数は、十騎ほど。


それは旅人の連れではなかった。


答えはまだ出ていなかった。


だが答えを出す前に別の何かが、彼の宿に到着しようとしていた。

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