第4章 街道の少女、王国の名を聞く
三日目の夕方街道の遠くから低い車輪の音が近づいてきた。
ただの行商の馬車ではないと宿の前に立っていた透の背筋が、勝手に分かった。
車輪の音が重く、走り方に余計な揺れがない。
良い馬で、良い御者だ。それが彼の最初の判断だった。
馬車は二頭立てだった。車体は黒い木で装飾は控えめでしかし金具の磨き方が、明らかに普通の木箱の馬車ではなかった。御者台に座っているのは革の防具を着た中年男で、目つきが客商売の人間のものではなかった。馬車の左右には騎乗の護衛が一人ずつ、徒歩の護衛が一人。合計三人の護衛が付いている。
小さな貴族の私的な旅、と透は判断した。判断したあと、自分が判断したことに少し驚いた。彼はこの世界に来てまだ五日で、貴族を見たことがなかった。
だが彼の身体は、判別を引き受けていた。コンビニで五年間客の身なり、財布の出し方、視線の動きで「面倒な客」と「金払いの良い客」と「常連」と「観光客」を一秒で見分けてきた経験が、ここでも仕事をしていた。
馬車が宿の前で止まった。御者は手綱を引き、馬を落ち着かせた。徒歩の護衛が馬車の扉を開けるまえに、宿の周りをぐるりと一周見回した。視線が透を一秒、捉えた。透は反射で頭を下げた。下げてから客への角度ではなくただ礼の角度になっていることに、彼は遅れて気づいた。
馬車から降りてきたのはフードを目深に被った若い女だった。
身体つきは細く肩の線が華奢で、しかし背骨は真っすぐだった。フードの陰から覗く顎の線が、整っていた。彼女は宿の入り口まで歩く間視線をどこにも止めずしかし足の運びは、地面の状態を全部読んでいる動きだった。
透は道を空けた。彼女は微かに会釈し、宿の中へ入った。
アンヌは厨房で肉を二切れ、慎重に火に乗せていた。普段はもっと荒く扱う鉄板を、今日は気を配って熱していた。
「アンヌさん、客が」
「わかってるよ」
「貴族の方ですか」
「たぶんね。たぶんね。聞かないことにしてるよ、こういうの」
透は頷いた。
彼は二人ぶんの皿を運ぶように指示された。徒歩の護衛は外で立ったまま動かない。御者と騎乗の護衛は厩でひとまず休む。馬車から降りた女と、馬車に同乗していた騎士のような中年男の二人が奥の小さな個室に通された。
個室と言っても宿の中の小さな仕切りの奥にあるだけで、扉もない。布の幕で間仕切られているだけだった。透が皿を持って入ると、女はすでにフードを下ろしていた。
肩に届く長さの、淡い金髪。光に当たると、麦の穂のような色が混じる。瞳は青と緑のあいだの色で形が大きく、瞼の縁がはっきりしていた。年は十八か十九。彼女のすぐ隣に座る中年の騎士が、透が入った瞬間剣の柄に手をかけた。透は皿の手を止めた。
「やめて、ロランド」
女がそう言った。声は彼女の年相応より、わずかに低かった。聞き取りやすい発声で声を空気に乗せる訓練を受けた人間の喋り方だった。
ロランドと呼ばれた騎士は、剣の柄から手を離した。だが視線は透から離さなかった。
透の身体は、視線に晒されることに慣れていた。コンビニの監視カメラの目本部の覆面調査員の目、そしてクレーマーの目。彼の背中はそれらに対して柔らかく、しかし崩れない角度を保つように作られていた。今ロランドの目は、それらのどれとも違う種類の目だった。彼の身体が反応しない種類の目だった。透は不思議と、緊張しなかった。
緊張しないことに、彼は途中で気づいた。
気づいてなぜだろう、と思った。
答えは見つからないまま彼は皿をテーブルに置いた。
透はテーブルに皿を置いた。
パンと根菜と肉のシチュー、それに葉物のサラダ。アンヌはこの宿で出せる最も手のかかった料理を出してきていた。シチューには、滅多に使わない香料が一摘み入っている。透はそれを匂いで判別した。
女はパンを千切ろうとして、手を止めた。
彼女は前菜の小皿に視線を向け、銀の小さな匙を取った。匙でスープの表面を一度撫でた。それからもう一度撫でた。
透はその動作を見ていた。
彼の身体は、コンビニで揚げ物の油の状態を毎日確認してきた。古い油は色だけでなく、表面の張り方が違う。新しい油の表面は、撫でると素直に動く。古い油はわずかに粘り、撫でた跡が残る。
女の前のスープの表面の油の浮き方は、奇妙に粘っていた。
透は反射で口を開いた。
「お客様」
ロランドが咄嗟に立ち上がりかけた。透は皿のほうへ手を伸ばし、女の前から皿を一度引き上げた。
「申し訳ございません。こちらのお品は、少々お時間をいただいてもよろしいですか」
彼の声はコンビニ用の角度で、しかし速かった。
「油の状態がよくないようです。新しいものをご用意します」
彼はそのまま頭を下げ、皿を持って下がった。ロランドが「待て」と短く言った。透は止まった。
「お前」
「はい」
「いま何を見た」
「油が濁っておりました」
「濁ってというのは」
「表面が撫でたあとに戻りませんでした。私の知る限りそれは何かが混じっているか油そのものが古いか、どちらかです」
ロランドは女の顔を見た。女は静かに頷いた。
「マジマ、と言ったか」
「はい。真島透と申します」
「下がってよい。ただし、その皿は私に渡せ」
ロランドは皿を受け取り中の汁を一滴、自分の指先につけた。それを舌で軽く触れ、すぐに吐き出した。
「毒だ」
彼の声は低かった。
「微量だが確実に。マジマお前、この毒を見分けたのか」
「いえ、毒だとは思いませんでした。油の劣化だと思いました」
「結果は同じだ」
ロランドは女のほうを向き、一礼した。
「殿下、一度出立を取りやめるべきかと」
殿下という単語に、透の頭がほんの一秒止まった。
彼は皿を持ったままその場で身じろぎ一つできなくなった。
殿下と呼ばれた女は、彼を真っすぐ見ていた。
「あなた、名前は」
「真島透です」
「マジマ・トオル。私は、リシェル・アストレア。アストレア王国第三王女よ」
そう告げる彼女の声は自慢でも威圧でもなく自己紹介の最低限の事実を、淡々と並べる声だった。
「あなたが私の命を救ったのは二度目ね」
「二度目」
「一度目は私が知らなかっただけ。もう三日前別の宿で、私は同じような毒を盛られかけた。誰かが私を狙っている。今夜は二度目。あなたが油の濁りに気づかなければ、私は今夜ここで死んでいた」
透は何を答えていいかわからなかった。
答えるかわりに、彼は深く頭を下げた。
頭を下げる以外の動作を、彼の身体は持っていなかった。
リシェルは結局その夜宿に泊まった。
ロランドはひと晩中、個室の前で椅子に座って眠らなかった。透はアンヌに頼まれて、夜のあいだに二度ロランドの前にエールの杯を運んだ。彼は一口だけ飲み、あとは飲まなかった。
深夜リシェルが個室から出てきて、暖炉の前に座った。
彼女はフードを着ておらず、髪を後ろで簡単に束ねていた。普段着のような簡素な紺の旅装に、銀の細い首飾り。火の光が彼女の頬の輪郭を柔らかく照らしていた。
透はカウンターの内側で皿を拭いていた。
「マジマ・トオル」
リシェルは彼の名前を、二つの音節に分けて呼んだ。
「はい」
「この宿の人ではないわよね」
「はい」
「東の海向こうの方?」
「いえ」
「ではどこから」
「もっと、ずっと遠くからです」
彼女は微笑んだ。微笑みの形は、彼が普段客に向ける角度に近かった。だが彼女のそれには、芯があった。芯があると表現する以外に、彼の中に言葉がなかった。
「私、王都へ戻る途中なの」と彼女は言った。「父の命令で、辺境の領主たちを訪ねてまわっていた。父祖から受け継いだ騎士団派兵の盟約を、もう一度確認するために」
「派兵の盟約」
「私たちの王国はいま危ない場所にあるの。東の隣国──ドラケン帝国が国境を越えそうな気配がある。古い盟約を結んでいる領主たちがまだその約束を覚えているか、確認に行っていた」
「皆、覚えていましたか」
「半分は、ね」
リシェルは暖炉を見つめた。
「半分は忘れていた。父祖の代の約束を自分の代で破る理由をたくさん用意していた。私が泣いたところで、彼らは笑った。そういう旅だった」
彼女は言葉を切り、しばらく薪の火を見ていた。火は青い縁を持った橙色で、薪の節の中で何度も小さく爆ぜていた。彼女は爆ぜる音に合わせるように続けた。
「父祖の代にある領主は私の祖母を救ってもらった。別の領主は我が国の兵に三百の騎士を借りて自分の領地を守った。それなのに孫の代になってその記憶は親族の墓と一緒に埋められてしまった。墓を立てるとき誰も墓に書ききれない感謝を、紙に書き残さなかった。だから消えた」
「紙に書き残せば」
「残せば、消えなかった。私はそう思っているの」
リシェルは透のほうへ顔を向けた。火の影が彼女の半分の頬に落ちて、もう半分を明るく照らした。
「父はそれを知っていた。だから私を辺境に送った。私が生きて覚えている人間として領主たちの家を訪ねるためだった。私が一人ひとりの目を見て私の祖母を救ってくれた、と話すために。それが私たち王家の、唯一の引き継ぎの方法だった」
透は皿を拭く手を、もう一度動かし始めた。動作の小さな反復が彼の頭の中で大きく動こうとしている何かを、抑えていた。
「引き継ぎが、行われていないということでしょうか」
彼の口が、自分でも意外な単語を選んでいた。
リシェルは目を上げた。
「引き継ぎ」
「前任の方が後任の方に重要な情報や約束を渡し損ねたときそう呼びます。私の前世ではそう呼んでいました。古い決まりが新しい人の手に届かずに、消えていくことを」
「マジマ・トオル」彼女は声を低くした。「あなた自分の言葉がどれだけ正しいか、自覚している?」
「いえ」
「私たちの国は引き継ぎがずっと、下手だったのよ。あなたの言葉のままに」
彼女は立ち上がり暖炉の薪を一本、足した。火が大きくなった。
「マジマ・トオルあなた、王都へ来ない?」
「私は」
「あなたの観察眼あなたの耳のよさ、あなたの言葉。私の隣にいてほしい」
透は答えに困った。
だが答えに困っている顔を、彼は表に出さなかった。
コンビニのレジで、難しい客に「考えさせていただきます」と返す角度の表情を、彼はそのまま使った。
「お時間をいただけますか」
「もちろん」
リシェルは微笑み、奥の個室へ戻っていった。
透はカウンターの内側に残り、火の前に立った。
彼の背中で、宿の階下の物音が小さく続いていた。馬の鼻息護衛の足音、夜風の中で揺れる看板の音。
彼は長く息を吐いた。
「マジマ」
低い声がした。
ロランドだった。彼は個室の前から動かず、こちらを見ていた。
「お前、剣は使えるか」
「いえ」
「魔法は」
「いえ」
「では何ができる」
透はわずかに首を傾けた。
「掃除と皿の運び方と、油の見分け方ができます」
ロランドは長く彼を見た。それからふっと息を抜くように笑った。彼の笑みは、武人の鎧の隙間から漏れる温度だった。
「それは、剣より人の命を救うことがある」
「そう、でしょうか」
「今夜のことを忘れるな。お前の油の見分け方が、王国の第三王女を生かした。その意味を、自分で過小評価するな」
透は何も答えなかった。答えなかった代わりに、皿を拭く布を強く握った。布が掌の中で湿った。
ロランドは透のほうへ近づき、低い声で続けた。
「殿下はお前を必要だと言っている。だが必要というのは王家の者にとっては便利、と同じ意味のこともある。お前が自分で考えて、自分で答えを出せ。殿下は、お前を強制はしないよ」
「ありがとうございます」
「礼を言うのもまだ早い」
ロランドは元の位置に戻った。
透は皿を拭き終え棚に戻し、暖炉に薪をひとつ足した。
彼は長く息を吐いた。
息を吐いた瞬間彼の頭の隅で、また誰かの声がした。
「お兄ちゃん」
今度ははっきりと聞こえた。
だが声の主が誰だったかを思い出す前に、声は消えた。
彼は両手で顔を覆い、しばらくそのままにしていた。




