第3章 渡したものと、受け取らなかったもの
翌朝透は宿屋の食料倉庫に立ったままゆうに二十分動かなかった。
その時間の長さに、彼自身まったく気づいていなかった。
彼の手は無意識に動き、頭の中で先入れ先出しという四文字が音もなく回転していた。
背後でアンヌが息を呑んだ気配が、ようやく彼を現実に戻した。
「あんた」
アンヌの声が半分驚き、半分疑いの色を帯びていた。
「うちの倉こんなに整ったの、初めてだよ」
透は手を止め、振り返った。
食料倉庫は、入って三歩ほどの正方形の小部屋だった。床は石壁は木の板、天井は低く木の梁から銅の鉤が下がっている。鉤に塩漬けの肉の塊が三つ、布で包まれて吊られていた。床の隅に、麦の入った革袋。棚には陶器の壺塩油酢、それに野菜の保存用の籠。そして奥の冷暗な隅に、エールの樽が二つ並んでいた。
透が入った時点ではすべてが、それぞれ別の論理で置かれていた。手前に、最近納品されたばかりの肉。奥に、もう塩が結晶化してしまった古い肉。麦の袋の上に油の壺。野菜籠の中に既に表面が黒くなりかけた根菜と、まだ採ったばかりの瑞々しい菜が一緒くたに突っ込まれていた。
彼の身体は、考える前に動いた。
古いものを手前に。新しいものを奥に。
塩漬けの肉の鉤を入れ替え、上下の順番を変えた。麦袋を一段下に下ろしその上に油を載せると床に染みる、と判断して油は別の棚へ。野菜は表面の黒い葉を一枚一枚千切って捨て、用途別に二つの籠に分けた。エールの樽はどちらが先に開いたかを栓の汚れで判別し、先に飲み始めたほうを手前に出した。
札を作った。木の薄い板を見つけて、棚にぶら下げる。「肉・古/肉・新/塩・予備/油・調理用/油・燃料」。文字はこの世界の文字ではなく、彼の知っている漢字とアルファベットの混合だった。だがアンヌは木の板の文字を見て、しばらくじっとしてから声を出して笑った。
「読めないよ、それ」
「あ、すみません」
「読めないけど、わかるよ。あんた、自分で書いた順番はわかってるんだろ」
「はい」
「じゃ、おれが習うわ」
アンヌは透の隣にしゃがみ彼の書いた札を一枚一枚指差し、彼に説明させた。彼は丁寧に低い声で棚ごとに何が入っていてなぜそれが手前なのか、いつまでに使い切るべきかを話した。
話しているうちに、彼の喉が自分の声に少し驚いた。
彼が誰かに「教えている」のは五年ぶりだった。
最後に教えたのは辞めていった先輩のあとに入ってきた新人バイトに、引き継ぎノートの書き方を教えたときだった。あれは「お願いします」と頭を下げる側で、「教える」とは少し違っていた。今は違う。アンヌは彼を訝しまず馬鹿にせず、ただ素直に頷きながら聞いていた。彼の言葉は、彼女の中で値段の付くもののように扱われた。
透は低い声を保ちながら自分の頬の内側で何かが緩むのを感じた。
緩んだら、また何か漏れる。漏れたら、彼の鎧が薄くなる。彼は意識して頬を引き締めた。
「うちで働きな」アンヌが言った。
「え」
「いっそ。あんた寝床と飯はうちで出すから。代わりに倉と店の片付けと、ちょっとした雑用やってよ。給金は出ないかわり、行き先決まるまで居ていいよ」
「あの」
「あんたが何者でどこから来たのかおれは聞かない。聞かないかわりに、働いてくれな」
透は深く頭を下げた。下げてからこれも前世の癖だと気づいた。腰の角度は、客に向ける角度だった。アンヌは目を細めて笑い、「客じゃないんだから」と言った。
「働いてもらう人が客みたいに頭下げるのはよしな」
「はい」
彼の声は短かった。
だが声の奥に彼自身知らなかった何かが、わずかに混ざっていた。
彼はそれを認めなかった。
認めるのはまだ早かった。
倉庫の作業を終えて昼を過ぎたころ透は宿の井戸端で、初めて自分の身体を水で清めた。井戸は石組みで、滑車に紐の付いた木の桶が下がっていた。透が滑車を回すと桶はゴリゴリと鳴って下りていき、水を汲んで戻ってきた。井戸水は冷たかった。掌に受けた水を首筋に当てると、皮膚が引き締まる感覚があった。彼が知っている水道水とは、温度の質が違っていた。古い深い、地面の奥の温度だった。
彼は水で顔を洗い、それから手を見た。
手の傷の跡が、ほとんど消えていた。
昨日まで皮膚の表面に薄く残っていた彼が前世で何度か小さく切った傷の跡──カッターで段ボールを開けたときのレジの紙幣で薄く切った指の跡──が、新しい皮膚の下に消えていた。彼の身体は、十年若返ったぶん傷も古いものを失っていた。彼は唇を噛んだ。
失われた傷の中には、彼が忘れたくなかったものもたぶん混ざっていた。
たとえば葵が幼かったころ、彼の親指に噛みついた歯の跡。あれは彼が二十歳の冬葵を抱きしめて、両親の死を伝えた朝に付いた跡だった。葵はあのとき泣くかわりに、兄の親指を強く噛んだ。透は痛みを覚えていた。痛みは長く残った。痛みが残るたびに、彼は葵の温度を思い出した。
その傷の跡が、もう彼の親指のどこにもなかった。
その日、彼は宿の表の客間も整理した。
床に散らばった藁とこぼれた酒の染みテーブルの脚の歪み、椅子の傾き。一つずつ、小さく直していった。傾いた椅子の脚には薪の燃え残った木片を削って当てテーブルの傷口には、油を浸み込ませた布で目立たなくした。彼の動作は早くも遅くもなく、ただ正確だった。
夕方になり、客が来始めた。
最初の客は、隊商の馬方だった。次に近隣の村から麦を売りに来た農夫が三人。それからどこかの旅商人らしい、革のベストを着た中年男が一人。彼らはみな疲れた顔で席に座り、アンヌに「いつもの」と言ってエールを頼んだ。アンヌは「あいよ」と答え、奥の樽から木の杯にエールを注ぎ、透に運ばせた。
透は皿と杯を運んだ。微笑みは、彼の前世のコンビニ用の角度のままだった。だが客は、彼の微笑みに違和感を覚えなかった。アンヌだけが、隅で皿を拭きながら彼の微笑みを観察していた。
「あんた」と彼女が小さく言った。「その笑い方さ」
「はい」
「便利な笑い方だね」
透は皿を置いた手をそのままにして、止まった。
「便利だよ」アンヌは続けた。「客が安心するし文句も言われにくい。商売向きだ。だけどあんた自身が安心するための笑い方は、別にあるよ」
透は答えなかった。答えるべき言葉が、彼の中で在庫切れだった。
アンヌは肩をすくめて、それ以上は言わなかった。
言わなかったが彼女の沈黙のほうが、彼の頬に長く残った。
その夜宿に泊まった旅人のひとりが、暖炉の前で楽器を取り出した。
六弦の弦楽器で、見たこともない形をしていた。形は楕円の胴に長い首が斜めに伸び、その首の端が小さな彫像になっている。彫像はフクロウの頭だった。
弾き手は老人だった。髪が肩まで白く、顔は皺の地図のようになっていた。袖が緩んだ革のジャケットを着ており、その内側に色とりどりの布の継ぎが見える。彼が席に座ると宿の客たちはなんとなく口を閉じ、椅子をその老人のほうへ向け直した。
透はカウンターの内側に立っていた。
老人は楽器の弦を指で弾き、低い和音を一つ作った。それから歌い始めた。
言葉は、透にとって意味の半分が分からなかった。だがリズムと音節の繰り返しは彼の心の奥のほうに、なぜか触れた。物語の歌だった。古い王が森の中で何かを失う話。何を失ったかは、最後まで歌の中で明かされない。聞き手はそれを察するしかない、という構造の歌だった。
老人は二曲歌い酒を一杯飲み、暖炉の前の長椅子で休んだ。客たちは三々五々部屋に戻り、宿の広間が静かになった。アンヌは厨房に下がり、透は皿を片付けていた。
老人が透のほうを見た。
「坊主」
低くしわがれた声だった。
「お前さん、人にものを渡すのは上手いみたいだな」
透は手を止めた。
「ええと」
「見ていたよ。皿を運ぶ手の傾け方客の前に置くまでの距離引き上げるときの間合い。あれはな、客にとってはわからないけれど訓練を積んだ者にしかできない動きだ」
「そんな大したことでは」
「いや大したことだ」老人は目を細めた。「だがな坊主、もう一つ教えとく」
彼は革のジャケットの内側から皺だらけの煙草入れを取り出した。中身は煙草ではなく、乾いた葉だった。彼は葉を一つまみ取り、暖炉の火に投げ入れた。葉は一瞬青い小さな炎を上げて燃え、消えた。
「人にものを渡すのが上手いってのはいいことだ。だがな、本当に難しいのはそれじゃない」
「では何ですか」
「自分から自分への引き継ぎ、だよ」
老人は楽器の弦をぽろん、と一度だけ鳴らした。
「昨日の自分が今日の自分に何を渡しそびれたか。受け取りそびれたか。気づかぬまま積み上げると人はやがて自分が誰だったかすら、忘れちまう」
透は皿を持ったまま立っていた。
老人は続けた。
「そして自分の代わりに覚えていてくれている誰かのことも、忘れちまう」
透は何も言えなかった。
言えなかったが、皿を置く手がほんの少しだけ震えた。
皿が木のテーブルに当たる音が彼自身の予想より少し大きく響いた。彼は咄嗟にもう一枚の皿で音を上書きするように二枚目を素早く置いた。
ヘルマンはそれを見ていなかった。あるいは見ていたかもしれないが、見ていない振りをしていた。
彼はもう一度弦を鳴らした。今度の和音は、暗い色の重い音だった。それから言った。
「ま、坊主にはまだ早い話か」
「あの、お名前を伺っても」
「ヘルマン。流しの吟遊だ。明日には宿を出る」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことを言ったか」
ヘルマンは笑った。それからしばらく黙って暖炉を見つめた。彼の目の中に火が二つ、小さく映っていた。
「坊主」
ふたたび、低い声がした。
「お前さん、ここの人間じゃないだろう」
透は皿を持つ手を、もう一度止めた。
「俺は流しでなこういう商売をしていると年に一人や二人はお前さんみたいなのに会う。服が違う。動きが違う。物の数え方が、こっちの誰とも違う。お前さん、たぶんものすごく遠くから来た」
「ええ」
「まあ慣れな。逃げ場はないからな、たぶん。逃げ場がないことを認めるところから新しい家ってのは出来始めるんだ」
ヘルマンはそう言って楽器を膝に置いたまま暖炉を見た。
透は慣れろ、という単語を、自分の身体の中で何度か噛み砕いた。慣れる。それは、彼が一番得意な動作だった。コンビニの最初の三日で、彼は「慣れる」を職業にした。慣れて、波風を立てず、痛みを箱の奥にしまう。彼の人生の戦略はずっとそれだった。
その戦略がここでも通用するということが彼を安心させ同時にほんのわずか、彼を不快にもさせた。
不快、という単語に名前を付けたのは初めてのような気がした。彼は名前を付けた瞬間それを箱の奥にしまった。
透はその夜のあと長いあいだ、ヘルマンの言葉を箱の奥にしまった。
箱の奥には両親が残したものと葵に何も渡せなかった五年が、すでに眠っていた。ヘルマンの言葉は、その上に置かれた。新しいものは奥へ。それが彼の動作だった。
彼はその仕草が自分の人生にとってどんな意味を持っているのか、まだ気づかないでいた。
その夜の納屋で、彼はもう一度夢を見た。
夢の中で、誰かが彼の名前を呼んでいた。
「お兄ちゃん」
若い、しかし子どもではない声だった。
透はその声の主を、夢の中で何度も振り返って見ようとした。だが振り返るたびに、声の主は彼の背中の側にずれていった。彼の身体が回るのと同じ速さで声も回り、だから彼はいつまでも声の主を見ることができなかった。
最後に声は近くまで来て、彼の耳元で囁いた。
「お兄ちゃん私、今日も話しに来たよ」
彼は目を覚ました。
納屋の天井の隙間から二つの月の弱い光が差し込んでいた。
彼の頬は濡れていた。
彼は誰の名前も思い出せなかった。
思い出せないことが彼を藁布団の上で長く眠らせなかった。
眠れない時間が夜明け前の鶏の声まで続いた。
鶏が鳴き外で馬が一度いななき、宿屋の階下で誰かが起き出す音がした。
透は身を起こし、藁屑を払った。彼の手のひらに、藁の一本が小さく刺さっていた。彼はそれを抜いて、捨てた。
新しい一日が始まろうとしていた。




