第2章 刺された夜と、見知らぬ天井
次に意識が浮かんだとき、頬の下にあったのは藁だった。
藁の匂いと、家畜の体温が遠くで混じる土の湿気。
透の知っているどんな天井でもない、太い梁が斜めに走る木の屋根。
その上で蝋燭の光が二つ、ゆっくり揺れていた。
頭の芯がじんと痺れていた。腹の上に手を当てると、布の感触があった。寝間着のような粗い亜麻の布。その下に、わずかな引き攣れがあった。痛みはない。だが皮膚が新しく塞がったばかりだという妙な記憶だけが、指先から伝わってきた。
透は数回まばたきをした。蝋燭の光が鉄の燭台の上で揺れている。電気の光ではない。電球でもない。彼の知っている光ではなかった。
身を起こそうとして、起こせなかった。手足が彼自身の手足のようでありながら彼の知っている長さではなかった。腕が、彼が覚えているよりも細い。掌が小さい。指の長さが揃いすぎている。透は手のひらをひっくり返し、よく見ようとした。
どう見ても自分の手ではなかった。
正確に言えば、自分の手だが自分の手の十年前の手だった。
扉の外で足音がした。木の床を踏む靴底の音。靴の底が硬く釘が打たれているのか、足音が乾いている。透は身体を強張らせた。
扉が開いた。
入ってきたのは四十くらいの女だった。腰回りが豊かで、手にぬるい湯気の立つ陶器の椀を持っていた。エプロンが油で汚れていて、髪を後ろで一つに束ねている。
「気がついたかい」女は驚かなかった。「三日寝てたよ、坊主」
透の口は乾いていた。彼は水を求めるかわりに、言葉を選ぶことに失敗した。
「あ、あの」
「街道脇でうつ伏せに倒れてたの。馬車屋がうちの宿まで運んできてさ。腹を抱えてたから刃物にやられたんだろうって思ったんだけど傷が、ね」
女は椀を彼の枕元に置き藁を一束、彼の頭の下に詰め直した。
「綺麗に塞がってんだよ。新しい傷の痕はあるんだけど出血した跡もない。神官様が通りかかってくれてさ〈治癒〉一回かけたら止血して、あとはあんたの体力で。三日眠ってたよ」
透はその一文の中の、いくつかの単語を理解できなかった。
神官。治癒。〈 〉でくくられた発音。彼の言語が、女の言語と一致しているはずなのに単語の指す中身が一致していなかった。日本語に聞こえるのに日本語ではなかった。
「あの」彼は同じ単語をもう一度発した。「ここは」
「はい?」
「ここはどこですか」
「ヴァルナンの北、ハイネスト街道沿いだよ。坊主、頭打ったかい?」
「ハイネスト」
「うちは『梟亭』。アンヌって呼んでくれていいよ。あんた、名前は」
「真島透」
彼は反射で言い、言ってから自分の名がこの空間の中でひどく異質に響くのを感じた。アンヌは「マジマ・トオル」と二音節ずつ繰り返し、何度か頷いた。
「珍しい名前だね。東の海向こうから来たのかい」
「東の海」
「あの方角の人らだろ、変わった名前なのは」
透は答えなかった。代わりに左の指で右の手首の脈を数えた。脈はあった。彼の脈だった。だがその腕は彼の二十五歳の腕ではなかった。
「お粥を食べな。食べたらあんたの服とか、持ち物の話しよう」
アンヌは陶器の椀から木の匙で粥を掬い、彼の口元に運んだ。透は反射で口を開け、飲み込んだ。粥は塩気が薄く麦の粒が残っていて、舌の上でほろほろ崩れた。彼が知っているどんな粥とも違う味だった。
アンヌは粥を半分ほど食べさせると、薪をひとつ暖炉に放り込んでから出ていった。木の燃える匂いが部屋にゆっくり広がる。電気のない場所で、火だけが光と暖を担っている。透はそれをぼんやりと見ていた。彼が知っている火は、コンビニの調理用フライヤーの中で揚げ物を作る火だった。あれは光を出さなかった。火は油の中で姿を消し、油の温度になって帰ってきた。今彼の目の前で爆ぜている薪の火は、姿のある火だった。
姿のある火を、彼は久しぶりに見た。
最後に見たのはいつだったか。
両親の家の風呂釜だ、と思い出した。古い家で、ガスではなく薪で焚く湯沸かしが残っていた。父はそれを「贅沢な無駄」と呼びながら大事に使っていた。父が亡くなったあと、葵を連れて引っ越したアパートには、もう薪の火はなかった。透はそれを思い出してから思い出したことを箱の奥にしまった。彼の頭の中の動作は、レジ裏の在庫整理に近かった。新しい記憶は奥へ。古い記憶は、もっと奥へ。
アンヌが部屋を出ていった後、透は震える手で自分の額に触れた。それから髪を掴んだ。長さも質感も、彼の知っている自分のものではなかった。
壁に小さな手鏡が掛かっているのが目に入った。透は数回起き上がろうとして失敗し、四度目で身体を半分起こした。鏡まで這って手を伸ばす。
鏡の中にいたのは十七、八の少年だった。
透の目だった。透の鼻だった。だが顔のそれ以外は十年若い、自分が高校に入ったばかりの頃の顔だった。頬がまだ柔らかく、顎の線が定まっていない。彼は鏡を見つめた。鏡の中の少年も透を見つめ返した。
「夢だ」
彼は呟いた。
だが夢の中で人は、夢だと呟かないものだった。
視界の隅に、白い文字が浮かんでいた。
透は最初それを、目眩の一種だと思った。光の残像。だがまばたきをしても消えなかった。それどころか、見ようとすると焦点が合った。
〈職業:労務生〉
〈レベル:一〉
〈固有技能:作業習熟(初級)/職務記憶(特殊)〉
〈魔力:-〉
〈備考:転位者〉
透はそれを十秒、見つめた。
文字は彼の網膜のすぐ手前に浮いているようでありながら目を閉じても消えなかった。彼が「もう一度見せて」と思うと現れた。「消えて」と思うと消えた。
労務生。
彼はその日本語を、辞書の中で一度も見たことがなかった。だがその単語が指している中身は、彼の身体がよく知っていた。労務生。労に務める者。働き続ける者。アルバイト。──そう。
作業習熟。職務記憶。
彼はゆっくり自分の腕を撫でた。
転位者、と書いてある。
転位、という単語を、彼はもう一度頭の中で繰り返した。それは「位置を変える」という意味の単語だった。
強盗の刃が腹に刺さった瞬間の冷たさが、まだ皮膚の表面に残っているような気がした。だがその瞬間とこの藁の感触のあいだに五年か六年か、何かの時間が抜け落ちている気がした。
彼は試しに視界の文字に向けて、考えた。
〈──ステータス〉
浮かんだ単語が反応した。先ほどよりも詳細な情報が並んだ。
〈労務生:第二次産業以前の社会において、雇用主の指示のもと反復的な作業を遂行する者の総称。攻撃魔法・回復魔法は習得不可。固有技能の発現は経験値に比例〉
〈作業習熟(初級):単純作業の効率を上昇させる。重複作業に補正〉
〈職務記憶(特殊):本来この世界に存在しない作業手順を再現可能な状態で保持する。希少特性〉
透はその「希少特性」の四文字を、長く見つめた。
彼の身体に染み込んだコンビニの動作。引き継ぎノートの書き方先入れ先出しの順序レジの開け方揚げ物の温度管理、クレーム対応の声色の作り方。それらがこの世界では希少だと、視界の文字は告げていた。
ふっ、と乾いた笑いが彼の口から漏れた。
彼の知る限り、彼の前世での社会的価値は、最低賃金にやや色を付けた程度の時給で換算された。彼の能力に「希少」という二文字を付けた書類を、彼はこれまで人生で一度も見たことがなかった。
こんな冗談みたいな状況の中で、初めて彼の労働が評価された。
泣くべきか笑うべきか、彼はまだ判断できなかった。
判断できないまま視界の文字を消した。文字は素直に消えた。素直に消えたあと、彼は天井の梁を見つめた。
アンヌが戻ってきた。彼女は透の傍に膝を折り彼が倒れていたときに着ていたという衣服を、布に包んで渡してきた。
「これだよ。変な服でね。お国がわからない」
透は包みを開いた。
出てきたのは彼の知っているコンビニ「ステラマート24」の制服だった。
胸のロゴは血で黒く染まり、生地の腹部分には大きな裂け目があった。彼が刺されたあの夜の、まさにあの服だった。アンヌの言うとおり、傷の跡は布の上には残っているのにそれを着ていたはずの彼の身体には残っていない。あるのは薄い古傷だけだった。
ポケットの中身を確認した。
コンビニの入店音を奏でるためのキーホルダーの形をした名札。本部から配られたボールペン。そして二つ折りにされた、業務用の小さな引き継ぎメモ。
彼はそのメモをゆっくり広げた。
鉛筆で、彼自身の字で、「相方欠勤につき外周巡回は店内モニター視認に変更」と書かれていた。
ノートの本体は、店のカウンターの上に置いたままだった。だがその日の彼の最後の一行が、なぜかメモのほうにも書き写されていた。彼は書き写した記憶がなかった。
透はそのメモを見つめた。それから胸の高さで握り、額に押し当てた。
「神様」
言葉は祈りの形を取らなかった。
「これは何ですか」
その日の夕方宿の階段を下りた透は誰の手も借りず、震えながら一人で歩けることを確認した。脚は、彼が高校生の頃と同じくらいの軽さだった。階段の角度に対して、彼の重心が今までと少しずれていた。何度も手すりを掴んだ。
酒場兼食堂の広間に出ると客が三組ほど居て、テーブルに肉と粥と硬いパンが並んでいた。中央の暖炉で薪が燃え、煙が低い天井に渦を作って消えていた。客のひとりが彼を見て、すぐ目を逸らした。彼の服がよほど奇妙に見えるのだろう、と透は思った。
窓の外で、空が紫だった。陽は地平に半分かかっておりその横に月が二つ、薄い円で浮いていた。
二つ。
透はその窓の前で立ち止まった。
月が、二つあった。
紫の空に白に近い薄黄色の小さなものともっと薄い灰色がかった大きなものとが、少し離れて並んでいた。雲ではなかった。星でもなかった。月だった。
彼は窓に額を寄せ両方の月を順番に見て、それから自分の手を見た。
「ここは、地球じゃないんだ」
小さく、口の中で呟いた。
それは否認や驚きより先に、彼の中に納得として落ちてきた一文だった。地球ではない。だから労務生という職業がある。だから治癒という言葉が魔法の意味で通じる。だから刃に刺された傷が三日で塞がる。だから彼の身体が十年若い。
理屈は繋がっていた。
理屈が繋がっていることに、彼は安心した。
安心したのは理屈の通った場所では彼の引き継ぎノートが意味を持つかもしれないからだった。
アンヌが彼の隣に立った。
「飯食べな。坊主、目覚めの祝いだ。お代はいらないよ」
「あの、僕は」
「言わなくていいさ。あんた、訳ありなのは見ればわかる」
彼女は彼を席に座らせ、皿を運んできた。粥よりは固い麦の塊のようなパンと油の浮いた肉のスープと、小さな酸っぱい漬物のようなもの。
透は両手を膝に置いて、目を閉じた。
それから「いただきます」と言った。
言ってから相手が誰なのか、自分はわからなかった。
パンを千切って口に入れた。固かった。固いが、味はあった。固いものを食べているという事実そのものが味の代わりに胃に届いた。彼は気づいたら泣いていた。涙が出ているということに、出てから気づいた。
理由はわからなかった。
腹を刺された日の最後に思ったのは「妹に弁当の礼を言いそびれた」ということだった。
ここはもうその妹のいる場所ではないはずだった。
それなのに固いパンを噛みしめながら透は妹のことを思って泣いていた。葵が朝に持たせた、開けないままの弁当箱を思って泣いていた。涙の温度は、見覚えのある温度だった。彼の身体の中で、五年眠っていたものの温度だった。
そしてその温度に、彼は名前を付けることができなかった。
その夜透は自分に与えられた納屋の藁布団の上で、天井を見上げて眠れなかった。
月が二つ、煤けた天窓越しに薄く光っていた。
彼は気づいた。
あの最後の意識が消える瞬間誰かが「お兄ちゃん」と呼んだ。
あの声を、彼は知っていた。
ここではないどこかで誰かが、彼を呼び続けていた。
彼は寝返りを打ち、藁の中に顔を埋めた。
名前を呼ぶ声は、もう聞こえなかった。
だが聞こえないという事実がまだひと続きの聞こえていた何かを終わらせたという意味なのかただ眠っているのか、彼にはわからなかった。
眠れないまま夜が更けていった。
新しい世界の、最初の夜だった。




