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引き継ぎノートの勇者 ―異世界コンビニ五年目、世界のシフトを受け取れ―  作者: もしものべりすと


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第1章 夜勤、二十三時五十四分 ―引き継ぎノート―

その夜真島透が引き継ぎノートに書いた最後の一文は「異常なし」だった。


その四十分後に彼は腹を刺され、そのまま五年眠ることになる。


だが彼自身も、まだそれを知らない。


ノートのページに油性ペンの匂いがほのかに残っていた。


蛍光灯の白い光が天井から降りてくる。光は商品棚の正面で一度跳ね返り、レジカウンターの上に薄く広がる。深夜のコンビニには影というものがほとんどない。あるのは光と、光の濃淡だけだ。


透はカウンターの奥でノートを開いていた。A四の罫線に、退勤するばかりの遅番がボールペンで書きつけた文字が並んでいる。


「取り置き三件。冷蔵棚の右奥。名前と引換番号は付箋」


「明日朝六時に冷凍便、八時に常温便。冷凍は通常の倍量。発注のミスかもしれない」


「二番レジ稀にレシート噛む。詰まったら端末横の小さい蓋を開ける」


「二丁目の路地で午後十時頃に喧嘩。今のところ警察来てない。外周巡回は二人で」


透は項目ごとに目を通して指で押さえ、それぞれの右端に小さな確認印を押した。判子は赤く滲み「真島」と読める。彼はそのあと自分の欄を書き始めた。


時刻は二十三時五十四分。あと六分で日付が変わる。


「真島さん」


彼の隣に立っている細身の男子大学生が背後から覗き込んだ。


「真島さん引き継ぎ毎回詳しすぎですよ。誰も読まないですって」


「読まれなくても書きます」


「マジ真面目」


「マニュアルなので」


透の声は低く平らで、湯のなかから取り出したばかりの皿のように温度がなかった。彼は書き終えた頁の角を軽く折り、ノートを閉じた。背表紙に「ステラマート24 引き継ぎ帳・第七十二冊目」と印字されている。透がこの店で書き継いできた七十二冊目だった。


吉田はあくびをして帰り支度を始めた。透はレジ二台を立ち上げ直し自動釣銭機の中身を点検しコーヒーマシンのミルクタンクの残量を見て、廃棄予定のおにぎりを順番に値引きシールで確認した。手は止まらない。彼の身体はもう五年この一連の動作で出来ていた。


ガラス戸の向こうを若い男女が早足で通り過ぎる。男の声が低くなにか言い、女が笑う。透の視線はその二人を一秒だけ追い、すぐに棚に戻った。


ポケットの中でスマートフォンが小さく震える。彼はカウンターから少し下がって画面を覗いた。


妹からだった。


〈今日は何時に帰る? 今日お母さんの誕生日だよ〉


透は画面を二秒見た。それから親指で短い返信を打ち、送信した。


〈いつも通り〉


母の誕生日には触れなかった。触れなかったことを自分に説明する言葉も彼は持たなかった。


画面はすぐに暗くなった。葵からの返信はしばらく来なかった。


入口のセンサーが鳴る。来店音は二十二音から成る短い旋律で、透はもう何千回も聞いていた。


入ってきたのは中年の男だった。スーツの上に黒いコートを羽織り、革鞄を抱えている。後頭部が薄く、首回りに脂肪が乗っていた。常連の黒沢だ。透が最も会いたくない種類の客のひとりだった。


黒沢は弁当の棚まで行きしばらく腕を組んで眺め、結局なにも取らずにレジに来た。手にあるのは缶コーヒー一本と、レジ横で売っているガムが一個。透はバーコードを読み取り合計を読み上げた。


「二百三十円になります」


黒沢が小銭を放るように差し出した。受け皿に三百円が音を立てて並ぶ。透はそれを掬いながら釣銭を渡し、レシートを差し出した。


黒沢はレシートを受け取って一秒見つめ、それから目を上げた。


「印字がな」


「はい」


「曲がってんだよ。お前の店、何回も言ってんだろ。レシート曲がって出てくるって。なんで直さねえんだ」


「申し訳ございません」


「申し訳ございませんで済むと思ってんのか」


「すぐ点検いたします」


「『すぐ点検いたします』」黒沢は透の言葉を真似た。「お前らそれしか言えねえのな。マニュアルマニュアルってさ。人間の口じゃねえだろそれ」


透は頭を下げた。背を曲げ、目線を黒沢の腰のあたりまで落とした。彼の表情は動かない。眉も口角も瞼も。それは怒りを抑えているのではなかった。最初から怒りが起動していなかった。


店内に他の客が三人いた。ひとりは雑誌の前で立ち読みをしていて、ふたりは菓子の棚を見ていた。三人とも黒沢の声に身を硬くしているのが視界の端に映った。


黒沢は十五分レジ前に立ち続けた。レシートの曲がり、店員の態度、コンビニ業界の堕落、そして彼の若い頃の話。同じ言葉が三度繰り返され、四度目に違う言葉に置き換わり、また戻る。透はその間頭を下げ続けた。背中の角度を保ち、相槌を打ち、ときおり「申し訳ございません」と「すぐ確認いたします」を交互に発した。


吉田が裏で着替えを終えて出てきた。彼はカウンターの内側に入りかけて黒沢を見、黒沢が透を見ているのを見、すぐに目を逸らした。彼は出入り口のほうへ回り、透のほうにだけ「お先にっす」と小さく言って店を出た。


黒沢は最後にカウンターを軽く拳で叩いた。


「次は本部に通報するからな。覚えとけ」


「はい」


「『はい』じゃねえよ。返事じゃねえよそれは」


「失礼いたしました」


黒沢は鼻を鳴らして店を出た。来店音が逆再生のように二十二音鳴り、ガラス戸が閉まった。透はそのまま五秒、頭を下げた姿勢を保った。それから腰を伸ばした。


雑誌の前にいた客が小さな声で言った。


「店員さん大変ですね」


透は微笑んで返した。


「いえ。お気遣いありがとうございます」


微笑みは滑らかで欠けがなかった。彼は雑誌の客のところまで歩いていきレジに連れて戻り、会計を済ませた。動作は途切れなかった。


零時を回った。


透はカウンターの内側に戻り、引き継ぎノートをもう一度開いた。「外周巡回は二人で」と書いてある。だが今店内には透ひとりしかいない。深夜帯の相方は二十三時に体調不良で休むと連絡があり、本部から代わりの応援は来なかった。


彼はノートの自分の欄に、ボールペンで一行追加した。


「相方欠勤につき外周巡回は店内モニター視認に変更」


書き終わってから彼は短く息を吐いた。空気が顎の下で輪を作って消える。彼はノートを閉じ、背表紙の「七十二」を指先で触れた。


書きながら思い出すのはいつも同じことだった。


最初の引き継ぎノートを彼に渡した先輩は、もう辞めていた。その先輩はノートの最初の頁にこう書いていた。


「読まれない引き継ぎなんてない。読む人がいないだけ」


透はそれを五年覚えていた。覚えているのにその意味を一度も自分に向けて使ったことはなかった。


雑誌コーナーに新しく一冊、薄い本が入っていた。表紙に女性の写真があり、母の特集と書いてある。透はその棚の前を通ったとき二度視線を戻し、二度すぐに棚から離れた。離れたあと、彼は飲料の冷蔵棚のガラスを布で拭き始めた。指紋が一つ二つ、ガラスから消えた。


ポケットでスマートフォンが鳴らない。葵からの返信はまだ来ない。


透は冷蔵棚の前にしゃがみ奥に手を入れて、賞味期限の近いペットボトルを手前に出した。最近納品されたものを奥に押し込む。先入れ先出し。彼が一番最初に教わった仕事だった。手前から奥へ、奥から手前へ。古いものから順に、決して逆ではない。


それは商品にだけ通用する原則だった。彼の人生の他の場所ではずっと逆をやってきた。古い悲しみは奥に押し込み、新しい毎日で表面を整える。だが彼はそれを意識したことがなかった。意識したことのないものを彼は変えようがなかった。


ペットボトルの最後の一本を奥に入れたとき、透のスマートフォンが一度だけ振動した。葵からの返信ではなかった。シフト管理アプリからの自動通知だった。


「明日の出勤時間:十六時。シフトリーダー登録:真島透」


透はそれを見てなんの感慨も持たずにロックを切った。彼が「リーダー」と呼ばれるようになって二年が経つ。本部からは時給がほんの少し上がり、責任の量は給与の何倍にもなって増えた。新人指導、クレーム一次対応、店長不在時のレジ締め。彼が拒んだことは一度もない。拒む口調を彼は持っていなかった。


店内のBGMが切り替わった。深夜帯はアンビエントの軽い音が流れる。歌詞のない、誰かを思い出させない種類の音楽だった。透はそれを五年聞いていた。聞いていたが覚えていなかった。記憶に残らない音楽の中で、彼は記憶に残らない動作を続けていた。


雑貨の棚の前を通ると、一番下の段にビニール袋に入った安物の絆創膏のセットがあった。透は屈んで前出しを行い、立ち上がるときに右の膝が小さく鳴った。五年。彼の膝も五年分の動きを覚えていた。


店内のモニターに目をやる。外周の様子がぼんやり映る。深夜の駐車場には車が一台だけ、店から少し離れた場所に停まっていた。エンジンは切れているように見える。誰も降りてこない。透はそれを五秒見て、いつもの停まり方の一種だと判断した。タクシー運転手が休憩で停めることがよくあった。彼は視線を戻した。


零時十五分。


雑誌の前にいた最後の客が会計を済ませて出ていった。来店音が二十二音、逆に二十二音。店内に透ひとりになった。彼は深く息を吐いた。


ひとりになった瞬間彼は微笑みをやめた。


微笑みをやめたが、表情はそれほど変わらなかった。彼の顔の筋肉は微笑みと無表情の差を長いあいだに小さくしてしまっていた。


カウンターの裏に置いてある自分の鞄を見る。鞄の口から葵が朝に持たせてくれた弁当箱の角がのぞいていた。透はそれを開ける気がしなかった。葵が作ったものは五年前からぜんぶ彼にとって少し痛むものだった。痛むから封を開けない。封を開けないから弁当はいつも家まで持ち帰り、葵の前で食べたふりをして洗うことになる。葵は気づいているはずだった。気づいているのに何も言わない、ということを透も気づいていた。


彼は鞄を見つめてから視線を戻した。


透が初めて「他人行儀だ」と葵に言われたのは両親の四十九日の翌週だった。葵は十一歳で、まだ祖父の家に身を寄せる前の、自宅の畳の上にいた。彼女は兄に向かって「お兄ちゃん、なんでお客さんみたいな話し方するの」と言った。透はそれに「ごめんね」と答えた。葵が何を求めていたのか、彼は分かっていた。分かっていたが、それに応える言葉が彼の中に在庫されていなかった。在庫していないものは出庫できない。彼の身体はその比喩で出来ていた。


それから五年経ち、葵は十六歳になった。透は二十五歳になった。葵はもう「他人行儀」とは言わなくなっていた。代わりに、聞かないことが増えた。透の仕事のこと休日のこと夢のこと。葵は聞かなくなり、透は答える機会を失った。失われたのか、自分から手放したのか、彼にはまだ判別できなかった。


零時二十五分。


窓の外で車のエンジン音が一瞬止まった。停車したというよりは、止めて走り出さなかったという音だった。透は顔を上げた。


入口のセンサーが鳴った。


それは二十二音の旋律ではなかった。最初の音だけが鳴って後は鳴らなかった。誰かが入口を開けたまま止めている。


透はカウンターの内側へ戻ろうとした。


店に入ってきたのは目出し帽を被った男だった。手に黒い柄の包丁を握っていた。男の後ろからもうひとり別の客のように見える人物が入ってきて、すぐに背後で止まった。あとから入ってきたのは黒沢だった。たった今店を出たはずの黒沢だった。


黒沢の顔は青白く、口が半分開いていた。彼は目出し帽の男を見てそれから店内を見渡し、自分の足が動かないことに今初めて気づいたような顔をした。


透の身体は動いていた。考える前に動いていた。彼はカウンターの外に出て、黒沢と目出し帽の男のあいだに歩いて行った。背中で黒沢を、視界で男を捉えた。


「お客様」


彼は言った。


「お客様を、傷つけないでください」


声は店員の口調だった。怒りも恐怖も入っていなかった。マニュアルの何頁目かに書いてある一行を読み上げているような言い方だった。


男はそれを聞いて、一瞬迷ったように見えた。だが迷いは長くなかった。包丁が透のほうへ動いた。透は身体を黒沢のほうへ寄せて、刃の前に自分を置いた。


冷たい衝撃が、腹のすぐ上に来た。冷たさは一秒で熱に変わり、熱は二秒で痛みに変わった。透の身体は前のめりに崩れた。倒れる視界の端で、黒沢が自分の左胸を押さえていた。彼の唇が「うっ」と動き、膝が崩れた。中年男が床に倒れる。


透の頭の中で、一つだけ違う音が鳴った。


遠くでサイレンが鳴っていた。


それは外から来る音ではなかった。彼の頭の内側で未来から鳴っているような遠さだった。


誰かが「お兄ちゃん」と呼んだ。


若い、しかしもう子どもではない女の子の声だった。透はその声を知っているはずだった。だが声と名前が結びつく前に視界が黒くなった。


最後に彼が見たのは引き継ぎノートの背表紙だった。カウンターの上に置いたまま開いた頁が蛍光灯の光を受けて白く光っていた。


彼の最後の一行がそこに見えていた。


「相方欠勤につき外周巡回は店内モニター視認に変更」


そのすぐ下に彼が書かなかった一行が、まだ空白で残っていた。


──店は静かになった。


来店音が反転して二十二音ガラス戸の閉まる音、それから何も鳴らなかった。


店内の防犯カメラだけが、変わらず録画を続けていた。録画は黒沢が床に倒れて動かなくなる様子と男が金庫に手をかけられず逃げ出す様子と透がカウンターの外で仰向けに倒れて腹を押さえた両手の指の隙間から赤いものがゆっくり広がっていく様子を、機械的に記録した。


そしてサイレンが本当に近づいてきた。


雑誌コーナーの薄い本の表紙の女性が、誰のものでもない笑顔のまま棚の上で蛍光灯の光を浴び続けていた。

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