第21章 真実を掘り当てる
ガルディアが咆哮を、止めた。
彼の咆哮の代わりに謁見の間に降りたのは痛いほどの、静けさだった。
透の左手のノートのページに書かれた〈葵〉と〈ごめん〉の二文字が、ガルディアの目の中で薄く像を結んでいた。
彼の口が、最後に開いた。
「俺は誰からも、引き継いでない」
ガルディアの声は、低く震えていた。
「俺は自力でここまで来た」
「俺が、世界だ」
彼はそう、叫んだ。
だが声の中に初めて震えが、混じっていた。
震えは彼の皮膚の下で、広がっていた。
変容した装甲の亀裂のような線が彼の身体の表面に、浮かび始めていた。
透はその亀裂を、見ていた。
見ながら彼は深く息を、吸った。
吸った息で彼は言葉を、整えた。
「いいえ」
彼の声は、静かだった。
五年前のコンビニの店員の角度ではなかった。
それは彼が初めて自分の身体の中で、整えた声だった。
「あなたも、引き継いでいる」
ガルディアの目がわずかに開いた。
「あの夜」
透は続けた。
「強盗の刃から自分を庇った僕の、死を」
「あなたは三十年間心の奥に、しまったまま生きてきた」
「受け取りも、渡しもせず」
「だからあなたはずっと、あの夜のレジ前から動けていない」
ガルディアの身体が一瞬揺らいだ。
彼の片肩がわずかに落ちた。
それは前世のあの夜彼がレジを離れた時の見覚えのある、あの片肩の落ち方だった。
透はそれを、見た。
見てもう一度口を、開いた。
「僕も、同じでした」
「両親の死を僕も、五年間しまい続けた」
「だから僕はあなたを、倒せる」
「同じ場所にいた者にしかもう動けと、言えない」
ガルディアの変容した目が薄く揺らいだ。
彼の口が、震えた。
震えた口から低い声が漏れた。
「やめろ」
「やめません」
「やめろと、言ってる」
「あなたは五十二年間自分の心臓のことを誰にも、話さなかった」
「マジマ」
「奥さんにも子どもにも、同僚にも」
ガルディアの目が見開いた。
透は彼の前世のコンビニのレジで何度かガルディアの財布の中身を、見ていた。財布の中に家族写真が、入っていた。妻と子ども二人の、家族写真。透はそれをレシートを渡す瞬間に視界の隅で、見ていた。覚えていなかったと思っていた。だが覚えていた。
「あなたは家族にも自分の弱さを、引き継がなかった」
「だから心臓が止まった瞬間あなたは家族に何も渡せずこちらに、来た」
「三十年こちらで地位を築いてもあなたの中のあの夜のレジ前の死は、消えなかった」
「消えなかったからあなたは引き継ぎを破壊する側に、回った」
「自分が引き継げなかったものを世界全体から消したかった」
ガルディアの目から涙が一粒、落ちた。
変容した人ならざる目の中から人間の涙が、落ちた。
「やめろ、マジマ」
彼の声は、もう咆哮ではなかった。
「俺は」
「分かっています」
「俺は、もう」
「もう休んでいいんです」
ガルディアが立ち止まった。
彼の触手が急激に力を、失った。
床から伸びていた黒い触手の半分が煙を上げて、消えた。
残った触手はもう攻撃の姿勢を、取らなかった。
ガルディアの変容した装甲の表面が、ひび割れた。
ひびの隙間から彼の本来の人間の皮膚が、見え始めた。
皮膚は五十代後半のしわの寄った、皮膚だった。
それは三十年前にこの世界に来たときの黒沢健司の、年齢の皮膚だった。
透は円の中央で両手を結晶とノートに、置いた。
彼は目を、閉じた。
閉じた瞼の裏で彼は自分の中の五年分の未送の引き継ぎの全部を、束ねた。
父の二つ目の口癖。
母の最後の言葉。
家族で行った最後の旅行。
葵が初めて自転車に乗れた日。
葵の卒業式の、彼の薄っぺらさ。
全部が、束になった。
束はフィオナの結晶と、共鳴した。
共鳴は彼の周りに円を、作った。
円はガルディアの儀式の円と、重なった。
重なった瞬間彼はもう一つの力を、感じた。
それは葵の五年間の、語りかけの全部だった。
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
「お兄ちゃん」
五年分の葵の声が彼の中に、流れ込んできた。
声の全部が彼の力に、変わった。
彼は目を、開いた。
そして両手を円の中央に、突き立てた。
「引き継ぎ完了の儀式」
彼は宣言した。
彼の声は、剣の代わりだった。
剣で振り下ろす代わりに彼は声で儀式を、振り下ろした。
謁見の間の空気が、震えた。
七つの封印鍵がガルディアの足元から離れて円の中央に、向かって舞い上がった。
七つの鍵が円の中央で、整列した。
整列した瞬間鍵はそれぞれの本来の場所へと戻る経路を、見つけた。
古代の引き継ぎ儀式の外形と中身がここで、ようやく再起動した。
ガルディアの変容した装甲が最後の音を立てて、崩れた。
崩れた装甲の中から彼の身体が現れた。
身体は五十代後半の白髪の、痩せた老人だった。
彼の目の中でもう一つの若い男の意識がようやく姿を、現した。
それは三十年前のあの夜心臓発作で倒れた黒沢健司の、本来の魂だった。
黒沢の魂はガルディアの身体の中で三十年自分の死を認めずに、生きていた。
今その魂が自分の死を、初めて受け取った。
受け取った瞬間魂が、震え始めた。
震えながら黒沢が最後に口を、開いた。
「……長かった」
彼の声は五十二歳の中年男の声に、戻っていた。
「やっと終われる」
彼は薄く、笑った。
笑顔は前世のあの店のレジで彼が一度も見せなかった種類の、笑顔だった。
それから彼は崩れた。
肉体はガルディアのまま床に、倒れた。
だが魂はもうそこに、いなかった。
皇帝が玉座の上で目を、見開いた。
彼の目の奥にいた古代王の意識も最後の咆哮を、上げた。
咆哮は長くは、続かなかった。
古代王の意識は世界の引き継ぎ儀式の再起動と共に、消滅した。
皇帝の身体が玉座の上で力を、失った。
彼は玉座に、深くもたれかかった。
本来の皇帝の意識が薄く戻ってきた。
彼は痩せた目で透たちを、見た。
それから彼は目を、閉じた。
閉じたあと彼の呼吸は、まだあった。
世界の魔力収支が、正常化した。
謁見の間の空気の歪みが、消えた。
透の周りの円が薄く青く光ったまま形を、保った。
円は世界と世界の間の魂の橋渡しの経路を、開いた。
透の魂を原作世界の彼の身体へ、送り返す経路だった。
経路は、開いている時間が短かった。
彼は選ぶ、必要があった。
ヴィオラが透のほうへ、駆け寄った。
彼女の頬には土埃と煤と汗が、混じっていた。
「マジマ」
「ヴィオラ」
「行きなさい」
「はい」
「あなたの引き継ぎは向こうに、ある」
透は頷いた。
「マジマ」
「はい」
「最後に教える」
彼女は深く息を、吸った。
「あなたの世界の言葉で、『勇者』って言うでしょう」
「はい」
「私たちの古語では同じ意味の言葉が、別にあるの」
「同じ意味の」
「『フィッカ・トレディン』」
彼女はそれを、丁寧に発音した。
「『受け継ぎ届ける者』」
透の喉が止まった。
「あなたが勇者だった理由は剣でも魔法でもなかった。あなたが引き継ぎを届ける人だったから勇者と、呼ばれた」
ヴィオラの目から涙が一粒、落ちた。
「マジマ・トオル。あなたの本職は世界の創世以来の、根本原理だったのよ」
透はそれを、聞いた。
聞いた瞬間彼の中で長く繋がっていなかったいくつもの線が、最後にひとつになって結ばれた。
リシェルが彼のほうへ、近づいた。
彼女の目から涙が堪えきれずに、流れていた。
「マジマ」
「殿下」
「ありがとう」
「私は」
「私たちはここから先自分たちで、引き継いでいくわ」
彼女は薄く、笑った。
「あなたの方法を、忘れない」
「殿下」
「マジマ、最後にお願いがあるの」
「はい」
「あなたが向こうの世界に、戻ったら」
「はい」
「妹さんに、伝えて」
「はい」
「五年待ってくれてありがとう、と」
「殿下」
「彼女の五年がこちらの世界も、救った」
透は深く頷いた。
バランドが最後に近づいてきた。彼の右肩は、外れたままだった。
「マジマ」
「ギルドマスター」
「ギルドのシフトログ、絶やさんからな」
「ありがとうございます」
「お前のおかげだ」
彼は片手で透の肩を、叩いた。
それから彼は後ろを、向いた。
振り返らなかったのは彼の優しさだった。
透は最後に円の中央に、立った。
彼の周りで、青い光が強く輝き始めた。
彼はフィオナの魔力結晶を強く握った。
結晶が強く光った。
光が彼の身体を、包んだ。
光の中で彼はもう一度覚書ノートの最後のページを、開いた。
〈葵〉
〈ごめん〉
の二文字の下に彼は最後の一行を、書き加えた。
〈もうすぐ帰る〉
書いた瞬間彼の指がノートから離れた。
ノートは彼の手から離れて床に、落ちた。
落ちたノートを、ヴィオラが拾った。
彼女はノートを、両手で抱えた。
「マジマ」
「はい」
「これこちらの世界に、残しておく」
「お願いします」
「あんたが戻った後でこちらの世界の引き継ぎ同盟がこれを、読み続けるよ」
「ありがとうございます」
最後に彼は深く頭を、下げた。
下げる動作は、五年前のコンビニの店員の角度だった。
だが頭を上げる前に彼は声を、出した。
コンビニの店員の声色ではなかった。
彼自身の、本来の声だった。
「ありがとうございました」
それは、別れの挨拶だった。
最大限の、感謝だった。
彼が初めて心からの言葉として、発した、「またのご来店」だった。
光が強く彼を包んだ。
彼の身体が薄く消え始めた。
消える瞬間彼はもう一度円の周りを、見渡した。
ヴィオラが頷いた。
リシェルが頷いた。
バランドが振り返って頷いた。
彼ら三人の頷きの中で、透は消えた。
謁見の間に青い光だけが、しばらく残った。
光はゆっくりと、薄れていった。
薄れた光のあとにヴィオラとリシェルと、バランドが立っていた。
リシェルが手で口元を、押さえた。
ヴィオラが空を、見上げた。
バランドが深く息を、吐いた。
彼らの背後で王宮の外の戦線ではシャヴリエの軍とリオンの自警団と商人組合の馬車と鍛冶屋組合の修理拠点がまだ紙の指示通りに、動いていた。
動きは、止まらなかった。
誰かが消えても引き継ぎが絶えなければ世界は、回り続けた。
それが、透の最後の遺産だった。
リシェルがその光の中に最後に手を、伸ばした。
彼女の手が薄れる透の手に一度だけ、触れた。
触れた瞬間彼女の指の温度が透の指の温度と、混ざった。
混ざった温度は別れの、最初の温度だった。
透の指はその温度を最後の引き継ぎとして、受け取った。
彼女は手を、引いた。
引いてから笑った。
「マジマ」
「はい」
「次に私たちが、会うことはもうないでしょう」
「はい」
「会わなくても私はあなたのやり方を、毎日覚えてる」
「殿下も、お元気で」
「ええ、元気でいる」
彼女は笑顔のまま頷いた。
彼女の笑顔は辺境を回っていた頃の若い、覚悟の笑顔だった。
彼女と並んで立つヴィオラの目に、もう一度涙が滲んだ。
だがヴィオラは涙を、拭わなかった。
拭わずに、彼女はノートを強く抱えた。
ノートの背表紙に彼女が新しく文字を、書き加えた。
〈フィッカ・トレディン・覚書 第一冊〉
書きながら彼女は低く囁いた。
「私の引き継ぎは、ここから」
彼女の囁きは青い光が消えゆく謁見の間の、最後の音だった。




