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引き継ぎノートの勇者 ―異世界コンビニ五年目、世界のシフトを受け取れ―  作者: もしものべりすと


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22/22

第22章 朝、引き継ぎの時間

最初に戻ってきた感覚は頬の右側に当たる、柔らかい光だった。


光は暖かくまぶたの裏で薄い橙色に、揺れていた。


窓の外で雀が、何度か鳴いた。


透は目をゆっくりと、開けた。


白い天井。


白いシーツ。


病院の見覚えのある、形の照明器具。


彼の知っている原作世界の、白だった。


彼はベッドの中に、いた。


口に、酸素のチューブが軽く差されていた。両腕に点滴の管が、まだ繋がっていた。


身体のどこも、動かなかった。


五年眠っていた身体はすぐには、動かなかった。


だが瞼は、開いた。


瞼が開いて視界が世界を、捉えた。


ベッドの脇のパイプ椅子で誰かが、居眠りをしていた。


ショートカットの髪。


膝の上に青い表紙の、薄いノート。


ノートの上に、ボールペン。


彼女の頬がわずかに紅潮していた。寝息が規則正しい。


机の上に、五年分の、「お兄ちゃんへ」と、表紙に書かれたノートが二十冊以上、丁寧に積まれていた。


透は自分の右手を、ゆっくり動かそうとした。


動かなかった。


五年眠っていた指はまだ彼の意志をすぐには、聞かなかった。


だが何度か試した。


試してようやく人差し指の第一関節が、わずかに震えた。


震えを、彼は認めた。


それから十秒彼は息を、整えた。


整えてからもう一度右手を、動かそうとした。


今度は手のひらがシーツの上でほんの数センチ、動いた。


彼はその手をゆっくりベッドの脇のほうへ、伸ばした。


指先が葵の頭の髪の先に、触れた。


触れた瞬間葵が目を、覚ました。


葵の目が最初半分、開いた。


半分の目が机の上のノートを見てそれから自分の膝の上のボールペンを見てそれからぼんやりとベッドの中の兄を、見た。


見て、彼女の目が止まった。


止まったまま五秒、固まった。


固まった目がゆっくり見開いていった。


彼女は声にならない声を、上げた。


喉の奥から空気だけが漏れて形に、ならなかった。


五年待った声は最初の瞬間形に、ならなかった。


彼女は両手で口を、押さえた。


押さえた指の隙間から涙が、落ち始めた。


透は唇を、わずかに動かした。


唇が動いた。


五年動いていなかった唇は最初の言葉を、ためらった。


だが五年分、用意していた言葉だった。


彼は低く囁いた。


「ただいま」


声は、しわがれていた。


五年分の、しわがれだった。


彼はもう一度息を、吸って続けた。


「ただいま葵」


葵が椅子からずり落ちた。


ずり落ちて床に膝を、ついた。


膝をついたまま彼女は両手をベッドの上に、伸ばした。


彼女の手が透の手を、両手で握った。


握った指は、震えていた。


透はその指の震えを五年ぶりに、感じた。


五年前の葵が卒業式の朝彼の親指を噛んだ時の温度を、思い出した。


温度は、まだ消えていなかった。


彼の親指は五年若返って葵の歯の跡は、消えていた。


だが温度は、消えていなかった。


「お兄ちゃん」


葵の声は、震えていた。


「お兄ちゃん」


何度も繰り返した。


透は彼女の指を、握り返した。


握り返す力は、まだ弱かった。


だが握り返した。


彼女がそれを、感じ取った。


感じ取ってもう一度声を上げて、泣いた。


しばらく二人とも何も、言わなかった。


言葉は、必要ではなかった。


五年分の言葉がまだ必要だったがそれは、これからゆっくり出てくるものだった。


今はただ握った指の温度を確認するだけで、よかった。


やがて透がもう一度口を、開いた。


「葵」


「うん」


「お父さんの口癖、覚えてる?」


葵の指がわずかに強張った。


彼女は息を、止めた。


五年間ずっと聞きたかった、最初の質問だった。


透が続けた。


「『無理せず、けど手は抜くな』」


葵の目からもう一粒涙が、落ちた。


「もう一つ覚えてる?」


「覚えてない」


「『家族の中じゃ兄ちゃんが、いちばんしっかりしてるんだから。葵を頼むぞ』」


葵の指が強く透の手を、握った。


「お父さんの、二つ目の口癖だよ」


「うん」


「お母さんの最後の言葉も、覚えてる」


「言って」


「お母さんは出かける朝台所でこう言った。『葵には私のレシピぜんぶ覚えてもらうのがいいかなって。でもまだ早いからお兄ちゃんがしばらくは、覚えておいてね。お母さんが、忘れちゃう前に』」


葵の唇が震えた。


「お母さんは忘れちゃう前に僕に預けたんだ。僕が、しばらく預かることになった。葵が覚えられる年になるまで」


葵が頷いた。


頷きながら声を上げて、泣いた。


「お母さんの味噌汁出汁は煮干しと昆布の、合わせだった。煮物は必ず一晩、寝かせてた」


「うん」


「お父さんが家族で行った最後の旅行は葵が八歳の時の伊豆。お父さんが運転で疲れてお母さんが助手席で、歌ってた。葵が後ろで、眠ってた」


「覚えてない」


「いい。僕が全部、覚えてる」


「うん」


「全部ちゃんと、話すから」


「うん」


「五年分、引き継ごう」


「うん」


「今度はちゃんと」


葵がベッドの上に額を、寄せた。


彼女の額が透の手の甲に、触れた。


彼女はそのまましばらく動かなかった。


動かないまま声を上げて、泣き続けた。


泣き終わるまで透は彼女の頭を、撫でなかった。


撫でなかったのは彼の手がまだ上がらなかったからではない。


彼女が泣き終わるまで彼女の時間を邪魔しないと、決めたからだった。


長く泣いたあと、葵が顔を上げた。


頬は涙で、濡れていた。


だが彼女の目の奥に初めて長く待っていた別の光が灯っていた。


「お兄ちゃん」


「うん」


「やっと話してくれた」


「うん」


「やっとお兄ちゃんが、お兄ちゃんになった」


透は頷いた。


頷きながら自分の頬にも涙が、伝うのを感じた。


彼はその涙を葵の前で、隠さなかった。


葵は震える手で机の上のノートのうち一冊を、取った。


彼女はそれを開いて、透に見せた。


「お兄ちゃんに、見せたかったの」


ノートには五年分の彼女の文字が、並んでいた。


「お兄ちゃん私も書いてたの。お兄ちゃんがコンビニで、書いてたみたいに」


「うん」


「学校行事のこと毎日のことお父さんとお母さんの命日に持っていった花のこと近所のおばさんが届けてくれた料理のこと。お兄ちゃんの身体を看護師さんと一緒に、拭いた日のことお墓参りの日のこと」


彼女のノートのページの右下に毎日日付が、書かれていた。


日付の下に彼女のその日の引き継ぎが整然と、並んでいた。


透はそれを、見た。


見ながら彼は知った。


妹は五年間ずっと引き継ぎノートを、書き続けていた。


送り手として、五年間ずっと。


彼が五年間白紙にしていたページのその下で彼女は五年分のページを、書き続けていた。


「葵」


「うん」


「ありがとう」


「うん」


「五年待ってくれて」


「うん」


「向こうの世界である人が伝えてくれって言ってた」


「向こうの世界?」


「うん」


「夢の話?」


「夢じゃないと思う」彼は薄く、笑った。「でも夢の話と、思っておいて」


「分かった」


「その人がこう言ってた。『あなたの五年がこちらの世界も、救った』って」


葵の目からまた涙が、こぼれた。


「私、救った?」


「うん。葵世界を、救ったんだよ」


「お兄ちゃん」


「うん」


「私、お兄ちゃんのこと引き継いだだけだよ」


「それが世界を、救ったんだよ」


透は葵のノートを、ゆっくりめくった。


五年分の文字が彼の手の中でぱらぱらと、流れた。


ある日付のページに桜の花びらが一枚、押し葉のように挟まれていた。


「これは」


「お兄ちゃんが最初の年の春入院してた病室の窓の外の桜だよ。看護師さんが一枚私に、持ってきてくれた。お兄ちゃんに見せたかったからノートに、挟んでおいた」


別のページには淡い色鉛筆で彼の寝顔が稚拙な線で、描かれていた。


「絵、下手だね」


「うん。私絵、下手だから」


「でもちゃんと、僕の顔だ」


「うん。お兄ちゃんの顔、見間違えたことないから」


彼はその絵の上に、人差し指を軽く置いた。


眠ったままの自分がこの妹に五年間こうやって描かれ続けていたという事実が彼の指に温度を、伝えてきた。


さらにめくるとある冬の日付の下にこんな一文が、書かれていた。


〈今日お兄ちゃんの会社の店長さんが、お見舞いに来てくれた。お兄ちゃんがシフトリーダーで引き継ぎノートをずっと、丁寧に書く人だったって教えてくれた。私お兄ちゃんの仕事ちゃんとした仕事だったんだなって初めて知った。お兄ちゃん、ごめんね。私、知らなかった〉


透はその一文を、長く見つめた。


以前、葵は彼の仕事を「ただのバイト」だと思っていたと言った。


だがその三年目の冬彼女はそれを、訂正していた。


訂正していたことを彼は知らなかった。


知らなかったが葵はノートの中でずっと、彼を見直していた。


透はノートの綴じ目に唇を、つけた。


つけた瞬間彼は五年間の葵の沈黙の重さを、初めて知った。


彼女は五年間彼に向かって語り続けていた。


語り続けながら彼が起きないと知っていた。


起きないと知りながらそれでも、語り続けていた。


それが、彼女の引き継ぎだった。


流れる文字を、彼は両手で抱えた。


抱えた瞬間彼は初めて葵から自分への五年分の引き継ぎを、受け取った。


彼の人生で初めての本物の家族の、引き継ぎだった。


──


数か月後の、ある朝。


退院した透は病院の前の小さな商店街の一角にささやかな食事処を、開いた。


看板にはこう、書かれていた。


〈ステラマート亭 朝食、引き継ぎ承ります〉


朝六時彼は店の表に立て看板の黒板を、出した。


白いチョークでその日のメニューを、書く。


父の口癖を、真似た筆跡で。


味噌汁の出汁は、煮干しと昆布の合わせ。


煮物は前日のうちに煮て一晩、寝かせる。


ご飯は土鍋で、五分蒸らす。


三品の、定食。


それだけ。


それだけだがその三品のすべてが、母の味だった。


葵が店の中から暖簾を、出した。


彼女はエプロンを、つけていた。十六歳の少女が看板娘として、並んでいた。


「お兄ちゃん」


「うん」


「メニュー、書けた?」


「書けた」


彼は黒板を、立てた。


立てた黒板のメニューの上に彼はもう一行小さく、書き加えた。


〈ようこそ。よい一日の引き継ぎを〉


店の壁に、新しい引き継ぎノートが掛けてあった。


表紙には葵の字でこう、書かれていた。


〈真島家の引き継ぎ帳。お父さんとお母さんからお兄ちゃんと葵へ。そしていつかその先へ〉


ノートの最初のページに、透が書いた。


〈父の二つ目の口癖:葵を頼むぞ〉


〈母の最後の言葉:私が、覚えておく〉


〈家族の最後の旅行:伊豆、葵が八歳の夏〉


書かれた文字は五年前彼の前世のあの夜の引き継ぎノートの最後の一文の、続きだった。


〈相方欠勤につき外周巡回は店内モニター視認に変更〉という最後の業務の引き継ぎのその下に本来書かれるべき彼自身の家族への引き継ぎが、いまようやく書き始められていた。


店の奥棚の小さな花瓶の隣に見覚えのない金色の魔力結晶が、飾られていた。


透はその結晶の前を、何度か通り過ぎた。


通り過ぎるたびに結晶はただ金色に、光っていた。


ある朝彼は暖房の温度を確認するために棚の脇を通った時ふと結晶に指を、触れた。


触れた瞬間彼の頭の中でふっと遠い世界の朝市の光景が、一瞬よぎった。


半エルフの少女が、振り返って微笑んだ気がした。


金髪の王女が手を、振った気がした。


老いた吟遊詩人が頷いた気がした。


彼はそれを一秒、感じた。


だがそれも、一秒だった。


彼は静かに首を、振った。


振ってから葵が奥の厨房から呼ぶ声に、応えた。


「お兄ちゃん最初のお客さん、来たよ」


「はい」


彼は振り返った。


カウンターの内側に回り込んだ瞬間店のガラス戸が、開いた。


朝の柔らかい春の光が入り口から差し込んできた。


五年前の深夜のコンビニの白い蛍光灯の光とはまったく、違う光だった。


冷たくも機械的でも、なかった。


柔らかく温かくそれは人の家の、玄関の朝の光だった。


入り口に立っているのは近所の、初老の男性だった。


彼は新聞を丸めて脇に、抱えていた。


「おはようございます」


彼の声は、穏やかだった。


透は深く頷いた。


それから彼は声を、出した。


五年前のコンビニの店員の、声色ではなかった。


誰のものでもない客のためでもない彼自身の、本来の声だった。


家族の、顔で。


妹の、隣で。


朝の光の中で。


「いらっしゃいませ」



(了)

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