第17章 剣を、弟へ
ヴェルダンの北の丘に白い屋敷が、見えてきた。
透がガレスの剣を左の腰に、提げてから十一日目の夕方だった。
丘の麓で、彼は立ち止まった。
丘の上の屋敷の煙突から薄い煙が、上がっていた。
煙が上がっているということは誰かがまだ家の中で火を、焚いている。家督を継ぐべき少年が、生きている。透の中でその事実が、まず確認された。
十一日の旅は、平坦ではなかった。帝国軍の進路を避けて彼らは街道ではなく林の中の獣道を、選んで進んだ。三度、敵の小隊と遭遇した。一度は、ヴィオラの斥候の腕で回り込んで逃れた。二度目は林に身を伏せて彼らが通り過ぎるのを待った。三度目は夜陰に紛れて、川を渡った。川の水は冷たく、ガレスの剣の鞘の中の住所を書いた紙が半分濡れた。透は紙を火の前で、丁寧に乾かした。乾いた紙の文字は、まだ読めた。
彼らは二日に一度しか、まともな食事を取れなかった。野生の木の実川魚、農夫から分けてもらったパン。透の頬は、十一日でさらにこけた。だが彼の目は痩せた身体の中で初めて芯を持った光を、宿していた。
ヴィオラは十一日の旅で頬の色を半分だけ、取り戻していた。彼女の半エルフの耳は屋敷の周辺に敵の気配がないか確認するために、わずかに動いていた。
「敵は、見えない」と彼女が言った。「だが屋敷に人がいつもより、多い」
「家来の方々ですか」
「たぶん。違うのも混じってる気がする」
透はガレスの剣を左の腰から外し、布で包んだ。包んでから彼はヴィオラに頷いた。
「行きます」
「私は、ここに残る。後ろから見守る」
「ありがとうございます」
彼は坂道を、歩き始めた。
屋敷の門は、半分開いていた。
透が門の前で声をかけると、若い女中が出てきた。彼女は透の旅装と布で包んだ細長い荷を見てすぐに奥に、走った。しばらくして戻ってきた女中の後ろに初老の家令が、立っていた。
「マジマ・トオル様、でいらっしゃいますか」
「はい」
「お待ちしておりました。ガレス様よりお手紙が先月、届いておりました」
「手紙」
「『マジマ・トオルという男が私の代わりに何かを届けに来るかもしれない。来た時には弟に必ず、会わせてほしい』と」
透の喉にわずかな熱が、走った。
ガレスは自分が死ぬことを想定していた。想定したうえで透の名前を家に先に、伝えていた。
「弟様は、お元気で?」
「ご病気はございません。ですがお兄様の死をまだご存じありません。風の噂で国境砦の陥落を、聞いていらっしゃいます。けれどお兄様の名は戦死者の名簿に、まだ出ておりません」
透は頷いた。
「私が、伝えます」
彼は応接間に、通された。
応接間の壁にガレスの家紋──二本の剣と開いた書物──が刺繍された旗が、掛けられていた。家紋を見て、透は一礼した。
家令は奥に声を、かけた。
「坊ちゃま」
廊下の先から軽い足音が近づいてきた。
扉が開いた。
入ってきたのは十二歳の少年だった。背は透の胸ほどしかなく髪はガレスと同じ黒で目はガレスより少し、明るい色をしていた。彼の名は、リオンと言った。
「客人?」
彼の声はまだ変声を、迎えていなかった。
「リオン様」
家令が、紹介した。
「マジマ・トオル様。お兄様の、戦友であられた方です」
リオンの目がわずかに動いた。彼は透の腰の革袋に視線を、止めた。
透は椅子から立ち上がった。
それからリオンの前まで歩いた。
歩く距離は数歩だったが十一日分の重さがその数歩に、乗っていた。
彼はリオンの前で片膝を、ついた。
「リオン様」
彼の声は、低かった。
「お兄様の最後を、お伝えします」
リオンは息を、止めた。
透は布の包みを、開いた。
中からガレスの剣が出た。
家紋が刻まれた長い、片刃の剣。
リオンの手が震えた。
震えた手で彼は剣の柄を、握ろうとした。
握る前に透が彼の指を、止めた。
「先に、お話ししてもよろしいですか」
リオンは頷いた。
透はガレスが国境砦の城門で攻城槌をひとりで、引き止めたこと。
ガレスが最後の瞬間まで剣を、構えていたこと。
ガレスが運ばれてきた時まだ目が開いていたこと。
ガレスが最後にこう言ったこと。
「弟に。十二歳だ。家督を、彼に渡してくれ」
そしてもう一つ。
「兄は誇りを持って死んだと、伝えてくれ」
透はそれを、復唱したようにリオンに伝えた。
言葉を、間違えないように丁寧にゆっくりと。
彼はコンビニで客への伝言を伝える時の口調を、使った。
それは彼の前世で何千回と練習した、形式だった。
形式が悲しみを、運ぶ器になった。
器がしっかりしていたから悲しみは、こぼれなかった。
リオンは最初口を、開かなかった。
彼の目だけが透の言葉の一つ一つを、追っていた。
「家督を、彼に渡してくれ」と透が言った時。
リオンの肩がわずかに強張った。
「兄は誇りを持って死んだと、伝えてくれ」と透が言った時。
リオンの右手の指先が、自分の腿を軽く握った。
彼は十二歳だった。
だが家令と村人と家臣の前で子どもらしく、声を上げて泣ける十二歳ではなかった。
彼は聖騎士ガレスの弟だった。
家紋を刺繍された旗の下で生まれ育った、長男の弟だった。
透はそれを目の前で、見ていた。
見ながら彼は自分の前世の十一歳の妹のことを思い出した。
両親の四十九日の翌週。葵は家の畳の上で泣くことを自分に、禁じていた。彼女は兄の前で家族の最年少として泣くべきではない、と判断していた。それは、十一歳の判断だった。
透はそれを、見ていなかった。
見ていなかったから彼は葵に泣かないでいいよと、言わなかった。
今リオンの前で彼はそれを繰り返さない、と決めた。
リオンの目から涙が二粒、落ちた。
だが彼は声を、上げなかった。
彼はガレスの弟だった。
家督を継ぐ家の十二歳の、長男だった。
彼は息を、深く吸った。
吸ってから剣の柄を、握った。
握る指は、震えていた。
だが彼は剣を両手でしっかりと、受け取った。
「マジマ様」
彼の声は、震えていなかった。
「兄の最後の指示を私に、運んでくださってありがとうございます」
透は頭を、下げた。
「私は剣の腕はありません。剣を、運んだだけです」
「いいえ」
リオンが首を振った。
「兄は運ぶ人を信じていました。だから運ぶ人を見つけて最後の指示を託した。あなたが運んでくださったから兄の最後の指示は私に、届いた。あなたは兄の信頼を、運んだのです」
透の目から涙が、こぼれた。
こぼれたが彼はもうそれを、奥にしまわなかった。
リオンの前で彼は十二歳の少年に教えるように自分の涙を、見せた。
涙を見せることが引き継ぎの、一部だった。
家令が応接間の隅で布で目元を、押さえていた。
「リオン様」
透はもう一つ紙を、差し出した。
それはガレスの剣の鞘の内側に彼が挟んでおいたヴェルダンの住所を書いた紙だった。
「これは私がガレス様の住所を忘れないように書いて鞘に、しまったものです」
「忘れないように?」
「私は引き継ぎが得意な人間ではありません。だから書いて、しまっておきます」
リオンはその紙を、受け取った。受け取って彼は紙の文字を、見つめた。
「これいただきます。兄の鞘にもう一度戻して、家の宝にします」
「ありがとうございます」
透はもう一度頭を、下げた。
応接間を出る前にリオンが透の腕を、取った。
「マジマ様」
「はい」
「あなた、これからどこへ?」
「王都へ。リシェル殿下を、奪還しに」
「兄が、お助けしたかった方です」
「私が、助けます」
「私も、行きたい」
リオンの目に涙の代わりに強い光が灯っていた。
透はしばらく考えてから首を、振った。
「リオン様あなたにはまずここを、守ってください」
「ここを?」
「あなたの家には家令の方女中の方家臣の方そして村の方々が、います。あなたは十二歳ですが、もう彼らの主です。彼らを、引き継いでください」
「私が、彼らを?」
「はい。引き継ぎは剣を握ることだけではありません。あなたがここにいること自体が引き継ぎです。村の人々はあなたの顔を見てまだ家があると、知ります」
リオンは頷いた。
頷いてから彼は透の手を、握った。
「マジマ様」
「はい」
「兄の家紋をあなたに、お貸しします」
リオンは応接間の旗のところへ、走った。彼は旗の下に付いていた小さな布の家紋章を、引き剥がした。引き剥がした布を、彼は両手で丁寧に透に差し出した。
「これを持って王都へ、行ってください」
「いただいて、よろしいのですか」
「兄の代わりにあなたが戦ってくださるなら。そして戦いが終わったら必ずここへお返しに、来てください」
「必ず、お返しします」
透は布の家紋を、両手で受け取った。
受け取った布の重さは軽かったが軽さの奥にガレスの最後の声とリオンの十二歳の覚悟が、詰まっていた。
屋敷を出るとヴィオラが林の中で、待っていた。
彼女は透の手の中の布の家紋を見て何も言わずに、頷いた。
透も、頷いた。
二人は並んで丘を、下りた。
透の中でガレスの剣を渡した瞬間に何かが、完成した。
何かが完成したという感覚は彼の前世のコンビニのレジで夜勤の引き継ぎを後任に滞りなく渡し終わった時の感覚と、似ていた。
だが似ていたが重さが十倍ほど、違った。
彼はそれを笑わずに、認めた。
彼の前世の引き継ぎも今夜の引き継ぎも構造は、同じだったのだ。
重さが違うだけだった。
構造が同じであることに彼は誇りを、感じた。
誇りという単語を彼が自分に向けて使ったのは五年ぶりだった。
丘を下りる途中ヴィオラが彼の隣に、並んだ。
「あんた」
「はい」
「中で、何があった」
「家紋を、お貸しいただきました」
「そう」
「リオン様は十二歳のまま十二歳の決意を、しました」
「うん」
「私はリオン様の誇りを運ぶ役目を、もう一つ増やしました」
ヴィオラは頷いた。
丘の途中で彼らは、一度振り返った。
屋敷の煙突からまだ薄い煙が、立っていた。
家令が門のところで二人を、見送っていた。
リオンは屋敷の窓際に、立っていた。
ガレスの剣は、もうリオンの両手にあった。
透の腰にはガレスの剣の代わりにリオンから預かった布の家紋章が革のバンドの中に、納まっていた。
布は軽かった。
だが軽さは、軽さだけのものではなかった。
彼は深く息を、吸った。
息は夕暮れの丘の冷気を、含んでいた。
冷気は彼の前世の二十五歳の冬の玄関先の冷気と、似ていた。
両親が出かけた朝の玄関先の冷気と、似ていた。
父が車のキーをポケットに、入れた朝の冷気だった。
透はその冷気の中で初めて自分に向かって頷いた。
父の二つ目の口癖を、彼はもう思い出していた。
母の最後の言葉も、もう思い出していた。
今夜彼の手の中にないものはただそれを、葵に渡す機会だけだった。
渡す機会を、彼はこれから自分の手で取りに行くつもりだった。
ヴィオラが彼の足音の半拍を、聞いていた。
「マジマ」
「はい」
「足音もう半拍、遅れない」
「治りましたか」
「治った」
彼女は薄く、笑った。
笑った口元に十一日の旅の疲れとそれでも芯の通った彼女の覚悟が、混じっていた。
透も薄く笑った。
五年ぶりに彼は自分の口元の笑いの形を客への角度ではなく誰のためでもない自分自身のためのものとして、感じた。
彼は王都への道を振り返らずに、歩き始めた。




