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引き継ぎノートの勇者 ―異世界コンビニ五年目、世界のシフトを受け取れ―  作者: もしものべりすと


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第16章 啓示

その日透は自分の引き継ぎノートを最初から読み返した。


異世界に来てから彼が書き続けてきた業務メモの全部。


七冊、あった。


一冊一冊、彼はめくった。


一冊目は宿屋の女将アンヌのところで、書いたものだった。


食料倉庫の在庫の整理肉の塩漬けの替え時麦の出納、客の宿泊履歴。書き始めの頃の文字は彼の前世の癖が、まだ強く残っていた。コンビニのレシートのように項目が並び、空白が少ない。だが五十頁進んだ頃から彼の文字は、わずかに緩み始めていた。緩んだのは彼が書いた相手──アンヌとその夫──に信頼を、覚え始めていたからだった。


二冊目は王都に向かう道中の、護衛任務の日誌。三冊目はギルドの裏方として書き始めた、シフトログ。四冊目は、フード店の運営記録。五冊目は王宮の倉庫の、改革記録。六冊目は古代遺跡の祭壇の、写し。七冊目は国境砦の防衛の配置図と、ガレスとの最後の指示の控え。


彼は七冊全部を読み終えるまで夜半まで机の前を、離れなかった。


読み終えて、彼は気づいた。


七冊の中で彼は他人の引き継ぎをすべて完璧に、こなしていた。


アンヌからギルドから王宮からガレスから。


誰の前任の業務も彼の手で後任に滞りなく、渡されていた。


だが自分自身への引き継ぎだけが、五年間白紙だった。


その事実が机の上で、彼を見上げていた。


自分自身への、引き継ぎ。


それは彼が両親の死から自分自身に受け取り直すべき五年分の、未済業務だった。


彼は革のバンドの中の二つに折った紙をもう一度机の上に、広げた。


〈葵〉


〈ごめん〉


〈お父さんの二つ目の口癖を、思い出す〉


〈ガレスの剣をヴェルダンの弟に、渡す〉


四行、書いてあった。


彼はその下に新しい行を、書こうとした。


ペン先が紙に、触れた。


触れた瞬間五年間彼が奥にしまい続けてきたいくつかの記憶が堰を切ったように彼の頭の中に、流れ込んできた。


父の口癖の二つ目を、彼は思い出した。


それは、こうだった。


「家族の中じゃ兄ちゃんが、いちばんしっかりしてるんだから。葵を頼むぞ」


父は笑いながらいつもそれを、言った。


最後に言ったのは両親が事故に遭った日の、朝だった。


父は車のキーを上着のポケットに、入れながらそう言った。


透は当時二十歳だった。


彼は玄関で、父の背中を見送りながら「うん」と、頷いた。


頷いただけだった。


母の最後の言葉も、思い出した。


母は台所で出かける支度を、しながらこう言った。


「葵には私のレシピぜんぶ覚えてもらうのがいいかなって。でもまだ早いからお兄ちゃんがしばらくは、覚えておいてね。お母さんが、忘れちゃう前に」


母は笑いながらそれを、言った。


透は流しで皿を、洗っていた。


背中越しに、彼は「うん」と、頷いた。


頷いただけだった。


両親はその日車で出かけて二度と家に、帰ってこなかった。


透はペンを握る指が震えるのを感じた。


震える指で彼は紙の上に、書いた。


〈父の二つ目の口癖:葵を頼むぞ〉


〈母の最後の言葉:葵に料理を覚えてもらえるようしばらく私が、覚えておく〉


書きながら彼の頬を涙が、伝った。


五年ぶりに彼は声を上げて、泣いた。


店員の笑顔のない、顔で。


書いた二行の下に彼はもう一行、書いた。


〈葵が初めて自転車に、乗れた日のこと〉


あの日、葵は五歳だった。家の前の細い路地で補助輪を外したばかりの自転車に何度も乗り、何度も転んだ。父が、後ろを支えていた。母が玄関先で、笑っていた。透は中学の野球の練習帰りで自分の自転車に乗って家の前に着いた瞬間葵が初めて補助輪なしで、十メートル走るのを見た。


彼はその瞬間の葵の笑い顔を、今思い出した。


五年ぶりに、思い出した。


書きながら彼は紙の罫線の上で何度も息を、呑んだ。


〈葵が小学校の卒業式で、泣いていたとき、僕は、店員の顔で「おめでとう」としか言えなかったこと〉


あれは、両親の死から二年後の三月だった。


葵は卒業式の朝家を出る前から泣いていた。両親の写真を抱えながら玄関で、しゃくり上げていた。透は彼女に何を言うべきか、分からなかった。彼の喉から出たのは「おめでとう」と「気をつけて」の二つだけだった。


あの日の自分の顔を、彼は五年間思い出さなかった。


今その顔の薄っぺらさが紙の上に、書き出されていた。


書き出すことで初めて彼は自分があの日、葵に何もしてあげられなかったことを認めた。


認めることが引き継ぎの始まりだった。


ヴィオラが毛布の中から彼を見ていた。


彼女は何も言わなかった。


ただ起き上がって彼の傍に、座った。


肩と肩が触れた。


透は肩の温度を五年ぶりに、感じた。


人の肩の温度を、感じることを彼は五年忘れていた。


彼はしばらく泣き続けた。


泣き終わってから彼は静かに口を開いた。


「ヴィオラ」


「うん」


「私は両親の死を、五年奥にしまっていた」


「うん」


「それは私のためだった。私が両親の死に、向き合えなかったから」


「うん」


「妹のためと思っていた。違った。私のためだった」


「うん」


「妹は五年ずっと両親のことを私から引き継ごうとしていた。だが私は、引き継がせなかった。私の沈黙が、妹から両親そのものを奪っていた」


「うん」


「私の欠点は確かに妹に影響を、与えていた」


ヴィオラは頷くだけだった。


彼女の頷きは、慰めではなかった。


彼女は彼の言葉をただノートのように受け止めていた。


しばらくして、ヴィオラが口を開いた。


「マジマ私は、思うよ」


「はい」


「あんた、五年奥にしまったのは悪いことじゃない」


「悪い、ことです」


「いや悪いことじゃない。あんたが五年しまっておいたから五年後の今まだ形を保ってるんだよ。あんたがもし最初の年にぐちゃぐちゃに外に出してたらもう形が、崩れてた」


透は彼女のほうを、見た。


ヴィオラは薄く、笑った。


「あんたの五年は無駄じゃない。引き継ぎを温めておく時間でもあった。あんたは、温めるのが長すぎただけだ」


「温めるのが長すぎた」


「うん。今あんたは出す時に来てる。妹のところに、戻れ」


透は頷いた。


その夜彼は机の前でガレスの剣にもう一度布を、当てた。


布を滑らせると刃の上に彼の顔が、映った。


五年ぶりに彼は自分の顔を、まっすぐ見た。


若い痩せた、彼の顔だった。


だがその目の奥に彼の前世の二十五歳の自分が、わずかに混じっていた。


混じっていることを彼は初めて認めた。


認めてから彼は剣の刃の上で自分に向かって頷いた。


彼の中で何かが、完成しかけていた。


ヘルマン老人の言葉が彼の頭の中に、戻ってきた。


「自分から自分への引き継ぎ。そして自分の代わりに、覚えていてくれている誰かのこと」


透は五年ぶりにその一文を最初から最後まで聞き直した。


聞き直して、彼は気づいた。


古代遺跡の祭壇の構造と彼の心の構造が、重なっていた。


祭壇には前任から後任へ引き継ぐ項目の板が、並んでいた。


彼の心にも両親から自分へ自分から葵へ引き継ぐべき項目の空欄が、並んでいた。


祭壇の板が外の世界の引き継ぎなら彼の心の板は、内の世界の引き継ぎだった。


内と外が同じ構造で、できていた。


勇者とはと彼は初めて自分に、問うた。


予言の文を、彼はもう一度声に出した。


「世界の終わりに現れるは剣にあらず魔にあらず。


ただ前任者の遺せしものを正しく次へ運ぶ者なり」


予言の意味が彼の中で、初めて開いた。


勇者とは引き継ぎを、完了させる者だった。


世界の引き継ぎを完了させるためにはまず自分自身の引き継ぎを完了させ、そして葵に渡さねばならなかった。


内の引き継ぎができる者だけが外の引き継ぎを、完了させられた。


彼は長く祭壇の前で震える指を自分の心の構造に、向けていた。


帝国は今世界の引き継ぎを、奪っていた。


ガルディアが引き継ぎを、強者の慰めだと言った。


だが彼が強者の慰めだと言ったのは彼自身が引き継ぎから最も、逃げていたからだった。


ガルディアは三十年前のあの夜自分の前で刺された若者を一度も、引き継ぎ直さなかった。


彼は自分の罪を、奥にしまった。


しまったまま強者として、振る舞った。


それは透が五年間両親の死を奥にしまった構造と、同じだった。


透が自分自身に向き合ったようにガルディアにも、向き合うべき過去がある。


だがガルディアはそれを、認めない。


認めない者には引き継ぎは、完了しない。


完了しない引き継ぎは世界を、終わらせる。


それが予言の、第三行の意味だった。


〈受け継ぎを断つ者は世界を、終わらせる〉


透の戦うべき相手の本当の姿がここで彼の中に、現れた。


彼が倒すべきは、ガルディアその人ではなかった。


彼が倒すべきはガルディアの中の五年──いや三十年──奥にしまわれた、自分自身からの逃避だった。


そしてそれを倒すためにまず彼自身が五年間の自分の逃避に向き合いきっていなければ、ならなかった。


朝が来た。


透は机の前から立ち上がった。


ガレスの剣を左の腰に、提げた。


革のバンドの中の彼自身の引き継ぎノートを、丁寧にしまった。


そして彼は決めた。


世界を、救う。


そして必ず葵のもとへ、帰る。


二つは、別の目的ではなかった。


同じ一つの、行為だった。


彼の中でそれが、ようやくつながった。


ヴィオラが目を覚まして彼の隣に、立った。


彼女の身体は、まだ回復しきっていなかった。だが彼女の目は、もうはっきりしていた。


「あんた」


「はい」


「行くんでしょ」


「行きます」


「どこへ」


「まずヴェルダンへ。ガレスの弟に剣を、渡しに」


ヴィオラは頷いた。


「私も、行く」


「あなたは、まだ」


「動ける。あんた一人じゃ、行かせない」


透は彼女の顔を、見た。彼女の頬はまだ青白かったが目の奥に、芯があった。


「無理は」


「無理は、しない。私は、私の足で歩く」


彼女は毛布を肩から外し、立ち上がった。膝が、わずかに揺れた。だが彼女はそれを自分の意志で、抑え込んだ。


透は机の引き出しからもう一冊の新しい羊皮紙の束を、取り出した。それはガレスの兵站でまだ使い切れていなかった未記入の引き継ぎノートだった。


彼は表紙にペンで、丁寧に書いた。


〈引き継ぎ同盟・覚書 第一冊〉


書いてから彼は小さく、呟いた。


「ここから書く」


ヴィオラが横で、頷いた。


小屋の外で朝の光が山の稜線の向こうから射し始めていた。


透はノートをガレスの剣と革のバンドと一緒に革袋に、しまった。


それからヴィオラに向かって言った。


「行きましょう」


ヴィオラが彼の前に、出た。


「先に行く。私が道、見るから」


「お願いします」


彼らは隠れ家を、出た。


朝の山の冷気の中で二人の足音が土の上に、並んだ。


彼らの背中で隠れ家の鏡がもう一度薄く、光った。


だが二人は、振り返らなかった。


山道を歩きながら透は空を、見上げた。


雲が東から西へ、薄く流れていた。


彼の頭の中でもう一つの問いがまだ形を、保っていた。


ガレスの剣を十二歳の弟に、渡す。


それは、できるのか。


彼は自分自身に両親から自分への引き継ぎを、まだ書き終えていなかった。


書き終えていない者が他人の家督を、引き継がせられるのか。


ヴィオラが振り返らずに、言った。


「マジマ、悩んでる」


「どうして、分かるんですか」


「足音」


「足音?」


「悩んでる人は足音が半拍、遅れる」


透は薄く、笑った。


「治します」


「治さなくていい。悩み終わるまで待つ」


彼女はそう言ってまた前を、向いた。


透は足音の半拍をぐっと、整えた。


整えた足音が土の上に、もう一度並んだ。

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