第15章 兄妹の声、双方向
三日、彼は眠れなかった。
三日目の夜月が一つだけ薄い雲の隙間から隠れ家の鏡の縁を、照らした。
鏡の縁が、銀色に薄く光った。
それは最初は月のせいだと、思われた。
透は隠れ家の隅で毛布の上に、座っていた。
膝の上に、ガレスの剣が置かれていた。鞘から半分だけ抜いた刃に彼は布を当てて、磨いていた。手の動きは、機械的だった。磨くために磨いているわけではなかった。手を動かしていないと頭の中の何かが、騒ぐからだった。
小屋の中でまだ眠れない兵たちが、低い声で互いを慰めていた。誰かが家族の話をし、誰かが故郷の畑の話をした。透はその声を、遠くで聞いていた。
ヴィオラの呼吸は、安定していた。彼女は熱を出していたが毒の効きは徐々に、薄くなっていた。あと二日もすれば目を開けるだろうと医師見習いが、午後に言った。
深夜外の風が、ふっと止まった。
止まった瞬間鏡の縁が、もう一度光った。
今度は月の光ではなかった。鏡そのものが内側から光っていた。
透は布を膝に置いた。
鏡に、近づいた。
鏡の中に、最初は自分の顔が映っていた。痩せた、若い男の顔。
だが彼が見つめていると、自分の顔が薄く滲んだ。
滲んで別の像が奥から浮かび上がってきた。
白い天井。
白いシーツ。
白い壁。
彼の知っている、白だった。
それは彼の前世の世界の、病院の白だった。
ベッドの上に痩せた若い男が仰向けに、横たわっていた。
口に、酸素のチューブが軽く差されていた。両腕に点滴の管が、繋がっていた。胸がゆっくり上下していた。
彼の目は、閉じられていた。
彼の頬は、こけていた。
彼の額の上の髪は彼自身の知っている、自分の髪の色だった。
それが自分の身体だと透は認めるのに五秒、かかった。
透の足が震えた。
震えながら彼は鏡の前に、膝をついた。
鏡の中の自分の身体は、まだ息をしていた。
息をしていた。
彼は死んでいなかった。
ガルディアの言ったことは本当だった。
彼の身体は前世の世界で、まだ生きていた。
生きながらただ目を覚まさずに、五年。
ベッドの脇のパイプ椅子に誰かが、座っていた。
若い、女の子だった。
膝の上に青い表紙の薄いノートを、開いていた。彼女の手には、ボールペンが握られていた。
彼女はノートを見て声に出して何かを、読んでいた。
透は鏡に、額を寄せた。
彼女の声を、聞こうとした。
彼女の声は、最初薄い膜の向こうから聞こえてきた。
膜は、すぐに剥がれた。
「お兄ちゃん」
若いしかし、子どもではない声。
「今日ね学校で、職業体験があったよ」
透の喉が止まった。
「私、コンビニに行ったんだ。お兄ちゃんの仕事、見てみたかったの」
彼女の声は、淡々としていた。
だが淡々としているのは五年間そう話し続けてきたからだった。
最初の頃はたぶんもっと、震えていた声だった。
今は、習慣になった声だった。
「引き継ぎノートって本当にあるんだね」
彼女は薄く笑った。
「私ちょっと泣いちゃった。お兄ちゃんがずっと書いてたやつだ、って」
彼女は膝のノートを、撫でた。
「店長さんが教えてくれたよ。お兄ちゃん五年シフトリーダーだったって。詳しい引き継ぎをずっと、書く人だったって。事件の夜も、最後まで書いてたって」
彼女はノートをぱらぱらと、めくった。
「店長さん最後にねこう言ったんだ。『真島くんの引き継ぎノートは彼が倒れてから半年は店の財産だった。彼が書いた手順を新しい子たちが読んで、覚えていった。だから店は一日も休まずに、回った』って」
葵の声がわずかに揺れた。
「私それ聞いてお兄ちゃんの仕事ちゃんとした仕事だったんだなって思ったよ。前はお兄ちゃんがただのアルバイトだって私、思ってた。違ったね」
透の頬を涙が、伝った。
鏡の中の彼女はそれを見ていなかった。
彼女はノートをぱらぱらと、めくった。
「先週の続き、読むね」
彼女は葵だった。
透はその名前をようやく口に出して、呼んだ。
「葵」
彼の声は、しわがれていた。三日眠っていなかった声だった。
鏡の中で葵がふと顔を、上げた。
「お兄ちゃん?」
彼女はノートから目を、離した。
「今なんか、聞こえた気がした」
透の心臓が止まりかけた。
鏡の向こう側に彼の声は、届くはずがなかった。
だが葵はたしかに、聞いた。
彼女はしばらく眠っている兄の身体の顔を、見つめた。
それから囁くように続けた。
「お兄ちゃん私ね今日も、話しに来たよ」
彼女の指がノートのページを、撫でた。
「お兄ちゃんが起きないなら私が、話し続ける。五年間ずっとそうしてきた」
葵はノートのページをもう一枚、めくった。
「お兄ちゃんは、お父さんとお母さんのことを話してくれなかったから」
透は息を、止めた。
「私覚えてる限り全部自分でノートに、書いたの」
彼女はもう一冊別のノートを、傍から取った。
「でも、もう薄くなってきてる」
彼女の声は、わずかに震えた。
「お母さんの味噌汁の出汁の取り方。お父さんの口癖。私、十一歳だったから覚えきれてない」
彼女はノートを膝に、置き直した。
「お兄ちゃんが教えてくれないと私には、引き継ぎようがないんだよ」
葵はしばらく黙った。
鏡の中で彼女の指がノートの背を、撫でた。
「私ねお兄ちゃんが起きたら、最初に聞きたいことがあるんだ」
透は息を呑んだ。
「お父さんが最後にお兄ちゃんに何を言ったか。お母さんがお兄ちゃんが家を出る朝何を言ったか。私、知らないの。お兄ちゃんはその日のこと私に一言も、話してくれなかったから」
透の指が鏡の上で、強張った。
それは両親の事故の、前日のことだった。
両親は二人で車で北の親戚の家に、出かけた。最後の朝母は透の机の上に小さな手書きのメモを、残していた。彼はそれを、読んでから捨てた。
今彼はそのメモの内容を、思い出そうとした。
思い出せなかった。
五年間彼はそれを、奥にしまい込みすぎた。
今その奥が、空っぽだった。
空っぽだったと気づいたとき彼は自分の鎧の代償の大きさを、初めて知った。
「お兄ちゃん」
葵が続けた。
「お父さんの口癖覚えてる? 私二つしか覚えてない。『無理せずけど手は抜くな』と、もう一つなんだっけ」
透の唇がわずかに動いた。
「お母さんの煮物の蓮根の切り方。あれお母さん、変だったよね。斜めに、薄く。お兄ちゃんあれ、真似できる?」
彼女は笑おうとして、笑えなかった。
代わりに彼女の目から涙がノートの上に、落ちた。
落ちた涙はノートの罫線の上で丸く、止まった。
彼女はその涙を、指で拭わなかった。
拭わずにその涙の隣にボールペンで何かを、書いた。
書きながら囁くように続けた。
「お兄ちゃんねえお兄ちゃん、聞こえてる?」
「私ずっとここに、いるよ」
「五年も、いるよ」
透の身体がその場で、崩れた。
彼は鏡の前に、両手をついた。
両手の下で隠れ家の床の、土の感触があった。
土の感触は、彼の現実だった。
だが鏡の向こうの葵の声も、彼の現実だった。
二つの現実が彼の中で初めて同時に、現れていた。
「お兄ちゃん」
葵が続けた。
「だから起きて」
「お願いだから起きて」
透の口から声にならない声が漏れた。
彼は五年間彼女のためだと、思っていた。
彼女に両親の死を思い出させないようにと、思っていた。
だが思い出させないようにしていたのは自分のためだった。
彼自身が両親の死に向き合えなかったから彼女の前で両親の話を、できなかった。
彼の沈黙は、彼の鎧だった。
鎧は、彼を守った。
だがその鎧の影で、葵は両親そのものを失っていた。
彼が引き継ぎを、拒否したから。
彼の欠点はほんとうに周囲に影響を、与えていた。
そして同時に彼はもう一つのことに、気づいた。
五年間彼は葵に何も、引き継いでいなかった。
だが葵は五年間ずっと彼に向けて引き継ぎを、試み続けていた。
彼が異世界で、時々聞いた「お兄ちゃん」という声。
夢の中の気配。
古代遺跡の祭壇の前で感じた、葵の気配。
それは全部、葵の語りかけだった。
送り手は、いた。
五年間ずっと、いた。
受け取り手が機能していなかっただけだった。
彼が。
彼の鎧が。
葵はノートを、閉じた。
それから眠っている兄の手を、両手で握った。
「お兄ちゃん今日はこれで、帰るね」
「明日も、来るからね」
「私、待ってるからね」
鏡の像が薄く揺れ始めた。
透は鏡に両手を、当てた。
「葵」
彼はもう一度呼んだ。
「ごめん」
鏡の中の葵がわずかに顔を、上げた気がした。
だが像は、もう薄かった。
像は最後に葵の薄い後ろ姿を、映してから消えた。
鏡はただの曇った猟師小屋の鏡に、戻った。
透は鏡の前で、長く動けなかった。
動けない彼の頬を涙が止まらずに、伝い続けた。
彼の前でガレスの剣が布の上で銀色に、光っていた。
剣を、彼は抱きしめた。
抱きしめた腕の中で剣はガレスのものだったが、ガレスのものだけではなかった。
それは彼が彼自身に引き継ぐべきものの、最初の象徴だった。
外で夜明け前の鶏が、鳴いた。
小屋の中で兵たちは、まだ眠っていた。
ヴィオラが毛布の中で、寝返りを打った。
透は彼女のほうを、見た。
彼女の瞼が薄く開いていた。
彼女は彼を見ていた。
「あんた」
ヴィオラの声は、かすれていた。
「泣いてる」
「ごめんなさい」
「謝らないで」
彼女はもう一度瞼を閉じた。
「そういう泣き方をする人を私は、信じる」
彼女はそれだけ言ってまた深い眠りに、戻った。
透は彼女のそばに、座り直した。
膝の上に剣を、横たえた。
鞘の内側に挟んだガレスの故郷の住所を書いた紙を、もう一度確かめた。
紙は、まだそこにあった。
彼の手の中の引き継ぎは、まだ生きていた。
彼がそれを、絶やさない限り。
夜が白み始めていた。
彼は立ち上がり小屋の小さな机のほうに、歩いた。
机の上に彼の革のバンドが、置いてあった。バンドの中から彼は二つに折った紙を、取り出した。
〈葵〉
〈ごめん〉
彼自身の最初の二行が、そこにあった。
彼はペンを、握った。
そしてその下に新しい一行を、書き加えた。
〈お父さんの二つ目の口癖を、思い出す〉
書いてから彼はその一行を、長く見つめた。
思い出すことができるかどうかは、まだ分からなかった。
だが思い出そうとすることだけは彼の意志で、決められた。
意志で決められることが彼の中に、まだ残っていた。
それが、五年ぶりの発見だった。
彼の頭の奥で何かが、ふと引っかかった。
父の、二つ目の口癖。
父は台所で母の煮物を味見しながらある一言を、繰り返していた。
五年間思い出さなかった。
今それがぼんやりと輪郭を、持ちはじめていた。
言葉そのものはまだ形にならなかった。
形にならないが輪郭が見えていることだけが、彼の手応えだった。
彼はその輪郭を紙に、書き留めなかった。
書き留めるには、まだ早かった。
だが輪郭が消えないように彼は机の前で、しばらく目を閉じた。
鶏は、もう一度鳴いた。
朝が来ようとしていた。
小屋の外で誰かの足音が近づいてきた。
若い兵だった。寝ぼけ眼で透のほうへ、近づいてきた。
「マジマさん、起きてたんすか」
「眠れなくて」
「俺夢、見ました」
「夢」
「俺の弟が、出てきました。家で、待ってるって」
透は彼の肩に手を、置いた。
「弟さん、いくつ?」
「九歳です」
「家、どこ?」
「南の、麦の村です」
「無事に帰してくれって夢の中の弟さんは、言ってましたか」
「言ってました」
「では帰しましょう」
彼は若い兵の肩を軽く押した。
兵は頷きまた毛布のところへ、戻った。
透は机の前でもう一度自分の紙を、見た。
〈お父さんの二つ目の口癖を、思い出す〉
その下に彼はもう一行、書いた。
〈ガレスの剣をヴェルダンの弟に、渡す〉
書いた瞬間彼の中で二つの引き継ぎが初めて同じ重さで、並んだ。
家族のためだけでもない戦友のためだけでもない両方を同じ手で引き継ぐ覚悟が、そこにあった。




