第13章 王宮内の裏切り
帝国の使節団が王都を発って三日目、王宮の地下から薄い煙が上がった。
火元は外厨房ではなく、文書庫だった。
燃えたのはここ十年分の物流記録と、辺境領主との盟約覚書だった。
誰の仕業かは煙の匂いより早く噂のほうが、先に広間を回った。
透が文書庫に駆けつけたとき、ロランドはすでに煤の匂いの中に立っていた。彼の右の眉に、灰がついていた。
「マジマ」
「これは」
「火種は棚の奥だ。古い羊皮紙がひとりでに燃えるなんてことはない」
透は文書庫の中に入った。三方の壁が、棚で埋まっていた。棚の半分が、黒く焦げていた。残った半分も、煙で燻され、文字の半分が読めなくなっていた。彼は焦げた一冊を、手に取った。背表紙に「東辺四領、相互救援盟約・更新記録」とある。中身は、もう灰だった。
「焼かれた書類はどれも私が、写しを取り始めていたものでした」
「お前の仕事を、潰しに来たんだ」
ロランドは短く言った。
「相手は、宮廷内部にいる」
「わかります」
「わかってるなら急げ。次はもっと深刻な物が、燃える」
透は文書庫を出た。出る前に棚の隅に転がっていた小さな紙を、拾った。紙には何も書かれていなかったが片隅に、油の指紋が残っていた。透は紙を懐にしまった。
その日のうちに宰相補佐のテオドールが、急病だと言って城を離れた。
リシェルがそれを報告した時彼女の声は、いつもの一段低い場所に落ちていた。
「彼は五年私の父の側近だった」
「裏切りですか」
「あるいは、最初から帝国側だったか」
「最初から」
「ロランドが彼の机の引き出しを調べた。三年前から帝国の宝石商と、定期的にやり取りしていたと」
「証拠は」
「証拠はない。書類は、彼が自分で持って出た。だから文書庫が燃えたのよ。彼が自分の足跡を、消した」
透は頷いた。
「私は彼の引き継ぎを、受け取れる位置にいませんでしたか」
「いなかった」リシェルは静かに言った。「彼は誰にも引き継がなかった。だから抜けた瞬間に五年分の記憶が、王宮から消えた」
それが、ガルディアの言う「強い奴は奪う」だと、透は気づいた。
奪う、というのは何かを取ることだけではない。
何かを誰にも引き継がずに、抜き去ることでもあった。
誰にも引き継がないこと自体が戦略だった。
その日の午後王の体調が悪いという報せが、城内を回った。リシェルは父のところに長く詰めていた。彼女が三時間ぶりに執務室に戻ったとき目の縁が、薄く赤くなっていた。
「父は」
「眠っている」
「容態は」
「悪い」彼女は短く言った。「医師が毒の可能性を、口にし始めた」
透の指が机の上で、止まった。
「どこから」
「水か食事か。分からない。テオドールが何をどこまで仕込んだか追えない。彼が消えてから王宮内部の物流がすべて、信用できない状態になっているの」
「私がギルドの食料倉庫の検品を、もう一度組み直しましょうか」
「マジマ、それは」
「私のやり方に不満を持つ古参職員が、巻き戻したんでしょう」
「そう」
「もう一度立て直します。今度は私一人ではなくヴィオラとカイロと何人かの新人を一緒に動かして引き継ぎが、絶対に切れない構造にします」
リシェルは長く彼を見た。
「あなた、変わったわね」
「変わりましたか」
「言われた仕事に自分から二三、足してくる」
「すみません」
「いいえ。それを、求めてた」
夜半執務室を出た透は廊下で、二人の若い貴族とすれ違った。
彼らは透の背中に、わざと聞こえる声で囁いた。
「あれが王女様の、お気に入りの労務生だ」
「東の海向こうの。剣も握れない」
「成り上がり」
「いつまでもつかな」
透は振り返らなかった。振り返らずに歩幅を、変えなかった。
ただ彼の中でその三つの単語──成り上がり剣も握れないいつまで──が、薄く残った。
彼の前世の同僚も似たような単語で、彼を囃したことがあった。
「真島さん、いつまでバイトやるんすか」
「正社員にもならないで」
「もったいなくないですか、その歳で」
彼はそれらに、いつも「マニュアル通りで」と答えた。
今夜彼が同じ単語を投げられて答えなかったのは「マニュアル通り」が、もう彼の防御として、機能しなくなりかけているからだった。
その日の夕方王都の南の通りで透が始めた小さな食事処に、火が点いた。
火は早く、店は半時で焼け落ちた。
透はその夜現場に立った。雇っていた料理人と給仕の少女は、無事だった。彼らはその場で泣いていた。透は彼らの肩に手を置いて、しばらく何も言わなかった。
「マジマさん」料理人の青年が、煤だらけの顔で言った。「俺は、どうしたら」
「次の店を、考えます」
「金が」
「あります」
「マジマさんに、金が」
「ありません。でも貸してくれる人を、知っています」
彼は嘘をついていた。
嘘をついたのはその少女と青年が今夜希望を持って眠るためだった。
彼らが眠ったあとで、彼は自分のために、嘘を、本当にする。それは、彼の前世のクレーマー対応の応用だった。客に「すぐ用意します」と言ってその後、なんとか用意してきた、五年分の経験だった。
その夜透は王都のギルドに足を運んだ。
夜のギルドには、ほとんど人がいなかった。受付の脇のカウンターに夜勤の事務員が一人燭台の灯りの下で、書類を整理していた。
「マジマさん」
事務員はカイロという名の中年男だった。透がギルドに入ったとき、彼は最も透の改革に反対した古参の一人だった。だが半年経った今彼はもうシフトログを書く側に回っていた。
「カイロさん。私が改革したシフトログ、まだ続いていますね」
「続いていますよ。ええいまさら戻したくないと、若いのが言っています」
「そうですか」
透は微笑んだ。微笑みは彼の前世のものより、わずかに薄かった。
「ところでカイロさんある噂を、聞きました」
「噂?」
「最近ギルドの一部の依頼書がいつのまにか書き換えられている、と」
カイロの目がわずかに揺れた。
「それは」
「依頼料の数字が後から書き直されているそうです。書き直されているのは特定の依頼者の物だけ」
「マジマさんあなた誰からそれを」
「ヴィオラからです」
半エルフの斥候の名前を出した瞬間カイロは口を、噤んだ。
ヴィオラはギルドの中で、最も信頼される情報源だった。彼女が「見た」と言ったものは見たのだ、というのがギルドの不文律だった。
「カイロさん書き換えに関わった事務員の名前を、教えてください」
「私は、何も」
「あなたは、関わっていません。あなたは、私の改革の側にいる人だ」
透はカイロの目を、まっすぐ見た。
「でも関わった人はあなたのすぐ近くにいる。あなたが何かを目撃しているのは私には、わかります。あなたが引き継ぎを、絶やさない側の人だからわかります」
カイロは、長く彼を見ていた。
それから深く息を吐いた。
「マジマさんあなた、変わったね」
「変わりましたか」
「半年前のあなたはこんなに人の目を、見なかった」
透は答えなかった。
カイロは紙を一枚、書いた。書き終えてからそれを四つに折って透に渡した。
「これに書き換えに関わった三人の名前と彼らに金を払った商人の名前が、書いてある」
「ありがとうございます」
「でもこれを使うならあんた慎重にやれよ。あいつら後ろに、宮廷がいる」
「分かっています」
透はその紙を、懐にしまった。
帰り道、彼は王都の暗い路地を歩いた。
路地の角で彼の背中に、小さな気配があった。
彼は振り返らずに、歩き続けた。
気配は彼の歩幅に合わせて、距離を保った。
彼が広い通りに出る一歩手前で気配が、急に近づいた。
透は反射的に、身を低くした。
彼の頭の上を何かが、空気を裂いて通過した。
彼は身を翻し、路地の壁に背中を付けた。
襲撃者は、布で顔を隠した男が二人。一人は短刀、一人は細い針のようなもの。針が毒矢だ、と透の身体は判断した。
彼の身体は戦い方を、知らなかった。
だが彼の身体は逃げ方を、知っていた。
コンビニの裏で五年間酔った客に絡まれて、何度も逃げてきた経験があった。
彼は箱を、跳んだ。
路地に積まれた木箱を踏み台にして、彼は壁の上に手をかけた。腕の力で、塀を乗り越えた。塀の向こうは、隣の家の中庭だった。彼は中庭を駆け抜けて反対側の塀を、もう一度乗り越えた。
襲撃者の足音が後ろで、追ってきていた。
中庭の奥で誰かが彼の腕を、掴んだ。
透は反射で振り払いかけた。
「私だ」
低い、女の声。
ヴィオラだった。
「こっちに」
彼女は彼を家屋の影の奥に、引き込んだ。彼女の身体は彼より頭半分、低かった。だが彼女の手の力は彼より、強かった。
「あんたを、待ってた」
「ありがとう」
「礼は生き残ったあとに、聞く」
ヴィオラは彼を裏路地に導き、追手をまいた。
二人が王城の北門に着いた頃夜は、深かった。
ヴィオラは城門の前で、立ち止まった。
「マジマ」
「はい」
「あんたが王宮の中で誰かに、嫌われてるのはもう有名だ」
「そう、ですか」
「うん。私半エルフだからこういう情報よく入る。下層の連中は上の貴族より、よく喋る」
「教えてください」
「あんたを嫌ってるのはテオドールだけじゃない。三人くらい王宮内に、いる。彼らの後ろに、帝国がいる。連携してる」
「分かりました」
「マジマ。気を付けて」
「あなたも」
ヴィオラは頷いた。それからふっと彼女らしくない笑みを、口元に作った。
「それとあんた最近夜声を、出すの。野営してて、聞こえる」
「声」
「『葵』って」
透の喉が止まった。
ヴィオラはそれ以上、聞かなかった。
彼女は踵を返し、闇に消えた。
部屋に戻った透は机の上の白紙を、もう一度見た。
紙はまだ白かった。
彼はペンを取り紙の左上にようやく最初の一文字を、書いた。
〈葵〉
名前を、書いた。
書いた瞬間彼の右目から涙が一粒、紙の上に落ちた。
紙がわずかに滲んだ。
彼はその滲みを、拭わなかった。
拭わずにその下にもう一行、書いた。
〈ごめん〉
それが彼の最初の引き継ぎノートの自分用の、最初の二行だった。
二行のあと彼の手は、また止まった。
何を書けばいいのか、分からなかった。
書かなければいけないことは五年分、ある。だが五年分を一晩で書けるほど彼の整理は、進んでいなかった。
彼はペンを置いた。
置いて、紙を畳んだ。畳んだ紙を革のバンドの中の予言の紙の隣に、丁寧に挟んだ。
予言の紙の隣に彼自身の引き継ぎ未了の一覧表がたった二行だけ、寄り添っていた。
彼はこの国の予言と自分の私的な未済とが同じバンドの中で並んだことに奇妙な符合を、感じていた。
だがその符合の正体を、彼はまだ言葉にできなかった。
彼は窓を閉め、燭台の火を吹き消した。
眠れぬ夜の、最初の眠れぬ夜が始まろうとしていた。
朝起きたとき机の上の燭台が、消えたままだった。
透は窓を開け二つの月が消えかけている空気を、深く吸い込んだ。
東の空がわずかに青み始めていた。
彼は机の上の畳んだ紙をもう一度開いて〈葵〉と〈ごめん〉の二文字を、見た。
見ただけで胸の真ん中が、わずかに痛んだ。
痛みを、彼はもう奥にしまわなかった。
痛みを机の上に、開いたままにした。
彼は紙を畳まずに机の上に置いて、朝の身支度を始めた。
身支度の途中で廊下を急ぎ足の靴音が近づいてきた。
扉が叩かれた。
ロランドの声だった。
「マジマ。起きてるか」
「起きています」
「悪い知らせだ」
「はい」
「国境砦からの伝令が夜通し駆けてきた。帝国軍の本隊が東の国境を、越えた」
透は紙を、机の上に残したまま扉を開けた。
ロランドの顔は煤と汗と夜の冷気で、固まっていた。
「総力戦になる」
透は頷いた。
朝の青みが彼の背中側で、強くなり始めていた。




