第12章 ガルディアの言葉
翌日の昼下がり王城の南棟客間の一つで、二つの椅子が向き合っていた。
椅子の間の小卓に温い茶が二杯、湯気を立てている。
ロランドが扉の脇に立ち、剣の柄に手を置いていた。
扉の向こうから規則正しい靴音が近づいてきた。
ガルディアが部屋に入ってきた。長身は昨日のままで銀髪を後ろに束ね、薄い灰の上着を着ている。彼は扉を閉め、ロランドに軽く一瞥をくれてから透の向かいの椅子に腰を下ろした。腰の落とし方が、王城の貴族のそれではなかった。長椅子に深く沈む、やや疲れた中年男の落とし方だった。
「マジマ」
彼の声は昨日の公式の場よりも、低かった。
「久しぶりというのはおかしいかな。お前にとっては、ほんの半年だ。俺にとっては、三十年だが」
透は答えなかった。
ガルディアは茶を一口含み、すぐに置いた。
「不味いな。この国の茶は、いつ来ても不味い。葉の摘み時を、誰も引き継いでないんだ」
「引き継ぎ」
透の声がわずかに震えた。
ガルディアは唇の端だけで笑った。
「お前その言葉、よく使うな。聞いた。あちこちで」
「使います」
「便利な言葉だ。だがな便利な言葉ほど人はその意味を、誤解する」
彼は脚を組んだ。
「俺はな三十年前心臓発作で倒れた瞬間にここに来た。お前があの夜刃から自分を庇った瞬間にだろう?」
透は答えなかった。
「答えなくていい。俺は知ってる。お前があの店のレジ打ちで俺の最後に見た顔だった。お前が強盗を背負って刺されて倒れた。倒れたお前を見て俺は、自分の心臓が止まった。最後に見た光景はお前の腹から血が滲み始めるところと、蛍光灯の白さだった」
彼は茶器の縁を、指で撫でた。
「俺はな最初の数年毎晩夢を見たよ。あの蛍光灯の下でお前が刺される夢だ。お前の腹から血が出るのを見て俺は、もう一度心臓が止まる。その繰り返しだ」
「あなたは私が死んだと、思っていた」
「思っていた。三十年思っていた」
ガルディアの目がほんの一瞬遠くを見た。
「だからお前の顔を昨日見たとき俺は、目眩を覚えた。本物の目眩だ。三十年俺の頭の中の死者が生きて、王女の隣に立っていた」
「私は、死んでいないかもしれない」
「ああ、そうだ」
ガルディアは姿勢を戻した。彼の目つきが、急に変わった。それまでのわずかに人間らしい揺らぎが引っ込み代わりに、冷たい商売人の目が現れた。
「マジマ。一つ確認させろ。お前どうやってここまで来た」
「街道で倒れていたところを、宿屋の女将に拾われました」
「いつから?」
「半年ほど前です」
「半年で、王女の隣まで来たわけだ」
「成り行きで」
「成り行きじゃない」
ガルディアは茶をもう一口、含んだ。
「俺は三十年かかった。お前は半年で近い場所まで来た。俺とお前と何が、違うんだ」
透は答えに、迷った。
答えに迷ったあいだに、ガルディアが自分で答えを言った。
「お前は引き継ぎとかいう便利な言葉を、武器にしてる」
「武器ではありません」
「武器だ」彼の声が低くなった。「お前が宿屋に置いていった札ギルドに導入した記録の様式王宮の倉庫に貼った付箋。俺は調べた。お前のやり方は面白いほど一貫してる。前任者から後任者へ、文書で渡す。誰がやっても同じ結果が出るように書く。そう人を、入れ替え可能にする」
「入れ替え可能、というのは違います」
「同じことだ。お前は人間を置き換えられる部品にしてる。お前の真意がどこにあろうとそれは長い目で見れば人間の価値を、下げる」
「私は価値を、下げているつもりは」
「下げてる」
ガルディアの声に、初めて強い断定が含まれた。
「下げてるんだよマジマ。引き継ぎってのは弱者の慰めなんだ。俺の代わりに誰かがいつでも入れる。それが組織にとっては、便利だ。だが個人にとっては、最悪だ。誰もがいつでも置き換え可能な人間として、扱われる」
「組織が強くなれば、個人も」
「ならねえよ」彼は吐き捨てるように言った。「お前見たことあるか? お前の前世の店でお前が一人欠けたとき本部がどんな顔をした? 『代わりはいる』だろう。お前はな自分の手で自分を、置き換え可能にしてた。お前のあの引き継ぎノートはお前自身の存在を、薄くする道具だった」
透の喉に、熱が走った。
熱はガルディアの言葉に半分、同意していた。
半分、同意していることが彼を苦しめた。
「強い奴は」とガルディアは続けた。「奪うんだ。前任者の遺産をありがたがる奴は自分で何も生み出せない無能だ。俺はなこの三十年でそれを学んだ。学んで、ここまで来た」
彼は窓の外を見た。
「この世界には古い慣習が多すぎる。継承だの儀式だの盟約だの。すべて弱者が自分の弱さを正当化するために作った仕掛けだ。強い奴は奪う。奪って自分のものにする。俺はそれを帝国の国是として現皇帝陛下に、奏上した。陛下はそれを、お採りになった。俺は今その実行者だ」
「封印を破壊している、という噂は」
ガルディアの目がわずかに細くなった。
「お前、知ってるのか」
「噂です」
「噂じゃない。事実だ。封印は引き継ぎの儀式で保たれている。前任の守護者から後任の守護者へ。儀式の日に鍵を渡す。それを何百年、繰り返してきた。馬鹿げた、慣習だ」
透の指が無意識に、椅子の肘掛けを握った。
「俺たちはそれを、奪ってる」とガルディアが言った。「奪って力で押さえつける。確かに押さえつけた地域では魔物が出始めてる。空間が歪み始めてる。だがなそれは過渡期の現象だ。やがてすべて、力で抑えこめる。俺の世代があと二十年、生きていれば」
彼は最後の言葉を、わずかに笑った。
「分からないのか」とガルディアが続けた。「お前本気で引き継ぎなんてものを信じてるのか?」
「信じています」
「なぜ」
「私の前世で私は引き継ぎノートを、五年間書き続けました」
「それで?」
「読まれない日がほとんどでした。誰も私のノートを、最後まで読みませんでした」
「だろうな」
「でも、たまに読まれた日がありました」
透の声が低くなった。
「ある夜私が休みの日に新人のバイトが入ったそうです。常連の老婦人が薬の取り置きをしていた。新人はノートを読んでその取り置きを間違いなく渡した。老婦人は私の店長に、わざわざ感謝の電話をくれました。『あの店は引き継ぎが、できている』と」
「それが、なんだ」
「老婦人は心臓の薬を取り置いていました。あの夜新人が薬を渡せていなかったら、彼女は薬を切らしていました」
「それで、誰かが死んだのか」
「死んでいません」
「じゃあ、ただの仮定だ」
「仮定ですが」
透は息を吸った。
「私は引き継ぎが人を生かす可能性があると、知っています。読まれない九十九日のために書くんじゃない。たった一日誰かを生かすために、書くんです」
ガルディアはしばらく黙った。
それから静かに笑った。
「お前は変わらないな」
「はい」
「あの夜俺がレシートの印字でお前を恫喝してもお前は客に頭を下げ続けた。あれは俺は、お前を弱いと思った。だがお前のあの五年は、弱さじゃなかったのか」
「弱さでも強さでもなかったと、思います。ただの、習慣でした」
「習慣」
「習慣です。良い習慣も悪い習慣も人を深いところで作る。私の習慣は、引き継ぎノートを書くことでした。あなたの習慣は、レシートを罵ることでした」
ガルディアの目がわずかに細くなった。
「マジマ。お前俺を、軽蔑してるのか」
「軽蔑、はしていません」
「では何だ」
「あなたを私は、覚えています。それだけです」
「マジマ」
ガルディアが声を変えた。
「お前王女と王の隣に、立った。お前はもうこの国の枢密に、近い」
「私は、ただの労務生です」
「最弱職業を自分で名乗るな。お前のステータスを俺が調べていないとでも? お前の固有技能〈職務記憶〉。あれは、希少特性だ。希少特性は、皇室の私的拘束対象だ。お前は本来なら、生まれた瞬間にドラケンの皇族の私的奴隷になる種類の人間だ」
透の背筋が、冷えた。
「私は、奴隷には」
「ならないさ。今は」彼は言葉を、わざとそこで切った。「だがな俺はお前を欲しい。お前の引き継ぎの技を帝国側で、使ってほしい。俺はお前を、迎える用意がある」
「お断りします」
答えは透の口から彼自身予期しない速さで、出た。
ガルディアは頷いた。
「そう答えるだろうと思ったよ」
彼は立ち上がった。
立ち上がる動作の中で、彼の片肩がわずかに落ちた。
透の目に見覚えのある癖が、もう一度映った。
ガルディアは扉のほうへ、歩き出した。歩きながら振り返らずに、最後にこう言った。
「ところでマジマお前、本当に死んだのか」
透の心臓が止まりかけた。
「あの夜お前が倒れた後何が起きたか、覚えてるか」
彼は振り返らなかった。
「俺は心臓発作で倒れた瞬間にここに来た。倒れた瞬間というのはすなわち死んだ瞬間だ。だがなお前は刺されただけだ。刺されたあと何分か何時間か何日か、生きていたかもしれん。ということはだ。お前の身体は今も向こうで、息をしてる可能性がある」
透の手が震えた。
「お前のところに誰か待ってる奴は、いるか」
「い、ます」
「そうか」
ガルディアの肩がもう一度わずかに落ちた。
「俺にはいなかった。だからこっちに振り切れた。お前は振り切れていない。お前はまだ向こうに未完了の仕事を、残してる」
彼は扉に手をかけた。
「未完了の仕事をなマジマ放置するのはお前の流儀じゃないだろう」
扉が閉まった。
靴音が廊下を、遠ざかっていった。
透は椅子の上で、しばらく動けなかった。
ロランドが扉の脇から近づいてきた。
「マジマ。あの男」
「はい」
「あれは、敵だ」
「分かっています」
「分かっているならそれで、いい」
ロランドはそれだけ言ってまた扉の脇に戻った。
透は冷えた茶を一口、飲んだ。
飲んだあと、彼は両手で顔を覆って長く息を吐いた。
ガルディアの最後の言葉が彼の頭の中で、何度も繰り返されていた。
「未完了の仕事を、放置するのはお前の流儀じゃないだろう」
それは彼の前世の引き継ぎノートに彼自身が毎日書き続けていた一文と、同じ意味の言葉だった。
彼は認めた。
彼の中にまだ書ききれていないノートが一冊、ある。
そのノートの宛先は、彼自身だった。
あるいは、葵だった。
彼はまだ書き始めていなかった。
書き始めていないことを初めて言葉として、自分に認めた瞬間だった。
その夜透は自分の部屋に戻り机の上に白紙の羊皮紙を一枚、広げた。
ペンを、握った。
握ったが、書き出せなかった。
彼は自分の親に向かって何を書こうとしているのか、分からなかった。
ペンの先が紙の上で、しばらく止まっていた。
やがて彼はペンを、置いた。
置いたあと彼は自分の右の掌を、左の掌で握った。
握った両手が震えていた。
震えたまま彼は声に出さずに、呟いた。
「父さん。母さん」
五年ぶりに彼はその二つの単語を、自分の口の中で動かした。
動かしただけで紙の上には、まだ何も書けなかった。
だが書けなかったという事実そのものが彼の中で初めて痛みを伴って認識された。
これまでの五年間彼は書けないという事実すら、認識しないように生きてきた。
今夜初めて彼は書けない自分を、見た。
書けない自分を見たことが書く側に回るための、最初の一歩だった。
紙はまだ白いままだった。
だが彼の中で何かが、すでに書き始められていた。
朝が来る前透は窓辺で、空を見上げた。
二つの月が、欠けながら薄く光っていた。
彼は誰にも知られないところで、もう一度自分に向かって呟いた。
「葵」
名前を呼ぶ動作だけは、できた。
名前を呼べることが書ける日への橋渡しになると、彼は信じることにした。




