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引き継ぎノートの勇者 ―異世界コンビニ五年目、世界のシフトを受け取れ―  作者: もしものべりすと


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第11章 偽りの勝利と、再会

叙勲式の朝王城の大広間に陽が差したとき透は緋色の儀礼服の襟が、首にきつく当たるのを感じていた。


襟の硬さは彼の前世の制服のそれと、あまり変わらなかった。


ただ布の重さが、十倍ほど違った。


重い布の下で彼の喉仏が一度だけ、上下した。


王の前に進み出るとき、彼の足取りは、決して整っていなかった。リシェルが横で目配せをした。「肩の力、抜いて」と口の形だけで言った。透は微かに頷いた。頷いたが、肩の力は抜けなかった。


古代遺跡の一件以来、彼の名は王宮内で、ある種の符号として通用するようになっていた。「あの労務生」「東の海向こうの男」「王女の影」。彼はその呼び名のどれにも返事をしなかった。返事をしないのは彼の前世のクレーマー対応の応用だった。


王は痩せた老人だった。座した玉座の中で、肩が背もたれに沈み込んでいた。彼の声は乾いていたが目には、リシェルとよく似た色があった。


「マジマ・トオル」


「はい」


「西の遺跡で、お前のしたことを聞いた」


「身に余る御言葉です」


「身に余ると言うのは正しい」王は薄く笑った。「だから余を気を遣ってもらいすぎないように簡潔に問う。お前はなぜ戻る道を、まだ探していると言いながらここまで来た」


透は答えに、わずかな間を置いた。


「戻る道を探すには、まず立つ場所が要りました」


「立つ場所」


「足場のない人間はどこへ行くべきかすら選べません。私はここで、足場を頂きました」


王は頷いた。


「答えになっている」


彼は手元の細身の剣を、右の従者から受け取った。剣身は短く装飾がほぼなく、刃の先がわずかに鈍くしてある儀礼用の剣だった。それを透の左肩右肩再び左肩に、軽く触れさせた。


「我が王権の名のもとに。マジマ・トオルをアストレア王国名誉騎士として、認める」


拍手が広間の柱と柱の間で、こだました。


透は深く頭を下げた。下げる動作は、彼の身体が一番慣れている動作だった。だが今頭を下げる相手が客ではなかった。客ではない誰かに頭を下げるという新しい姿勢の中で彼の喉の奥に、一筋の熱が走った。


彼はその熱の名前を、まだ付けることができなかった。


頭を下げ続けるあいだ、彼の頭の中では別の光景が走馬灯のように回っていた。コンビニのレジで、客に頭を下げるときの自分。そのときの自分の中で、本当に動いていたのは客への礼ではなく、ただ「責められないように」という防御だった。それと、今この大広間で、王に頭を下げているときの動作は、形が同じで、中身が違う。中身が違うことに、彼は今初めて気づいた。


あれは、防御だった。


これは、礼だ。


形は同じでも彼の身体の中で、別の臓器が動いていた。


彼は腰を伸ばした。


リシェルが彼の左の袖口を、指で軽く撫でた。


「肩」


透は意識して、肩を一度落とした。


落とせた。


落とせたことに彼自身が、わずかに驚いた。


叙勲式の半ば東門のほうから別の足音が行列を成して近づいてきた。


透の隣のリシェルがわずかに顔を引き締めた。


「来たわね」


「どなたですか」


「帝国からの和平使節。先月、応諾の書状が届いていたの。間が悪いことに、今日と重なった」


「間が、悪いというより」


「ええ。意図的でしょう」


広間の入り口に、騎士の列が入ってきた。彼らの装備は王国のそれより、革と鋼の比率がやや鋼に寄っていた。布の地は黒く紋章の中央に赤い竜が一頭、口を開けて飛んでいた。


赤い竜。


透の指先が、ほんの一瞬強張った。


彼が宿屋の襲撃の夜馬の鞍に見た紋章だった。


彼の頭の中でいくつもの線が、急速に繋がり始めた。襲撃の主が、帝国だったのか。帝国の使節が、和平の名目で来ているのか。だとすれば、今日ここに来ているのは──。


列の中央を、長身の老人が歩いていた。


背筋がまっすぐで足の運びに無駄がなく左の腰に、装飾豊かな細身の剣を提げている。年齢は六十前後。白に近い銀髪を後ろで束ね、顎髭は短く整えてある。


彼は王の玉座の前で、深く一礼した。礼の角度は、政治家の礼の角度だった。


「ドラケン帝国、枢密顧問。ガルディア・ヴェルヘイムと申します」


彼の声は低くよく響いた。


透の身体はその声に対してなぜか十分の一秒だけ、反応が遅れた。なぜ反応が遅れたのか、彼自身にも分からなかった。


ガルディアは王に向かって長い口上を述べた。両国のあいだの古い友誼。最近の国境付近の小競り合いの不幸。誤解を解くための来訪。要旨は穏やかで、礼節の角度に過不足がなかった。だが言葉のあいだの間の取り方は政治家のものではなくもう少し、別の種類の人間のものだった。


「あの男」と隣のリシェルが囁いた。「政治家じゃない。商売人の話し方をする」


透は答えなかった。


答えなかったのは彼がその商売人の話し方を、どこかで聞いたことがあったからだった。


聞き覚えのある声、というより、聞き覚えのある「間」だった。


口上を終えたガルディアが王の前から下がった。彼は王の隣のリシェルに形式的な拝礼をした。それからリシェルの隣に立つ透のほうに、視線を移した。


視線が合った。


ガルディアの目は灰色がかった青で、年齢相応に透明度を失っていた。だが視線そのものは若い頃の鋭さを、まだ削り切られていない種類の目だった。


透は儀礼通りに、軽く頭を下げた。


そのとき。


彼の身体が五年間毎日何千回と発してきた一文を、勝手に口にした。


「ありがとうございました、またのご来店をお待ちしております」


声は低く滑らかで、感情がなかった。


それは前世の彼が客が店を出るときに発する、定型の挨拶だった。


彼自身なぜ今その文を発したのか、分からなかった。


発した瞬間彼の身体が一段、冷えた。


冷えたというより、凍った。


ガルディアの顔が、変わった。


最初の半秒、表情は変わらなかった。だがその半秒のあいだに彼の瞳孔が、わずかに開いた。次の半秒で口の端が笑いの形からほぐれて、別の形になりかけた。次の一秒で彼の右手が儀礼の位置からわずかにずれた。それは剣の柄に伸びかけて、止まった指の動きだった。


広間の他の誰も、それに気づかなかった。リシェルすら、気づかなかった。


だが透だけが、それを見た。


ガルディアの口がほぼ無音で、ある一つの言葉を作った。


「貴様」


透の心臓が一度強く打った。


「あの店の」


ガルディアは口を、もう一度動かした。


「あの夜の」


透は息ができなかった。


「あのレジ打ちか」


最後の音節は、声になってわずかに漏れた。


透の隣のリシェルがその声を聞いた。「ねえ」と彼女が囁き始めかけた。


ガルディアはそれを遮るように深く一礼した。礼は、一礼以上の沈黙を埋める動作だった。


「失礼いたしました。少々長旅で、目眩を覚えただけでございます」


彼は王に向かって謝罪し、列の前に戻った。歩く足取りは一礼の動きの直前と、寸分違わなかった。


だが透はその歩幅の中に、見覚えのあるものを見つけてしまった。


それは前世のあの男──黒沢健司──がコンビニのレジ前を離れていくときの、わずかに片肩を落とす癖だった。


歳が三十離れていた。


顔の作りも髪の色も、肌の張りも違っていた。


だが肩の落ち方が、同じだった。


叙勲式は、滞りなく終了した。


リシェルは透の腕に、軽く触れた。


「マジマ。あの使節と、何かあった?」


「いえ、何も」


「彼あなたに、何か言ったわね」


「目眩だったそうです」


「目眩であんな顔色になる人を私は、見たことがないわ」


透は答えなかった。


リシェルはそれ以上、押さなかった。彼女は透が話したくないことを押して引き出すのが上手な王女ではなかった。彼女はそれを「自分の欠点」だと思っていたが、透はそれが彼女の長所だと思っていた。


その日の夜城の客間で透は窓の外の二つの月を、長く見つめていた。


月の片方が、欠けていた。


彼は窓に額を寄せた。


ガルディアの肩の落ち方が頭の中で、何度も再生された。再生されるたびに彼は認めたくない結論を近づけては遠ざけ近づけては遠ざけ、を繰り返した。


最後に彼は認めた。


「黒沢がここに、いる」


口の中だけで、彼は呟いた。


呟いた瞬間彼の中で、いくつもの数字が動き始めた。彼が刺された夜黒沢はレジ前で胸を押さえて崩れた。心臓発作。あれが、彼の前世の最後だった。だとすれば黒沢はあの夜自分の前世の身体を、失った。


ガルディアの年齢は、六十前後。


今この世界で、彼は枢密顧問の地位にある。


六十前後の彼がこの世界に転生してきたのは若い頃だ。たぶん彼が二十代後半か、三十代の頃。


そこから三十年彼はこの世界で、地位を築いてきた。


透がこの世界に来てからまだ半年も経っていない。


透はガルディアより三十年遅れて、来た。


彼の指が震えた。


震えた指で彼は窓の縁を握り直した。


窓の縁の冷たさが、彼の指に染みた。


部屋の扉が軽く二度叩かれた。


「マジマ」


リシェルの声だった。


透は布で目を拭い、扉を開けた。


リシェルは夜着の上に薄い肩掛けを羽織っただけの姿で、廊下に立っていた。彼女の手には紙が一枚、握られていた。


「あなた、寝ないわね」


「すみません」


「謝らないで。私も寝ない人と、話したいの」


彼女は部屋に入ってきた。透は扉を閉めた。


リシェルは紙を、彼に渡した。


「これ、ロランドが城門の警備兵から聞き出した報告書」


透は紙を開いた。


〈帝国使節団・人員確認。枢密顧問ガルディア・ヴェルヘイム。年齢六十二。出身地、不明。三十年前に帝国の中央公文書に名が登場以後、急速に頭角を現す。出身家系来歴いずれも調査されたが、痕跡が確認できず〉


「来歴がない、ということでしょうか」


「ないということは消した、ということ。彼はこの国で言うところの『余所者』なのよ」


「余所者」


「私転位者を何人か、知ってるって前に言ったでしょう」


透は紙の文字を見つめたまま頷いた。


「彼、たぶん転位者だわ」


「私と、同じ」


「ええ」


リシェルは透の顔を、覗き込むように見た。


「あなたなにか、知ってるわね」


透は紙を返した。


「私は」


「言わなくていい」彼女が遮った。「言える時に話してくれればいい。今夜は私はただあなたの隣に座っている人として、ここに来た」


彼女は椅子に腰を下ろした。


透もまた彼女から少し離れた、別の椅子に腰を下ろした。


窓の外で二つの月が、薄い光を投げていた。


彼の中で長く先送りにしてきた問いが、いま初めて形を持って動き始めていた。


彼はまだ生きているかもしれない。


そして葵という名前の妹がその身体の脇で五年間ずっと、彼に話しかけ続けていた。


そして三十年前にこの世界に渡ってきた男がいまこの王城に和平の使節として、立っていた。


偽りの勝利の昼が、本物の問いの夜に変わっていた。


彼の前世がこの世界の頂点で、彼を待っていた。


「殿下」


透は静かに口を開いた。


「あの使節ともう一度話す機会を、いただけるでしょうか」


「公式に、ですか」


「いえ、私一人で可能なら」


リシェルは透の顔を見た。彼女の青と緑のあいだの瞳が火影の中で、揺れた。


「危険よ」


「分かっています」


「危険を承知の上で、なぜ」


「あの人は、私の前世の客でした」


彼の口が彼自身最も避けてきた一文を、初めて空気に出した。


リシェルが息を止めた。


「私を五年間客として虐げ続けた人間です。あの人がここで何をしようとしているのか私は、知らなければいけません」


リシェルは長く彼を見ていた。


「分かったわ。明日私が私的な席を、設ける。ロランドを、近くに置くわ」


「ありがとうございます」


「マジマ」


「はい」


「あなた、変わったわね」


「変わったでしょうか」


「変わったわ。叙勲式のときあなた肩を、自分で落としたでしょう」


透はわずかに俯いた。


「私見ていたの。あれはあなたが自分で自分の身体を、操縦した最初の動きよ。それまではあなたの身体は、いつも誰かの代わりに動いていた」


透は何も答えなかった。


答えなかったが、彼の指がもう震えていなかった。

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