第10章 古代遺跡 ―最初の封印―
古代遺跡の入口は、苔と蔦に覆われていた。
透が最初に踏み込んだとき彼の前世の身体は、その場で静かにうずいた。
うずいた理由を彼自身、最後まで言葉にできなかった。
ただそこは彼が知っているはずのない場所なのに知っている空気の重さがした。
夏の終わり、リシェルから正式な依頼が届いた。
王国西部、ベルナハ平原の北端にある古代遺跡で、最近、周辺の村から「魔物が増えた」「夜になると地面が震える」という報告が相次いでいた。リシェルは王宮魔術院に調査を要請したが、魔術院は人手不足を理由に、外部の冒険者ギルドへ依頼を回した。バランドが透を呼び、依頼書を見せた。
「お前、行くか」
「私は戦闘ができません」
「分かってる。だがな今回の依頼の本筋は戦闘じゃない。遺跡の中の調査だ。お前の整理整頓の力が、必要らしい」
「整理整頓?」
「殿下が直接お前を指名された。理由は俺には分からん。だが王女の指名は、ギルドにとって損のない話だ」
透は依頼書を受け取った。
チームは四人。透聖騎士ガレス宮廷魔導師見習いのフィオナ、そして斥候のヴィオラ。
ヴィオラと書かれた名前を見て透の指が紙の上で一瞬止まった。
集合の朝王都の北門の前で、四人が顔を合わせた。
聖騎士ガレスは三十代後半の、肩幅の広い男だった。鎧は王国の正規装備で、剣の柄に家紋が彫られていた。家紋は、麦の穂と剣が組み合わさったものだった。彼は透を一瞥して、頷いた。
「俺がガレス。よろしく頼む」
「真島透です」
「お前さんの揚げ物は、王宮の朝食で食ってる」
「光栄です」
「俺は塩を強くしてくれた方がうまいと思ってる」
「次の納品から塩バリエーションを追加します」
ガレスは笑った。少しだけ、彼の眉間の皺が緩んだ。
フィオナはまだ十代後半の、痩せた女だった。長い髪を後ろで一つに束ね、紺の魔導師の外套を着ていた。彼女は透に向けて、軽く頭を下げた。
「フィオナです。よろしくお願いします。私まだ見習いで、戦闘魔法はほとんど」
「いえ。観測は得意ですよね」
「え、なぜ」
「魔術院から調査担当として推薦されたと、書いてありました」
「あ、はい。観測魔法は、得意です」
「では私の方がたぶん役に立たないと思うので、頼ります」
フィオナは少しだけ、笑った。
ヴィオラは最後に来た。
彼女は何も言わずに、四人の中に加わった。
透と一秒、目が合った。
彼女の口の端が、ほんのわずかに上がった。
透もそれを返した。
それで、二人の挨拶は終わった。
馬車で三日かけて、ベルナハ平原に到着した。
平原の北端丘陵の影に、遺跡があった。
円柱が三本立っていて二本は折れ、一本だけが原型を保っていた。地面には半分埋まった石板が並び入口らしき洞穴が、丘の腹に黒く口を開けていた。洞穴の入口の周りに、苔と蔦が密生していた。
ガレスが先頭を切りフィオナが二番目透が三番目、ヴィオラが最後尾を守った。
中に入ると、空気が一気に冷えた。
天井は、外から見たより高かった。地下の通路が想像していたより広く、奥に向かって緩やかに下っていた。フィオナが指先に小さな光球を灯し、それを天井に浮かせた。光球が四人の周囲だけ、白く照らした。
透の身体は、その瞬間奇妙にうずいた。
彼の前世の身体があの深夜のコンビニの裏倉庫を、思い出した。
通路の先の奥にあるのは何かの「業務空間」だった。
彼にはまだ根拠がなかった。だが彼の身体がそう判断していた。
三十分ほど進んだ先に、広い祭壇の間があった。
天井がドーム状に開け、中央に円形の祭壇が据えられていた。祭壇の上には文字盤と鍵穴と、薄い木の板が並んでいた。木の板は、何かの記録のように見えた。
ガレスが「これは何だ」と短く呟いた。
透は無言のまま祭壇に近づいた。
近づきながら彼の身体は視線で、構造を読み取った。
中央に、大きな円。その周囲に、七つの小さな円。各円の中に、文字盤と鍵穴と板。
七つ。
彼が燃えた宿屋で旅商人の机から拾った図面と、同じ配置だった。
祭壇の周囲の床には、模様が彫り込まれていた。透はその模様を、自分の身体が知っている何かに重ねようとした。重なった。前世のコンビニのバックヤードに貼られていた業務フローチャートと、同じ構造だった。誰が何をいつ誰から誰へ、どうやって渡すか。それを矢印と枠で示した、最も基本的な業務マップ。あれとまったく同じ構造の模様がこの古代の祭壇の床に、彫り込まれていた。
透は息を止めた。
業務フローチャートが、世界の創世期の儀式の床に刻まれている。
その意味が彼の身体には、まだ収まりきらなかった。
彼は革のバンドの中から図面を取り出した。月の光ではないフィオナの光球の下で図面の線と目の前の祭壇の配置が、完全に重なった。
「フィオナさん」
「はい」
「これ、見ていただけますか」
彼は図面を見せた。
フィオナは図面を受け取り、目を見開いた。
「これ、どこで」
「燃えた宿の、商人の机にありました」
「これは、封印図ですよ」
「封印図」
「教科書の中でしか見たことがない、古代の封印鍵の配置図です」
ガレスが横から覗き込み、低く呻いた。
「……マジマお前これをずっと、持ち歩いていたのか」
「はい」
「これを持っていた商人は、たぶん暗殺された」
「やはりそうですか」
「お前、危ない」
ガレスは透の肩を軽く叩いた。
ヴィオラが祭壇の脇の石碑に手をかざした。
彼女の指先が石碑の表面の文字を、なぞった。
「マジマ。これ、読める」
「読めるんですか」
「古エルフ語の、混じった言葉。私の母が、教えてくれた」
彼女は長く文字を追ってから低く読み上げた。
「『前任の守護者より後任の守護者へ。封印鍵第三十七番月光石の補充は欠けの月の夜に。東門の魔力結界の歪みは、子午線の正中時に修復。これを、引き継ぐ』」
彼女が読み終えた瞬間透の足元が、わずかに震えた。
震えたのは地面ではなく、彼自身の身体だった。
彼はヴィオラの読み上げた文字列を頭の中で、もう一度繰り返した。
「前任の守護者より、後任の守護者へ」
「封印鍵第三十七番、月光石の補充」
「東門の魔力結界の歪みの修復」
「これを、引き継ぐ」
それは、引き継ぎノートだった。
業務メモの様式でしかし世界の根幹に関わる規模で、書かれていた。
彼の身体は、震えを止めなかった。
彼は祭壇の側面に、もう一つ別の石板があるのを見つけた。そこには古エルフ語ではない、もっと新しい文字が刻まれていた。
ヴィオラが続いて読んだ。
「『この封印を、ありがたく受け継いだ。守護者・第百十二代・テオドラ・アルメニアン』」
「最後の引き継ぎは、いつのものですか」
透が問うた。
フィオナが祭壇の文字盤の年代を、観測魔法で調べた。
「およそ三百年前です」
「三百年前」
「最後の守護者の引き継ぎが三百年前で、止まっています」
透の喉が乾いた。
彼は祭壇の中央の大きな円を見た。
円の中央に、丸い穴が開いていた。鍵を差し込む穴だった。
その穴の周囲に黒い煤のような汚れが、薄く広がっていた。
彼の身体はその煤を見て、判別した。
三百年誰も、ここに来ていない。
誰も、引き継ぎを完了させていない。
その夜四人は遺跡の入口近くで野営した。
焚き火を囲んで、ガレスがエールを少しだけ回した。フィオナはお茶を啜り、ヴィオラは黙って薪の火を見ていた。透は焚き火の前で、自分の手のひらを見つめていた。
ガレスが沈黙を破った。
「マジマお前、震えていたな」
「はい」
「あれは、何だ」
「分かりません」
「分からない、では済まない感じだったぞ」
透は深く息を吸った。
「私の前世の言葉で世界のもっとも根本にある仕組みが、書かれているのを見た気がしました」
「前世」
「私は、別の世界から来ました」
ガレスは透を長く見た。
それからふっと息を抜き、肩を緩めた。
「そうか。だろうなと、薄々思ってた」
「驚かれませんか」
「驚いたよ。だがお前の動き方が誰のものでもない動き方だったからたぶん別の世界の人間なんだろうな、と思ってた」
ヴィオラが静かに頷いた。
「私も、知ってた」
フィオナが目を見開いた。
「皆さん、知ってたんですか」
「あの饅頭の作り方、こちらの世界の誰の作り方とも違うわ」
ヴィオラがそう言った。
「私の母がエルフの森から世界中を旅したけど誰の作り方とも違うって母の昔話で、聞いたことがある」
透は俯いた。
「皆さんに隠していて、申し訳ありません」
「謝るな」
ガレスが言った。
「お前が誰でもお前の動き方はお前の動き方だ。俺たちはお前の動き方を、信頼している。それで、十分だ」
透は頭を下げた。
頭を下げた瞬間彼の喉にまた塩辛い熱がのぼった。
ガレスはエールの杯を、また少しだけ回した。
「マジマひとつだけ、聞いていいか」
「はい」
「お前の前世は戦の世界か、平和な世界か」
「平和な世界です」
「その世界で、お前は何をしていた」
透はしばらく答えに迷った。
答えに迷ったが、嘘をつくのは彼の身体には合わない動作だった。
「夜中の小さな店で、商品を売っていました」
「店」
「はい」
「商人か」
「いえ。雇われていただけです」
「でお前はその仕事の経験を、こっちで使っているのか」
「はい」
ガレスは長く沈黙してから笑った。
「そんな世界の夜の小さな店の店員がこっちの世界の祭壇の構造を、一目で見抜いたってわけだ」
「結果として、です」
「お前の前世の夜の小さな店でお前が学んだことはこっちの世界の祭壇よりも深い、ってことになる」
「私はそう、思いたくありません」
「なぜ」
「私の前世の店は誰にもありがたがられない場所でした。私はその場所で五年間地味な仕事をしていただけです。地味な仕事が世界の根幹に繋がっているのなら私の前世の場所が不当に、軽く扱われていたという意味になります」
「軽く扱われていたならお前も、軽く扱われていたんだろう」
「はい」
「それが、苦しかったか」
透はしばらく答えなかった。
答えなかったあと、彼は短く言った。
「苦しかった、と気づくのも今初めてです」
ガレスは深く頷いた。
それからエールを一気に飲んだ。
「マジマお前の店はこっちの世界では軽く扱われない。俺が保証する。お前が築いた揚げ物の店もギルドのノートもたぶんこの祭壇の引き継ぎとも、同じ重さがある」
「ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。礼は世界を救ったあとで、聞く」
その夜彼は焚き火から少し離れた場所で、横になって眠ろうとした。
眠りに落ちる直前彼の耳にまた声がした。
「お兄ちゃん、今日ね」
「葵」
彼は呟いた。
名前を呟いた瞬間に彼の中で五年間薄い膜の向こうにあった顔が、初めて向こう側から彼に向かって笑った。
笑顔は、十一歳の彼女のものではなかった。
もっと年上の十六歳くらいの、彼の妹の顔だった。
だが笑顔は、彼が知っている笑顔だった。
「葵」
彼はもう一度呼んだ。
彼の妹の声は、それに応えた。
「お兄ちゃん私、待ってるよ」
透は目を開けた。
夜の空に二つの月が、薄く光っていた。
彼の頬は、いつのまにか濡れていた。
彼はそのまましばらく空を見上げていた。
動かなかった。
動けなかった。
彼の中でずっと先送りにしてきた問いが、ようやく形を持ち始めていた。
彼はどこかで、生きている。
彼の身体はたぶん彼の前世の世界のどこかで、まだ息をしている。
そして彼の妹はその身体の脇で五年間ずっと、彼に話しかけ続けていた。
彼の喉が声にならない一音を、絞り出した。
焚き火の向こう側で、ヴィオラがこちらをじっと見ていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ、彼が落ち着くまで見ていてくれた。
透は彼女のほうへ顔を向けた。
ヴィオラは軽く、頷いた。
それで彼の夜は少しだけ、楽になった。




