第96話 異物の顕現
大聖堂前の広場は、静まり返っていた。
数千の人間が集まっているにもかかわらず、ざわめきはない。
誰もが、壇上の一点を見つめている。
巫女――ヨーコ。
白い衣。
揺らぎのない姿勢。
その存在が、“正しさ”を保証していた。
「……神の言葉を、お伝えします」
声が、落ちる。
空気が引き締まる。
その瞬間だった。
――先に、現れたのは別の存在だった。
巫女の背後。
空間が、わずかに歪む。
透明な面が展開される。
そして。
そこに現れたそれは、あまりにも場違いだった。
白を基調とした、小さな猫。
丸みを帯びた体に、短い手足。
片方の前足を、ゆっくりと持ち上げている。
――招き猫。
だが、どこか違う。
耳の形。
目つき。
口元の緩み方。
妙に見覚えがある。
気の抜けたような、あの表情。
真面目なのかふざけているのか分からない顔。
ユージに似ている。
いや――
**そのままだった。**
胸元には申し訳程度の小判。
耳の横あたりまで上げられた前足は、本来なら遠くの福を招く型のはずだが、
その仕草にもどこか“やらされている感”がある。
完成された縁起物のはずなのに。
妙に、軽い。
妙に、適当で。
そして決定的に。
この神聖な空間には、似合っていなかった。
ユージは、それを見た瞬間、顔をしかめた。
「……おい」
小さく、しかしはっきりとした声。
「あれ、俺の黒歴史のキャラクターじゃねえか」
「なんで出す?」
「必要あるか?」
ナーチャンが一瞬だけ視線を向ける。
「視認性と親和性を考慮した結果です」
「余計な配慮すんな」
「最適化です」
「やめろ、その言い方」
リシュンが肩を震わせている。
「いやー、いいじゃん」
「分かりやすくて」
「誰にだよ」
「民衆にだよ」
「俺、知られてないだろ」
「これから知られるんだよ」
「最悪だ」
だが。
その軽口の最中にも。
ユージにゃんの頭上に浮かんだ吹き出しが、言葉を示す。
――人は、正しき道を求めるものです
ヨーコが口を開く。
「人は、正しき道を求めるものです」
完全に一致。
そして。
順序が、逆だった。
先に示されたのは、ユージにゃんの言葉。
巫女は、それをなぞるように続いている。
空気が、揺れた。
誰も声を上げない。
上げられない。
この場での私語は禁じられている。
それは絶対の規律だ。
だが。
視線が、動いた。
ほんのわずかに。
何人かが、顔を上げる。
見てしまった。
見てはいけないものを。
ユージにゃんが、次の言葉を出す。
――迷いは苦しみを生み
ヨーコが続ける。
「迷いは苦しみを生み」
また一致。
そして、また先行。
群衆の表情が、変わり始める。
誰も口を開かない。
整然と並んだまま。
正しく立ったまま。
ただ。
その目だけが、揺れていた。
驚愕。
困惑。
理解不能。
それでも。
姿勢は崩れない。
ここは、聖なる場だからだ。
ユージが小さく呟く。
「……笑えねえな、これ」
リシュンが口元を歪める。
「いいだろ」
「“予言”より先に“答え”を出す」
「一番効くやつだ」
ナーチャンが静かに言う。
「人は、先に提示された情報を基準に判断します」
「後から提示されたものは、参照される側になります」
ユージが頷く。
「つまり」
「巫女が“正解”じゃなくなる」
「はい」
短い肯定。
アルノルトが数値を確認する。
「一致率、九八・二%」
「十分です」
ヨーコは、気づかない。
ただ、神託を続ける。
正しく。
完璧に。
その背後で。
もう一つの“正しさ”が、先に語られている。
群衆の中で。
誰も言葉を発しないまま。
何かが、崩れ始めていた。
比較してしまった。
見比べてしまった。
その瞬間に。
絶対は、絶対でなくなる。
リコは壇上を見つめていた。
「……ヨーコ……」
その背後で。
ユージにゃんが、次の言葉を準備している。
無機質に。
正確に。
迷いなく。
そして。
巫女よりも、先に。
沈黙は、守られている。
だが。
その内側では。
均衡が、音もなく崩れ始めていた。




