第87話 リコの覚悟
宿に戻った頃には、すでに夜も更けていた。
聖王国の夜は相変わらず静かだ。
酔客の笑い声も、路地裏の騒ぎもない。
ただ、決められた時間に灯りが落ち、決められた時間に人が眠る。
整いすぎた夜。
それが逆に、落ち着かなかった。
テーブルの上に簡単な地図とメモが並ぶ。
ナーチャンが、淡々と状況を整理していた。
「本日の接触により、いくつかの事実が確定しました」
紙の上にペン先が静かに触れる。
「巫女の行動範囲は極めて限定的」
「接触可能な人物は厳しく管理されています」
「外部情報の流入も制限されている可能性が高い」
「簡単に言うと?」
「ほぼ隔離状態です」
ナーチャンは即答した。
言葉は淡々としているが、内容は重い。
リコは黙って聞いていた。
両手を軽く組んだまま、視線を落としている。
「精神状態についても懸念があります」
ナーチャンが続ける。
「外部との比較対象を持たない環境が長期間続くと、人は提示された価値観を疑う機会を失います」
「自分の意思で選んでいると錯覚しやすくなる」
「洗脳、ってやつか」
「そこまで単純な話ではありません」
ナーチャンは首を横に振る。
「人は環境に適応します」
「適応の結果として、疑問を持たなくなる」
「むしろ自然な反応です」
リコの指先が、わずかに強く組まれた。
「つまり」
ユージが言う。
「助けようとしても、本人が拒否する可能性もあるってことか」
少しだけ、間が空いた。
「はい」
ナーチャンは静かに答えた。
「長期間その環境にある場合、現状を維持しようとする心理が働きます」
「変化は不安を伴いますから」
部屋の空気が少しだけ重くなる。
「さらに」
ナーチャンは続けた。
「神託の構造に踏み込む場合、聖王国の中枢と直接対立する可能性があります」
「宗教的権威の否定と受け取られるリスクもある」
「外交問題だな」
「はい」
ナーチャンは頷いた。
「最悪の場合、敵対行動と見なされる可能性も否定できません」
リコはゆっくりと顔を上げた。
「……それでも」
小さな声だった。
だが、迷いはなかった。
「助けたいの」
言葉を探すように、一度視線を落とす。
「今日見たあの子」
「私の知ってるヨーコじゃなかった」
指先に力が入る。
「でも」
「絶対に、あんな顔で生きたいなんて思う子じゃない」
少しだけ笑う。
懐かしむように。
「昔ね」
「あの子、よく転んでたの」
「注意しても、すぐ走り出すから」
「で、また転んで」
「膝を擦りむいて泣くの」
静かな声。
「でも」
「泣きながらでも、また立ち上がる子だった」
視線が揺れる。
「迷っても」
「間違えても」
「ちゃんと自分で選ぶ子だった」
ゆっくりと息を吸う。
「だから」
「今のあの子は」
「違う」
はっきりと言った。
「もし」
「本当にあの場所に縛られているなら」
「助けたい」
迷いのない声だった。
「危険でも?」
ユージが確認する。
「ええ」
「聖王国を敵に回すかもしれないぞ?」
「構わない」
即答だった。
「私にとっては」
「家族の方が大事だから」
ナーチャンは静かに頷いた。
「意思確認、完了しました」
「おい、業務みたいに言うな」
「重要な工程です」
ユージは小さく笑った。
そして、軽く肩を回す。
「わかった」
短く言う。
「俺に任せろ」
いつも通りの調子。
大げさでもなく、気負いもない。
「これでも俺は、奇跡の男って呼ばれているんだぜ」
「自称ですね」
「うるさい」
ナーチャンを軽く睨む。
そして続けた。
「ナーチャンたちもいいな?」
「はい」
即答だった。
「ユージさまの思う通りになさってください」
「責任はすべてユージさまに帰属します」
「おい」
「冗談です」
表情は変わらない。
「半分は本気だろ」
小さくため息をつく。
だが、その顔は少し楽しそうだった。
「よし」
手を軽く打つ。
「じゃあ」
「次は技術戦だ」
リコが少しだけ首をかしげる。
「技術?」
「相手は“神託”だろ」
ユージは言った。
「なら」
「同じ土俵に立つ必要がある」
「正体を暴くには、仕組みを理解しないとな」
ナーチャンが頷く。
「分析対象としては非常に興味深い事例です」
「研究目的じゃないからな」
「半分くらいは研究です」
「否定しないのかよ」
ユージは笑って言った。
「じゃあ」
「早速呼んで欲しい奴らがいる」
「かしこまりました」
ナーチャンが予期していたかのように答える。
静かな夜。
整いすぎた国の片隅で。
少しだけ。
予定外の歯車が回り始めていた。




